■杉本武之プロフィール

1939年 碧南市に生まれる。

京都大学文学部卒業。

翻訳業を経て、小学校教師になるために愛知教育大学に入学。

25年間、西尾市の小中学校に勤務。

定年退職後、名古屋大学教育学部の大学院で学ぶ。

〈趣味〉読書と競馬

 

【32】松尾芭蕉

◎松尾芭蕉について

 日本の文学史において最大の文学者は誰かと問われたら、私は、しばらく考えた後で、松尾芭蕉であると答えるでしょう。

 候補者として、私の頭の中で、万葉歌人の柿本人麻呂、『源氏物語』の紫式部、『徒然草』の兼好法師、『奥の細道』の松尾芭蕉、『吾輩は猫である』の夏目漱石などが浮かび上がります。しかし、私自身の好みと客観的な評価から、日本の最大の文学者は松尾芭蕉であると思います。

 芭蕉は、生涯におよそ千句の俳句を作りました。私の好きな句を並べてみます。「秋深し隣は何をする人ぞ」

「野ざらしを心に風のしむ身かな」「山路来て何やらゆかしすみれ草」「草臥れて宿かる頃や藤の花」「閑さや岩にしみ入る蝉の声」「荒海や佐渡に横たふ天の川」

 芭蕉は、数々の名句の他に、『奥の細道』や『野ざらし紀行』などの紀行文、「幻住庵記」や「芭蕉を移す詞」などの俳文を書きました。どれも傑作です。

 ここで、芭蕉が自分の生涯を顧みて心情を吐露した「幻住庵記」の終わりの部分を読んでみましょう。こういうのを名文と言うのだと思います。

 「……かくいへばとて、ひたぶるに閑寂を好み、山野に跡を隠さむとにはあらず。やや病身、人に倦で、世を厭ひし人に似たり。つらつら年月の移りこし拙き身の科を思ふに、ある時は仕官懸命の地をうらやみ、一たびは仏離祖室の扉に入らむとせしも、たどりなき風雲に身をせめ、花鳥に情を労して、暫く生涯のはかり事とさへなれば、終に無能無才にして此の一筋につながる」

(大意……こう言ったからといって、ひたすら閑寂を好み、山や野に隠れてしまおうというのではありません。少し病身のことでもあり、人との付き合いが煩わしくて、世間から離れているといったところです。つくづくと、愚かな自分の過ちの多い過去を回想すると、ある時は主君に仕えて俸禄を貰える身分を羨ましく思ったし、またある時は仏門に入って僧侶になろうかと思ったこともありました。しかし、やはり私は、ゆくえ定めぬ旅の風雲に身を苦しめ、花鳥風月に心を労していました。そして、暫くの間はそれで生計が立てられましたので、とうとう無能無才のまま、この俳諧という一筋に繋がり、そこから離れられなくなってしまったのです)

 

◎『奥の細道』

 芭蕉の代表作は「奥の細道」です。有名な冒頭の部分は、中学の国語の教科書に載っていました。また高校の古文の授業で詳しく教えてもらいました。何度も何度も読んだので、すっかり暗記してしまい、今でもすらすら暗唱できます。

 「月日は百代の過客にして、行きかふ年も旅人なり。舟の上に生産を浮かべ、馬の口とらへて老いを迎ふる者は、日々旅にして、旅を栖とす。古人も多く旅に死せるあり。予も、いづれの年よりか、片雲の風にさそはれて、漂泊の思ひやまず、海浜にさすらへて、去年の秋、江上の破屋に蜘蛛の古巣を払ひて、やや年も暮れ、春立てる霞の空に、白河の関越えんと、そぞろ神の物につきて心を狂はせ、道祖神の招きにあひて、取るもの手につかず……」

(大意……月日は永遠の旅人であり、来ては去り、去っては来る年も、また旅人である。舟の上で生涯を過ごす船頭も、馬を引いて老いを迎える馬子も、その日その日が旅であり、旅を栖としている。風雅に生きた古人も旅の途中で死んだ人が多い。私も、いつの年からか、ちぎれ雲を吹き飛ばす風にまかせて歩く漂泊の思いが止まず、海浜地方をさまよい歩いて来た。去年の秋、墨田川の辺の破れ小屋である芭蕉庵に戻り、蜘蛛の古巣を払って、ようやく年も暮れた。新しい年が来ると、立春の霞んだ空の下を歩いて白河の関を越えたいものだと、そぞろ神に取り憑かれて物狂おしくなり、また道祖神が早く旅に出てこいと招いているようで、落ち着いて何も手につかなくなってしまった……)

 元禄2年(1689)3月27日(現今の陽暦で5月16日)、芭蕉は門人の曽良と共に江戸深川を出発しました。奥州各地を行脚し、北陸を経て、8月下旬、美濃大垣に着きました。そして、9月6日に伊勢の遷宮を拝もうと大垣から舟に乗り込みました。

 この旅は、関東、奥羽、北陸、東海の13カ国にわたりました。全行程は600里、所要日数は5カ月半に及ぶ、命を懸けた長い旅でした。

 芭蕉は、旅から戻ってから腹案を練り、何度も稿を改め、5年後の元禄7年に決定稿が出来ました。芭蕉が死んだのは、その年の10月12日でした。

 金沢の願念寺の住職である月輪さんは、私の大学の同級生です。330年前、芭蕉は、月輪さんのお寺で、あの有名な「塚も動け我が泣く声は秋の風」を作りました。

 『奥の細道』の金沢の部分を読んでみましょう。

 「卯の花山・倶利伽羅が谷を越えて、金沢は七月中の五日なり。ここに大坂より通ふ商人何処といふ者あり。それが旅宿をともにす。

 一笑といふ者は、この道に好ける名のほのぼの聞こえて、世に知る人もはべりしに、去年の冬、早世したりとて、その兄、追善を催すに、『塚も動け我が泣く声は秋の風』」

 田辺聖子の『おくのほそ道を旅しよう』(角川ソフィア文庫)は、実に楽しい本です。この本と、同じ文庫の『新版・おくのほそ道』を参考にして、私なりに解説します。

 芭蕉は、7月5日(今の暦では8月29日)に、卯の花山と倶利伽羅峠を越えて、金沢に到着した。芭蕉は、金沢に着くと、同行した曽良の日記によれば、京屋吉兵衛の所に宿を取った。そして、金沢に来たら会おうと楽しみにしていた竹雀と一笑へ通知した。まもなく竹雀が訪れて来て、小杉一笑が去年の12月6日に亡くなったことを知らせた。芭蕉は驚き悲しんだ。小杉一笑は、金沢で葉茶屋を営んでいた。金沢蕉門の中でも芭蕉が頼りにしていた門人で、芭蕉は彼の才能に注目していた。その一笑がすでに亡くなっていたのだ。彼の兄が、弟の追善の句会を、墓(塚)のある願念寺で催した。参加した芭蕉は「塚も動け我が泣く声は秋の風」と詠んだ。

 その時の追善の句集『西の雲』の序によれば、芭蕉は「あはれ年月我を待ちしとなん。生きて世にいまさば、越の月をも共に見ばやとは何思ひけん」と述べ、泣く泣く墓に詣でて回向の袖を絞ったということです。芭蕉が号泣したその一笑の墓が友人の寺にあるのです。寺の山門の向かって左には、「塚も動け」の句碑が立っています。

 

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【32】松尾芭蕉

◎松尾芭蕉について

 日本の文学史において最大の文学者は誰かと問われたら、私は、しばらく考えた後で、松尾芭蕉であると答えるでしょう。

 候補者として、私の頭の中で、万葉歌人の柿本人麻呂、『源氏物語』の紫式部、『徒然草』の兼好法師、『奥の細道』の松尾芭蕉、『吾輩は猫である』の夏目漱石などが浮かび上がります。しかし、私自身の好みと客観的な評価から、日本の最大の文学者は松尾芭蕉であると思います。

 芭蕉は、生涯におよそ千句の俳句を作りました。私の好きな句を並べてみます。「秋深し隣は何をする人ぞ」

「野ざらしを心に風のしむ身かな」「山路来て何やらゆかしすみれ草」「草臥れて宿かる頃や藤の花」「閑さや岩にしみ入る蝉の声」「荒海や佐渡に横たふ天の川」

 芭蕉は、数々の名句の他に、『奥の細道』や『野ざらし紀行』などの紀行文、「幻住庵記」や「芭蕉を移す詞」などの俳文を書きました。どれも傑作です。

 ここで、芭蕉が自分の生涯を顧みて心情を吐露した「幻住庵記」の終わりの部分を読んでみましょう。こういうのを名文と言うのだと思います。

 「……かくいへばとて、ひたぶるに閑寂を好み、山野に跡を隠さむとにはあらず。やや病身、人に倦で、世を厭ひし人に似たり。つらつら年月の移りこし拙き身の科を思ふに、ある時は仕官懸命の地をうらやみ、一たびは仏離祖室の扉に入らむとせしも、たどりなき風雲に身をせめ、花鳥に情を労して、暫く生涯のはかり事とさへなれば、終に無能無才にして此の一筋につながる」

(大意……こう言ったからといって、ひたすら閑寂を好み、山や野に隠れてしまおうというのではありません。少し病身のことでもあり、人との付き合いが煩わしくて、世間から離れているといったところです。つくづくと、愚かな自分の過ちの多い過去を回想すると、ある時は主君に仕えて俸禄を貰える身分を羨ましく思ったし、またある時は仏門に入って僧侶になろうかと思ったこともありました。しかし、やはり私は、ゆくえ定めぬ旅の風雲に身を苦しめ、花鳥風月に心を労していました。そして、暫くの間はそれで生計が立てられましたので、とうとう無能無才のまま、この俳諧という一筋に繋がり、そこから離れられなくなってしまったのです)

 

◎『奥の細道』

 芭蕉の代表作は「奥の細道」です。有名な冒頭の部分は、中学の国語の教科書に載っていました。また高校の古文の授業で詳しく教えてもらいました。何度も何度も読んだので、すっかり暗記してしまい、今でもすらすら暗唱できます。

 「月日は百代の過客にして、行きかふ年も旅人なり。舟の上に生産を浮かべ、馬の口とらへて老いを迎ふる者は、日々旅にして、旅を栖とす。古人も多く旅に死せるあり。予も、いづれの年よりか、片雲の風にさそはれて、漂泊の思ひやまず、海浜にさすらへて、去年の秋、江上の破屋に蜘蛛の古巣を払ひて、やや年も暮れ、春立てる霞の空に、白河の関越えんと、そぞろ神の物につきて心を狂はせ、道祖神の招きにあひて、取るもの手につかず……」

(大意……月日は永遠の旅人であり、来ては去り、去っては来る年も、また旅人である。舟の上で生涯を過ごす船頭も、馬を引いて老いを迎える馬子も、その日その日が旅であり、旅を栖としている。風雅に生きた古人も旅の途中で死んだ人が多い。私も、いつの年からか、ちぎれ雲を吹き飛ばす風にまかせて歩く漂泊の思いが止まず、海浜地方をさまよい歩いて来た。去年の秋、墨田川の辺の破れ小屋である芭蕉庵に戻り、蜘蛛の古巣を払って、ようやく年も暮れた。新しい年が来ると、立春の霞んだ空の下を歩いて白河の関を越えたいものだと、そぞろ神に取り憑かれて物狂おしくなり、また道祖神が早く旅に出てこいと招いているようで、落ち着いて何も手につかなくなってしまった……)

 元禄2年(1689)3月27日(現今の陽暦で5月16日)、芭蕉は門人の曽良と共に江戸深川を出発しました。奥州各地を行脚し、北陸を経て、8月下旬、美濃大垣に着きました。そして、9月6日に伊勢の遷宮を拝もうと大垣から舟に乗り込みました。

 この旅は、関東、奥羽、北陸、東海の13カ国にわたりました。全行程は600里、所要日数は5カ月半に及ぶ、命を懸けた長い旅でした。

 芭蕉は、旅から戻ってから腹案を練り、何度も稿を改め、5年後の元禄7年に決定稿が出来ました。芭蕉が死んだのは、その年の10月12日でした。

 金沢の願念寺の住職である月輪さんは、私の大学の同級生です。330年前、芭蕉は、月輪さんのお寺で、あの有名な「塚も動け我が泣く声は秋の風」を作りました。

 『奥の細道』の金沢の部分を読んでみましょう。

 「卯の花山・倶利伽羅が谷を越えて、金沢は七月中の五日なり。ここに大坂より通ふ商人何処といふ者あり。それが旅宿をともにす。

 一笑といふ者は、この道に好ける名のほのぼの聞こえて、世に知る人もはべりしに、去年の冬、早世したりとて、その兄、追善を催すに、『塚も動け我が泣く声は秋の風』」

 田辺聖子の『おくのほそ道を旅しよう』(角川ソフィア文庫)は、実に楽しい本です。この本と、同じ文庫の『新版・おくのほそ道』を参考にして、私なりに解説します。

 芭蕉は、7月5日(今の暦では8月29日)に、卯の花山と倶利伽羅峠を越えて、金沢に到着した。芭蕉は、金沢に着くと、同行した曽良の日記によれば、京屋吉兵衛の所に宿を取った。そして、金沢に来たら会おうと楽しみにしていた竹雀と一笑へ通知した。まもなく竹雀が訪れて来て、小杉一笑が去年の12月6日に亡くなったことを知らせた。芭蕉は驚き悲しんだ。小杉一笑は、金沢で葉茶屋を営んでいた。金沢蕉門の中でも芭蕉が頼りにしていた門人で、芭蕉は彼の才能に注目していた。その一笑がすでに亡くなっていたのだ。彼の兄が、弟の追善の句会を、墓(塚)のある願念寺で催した。参加した芭蕉は「塚も動け我が泣く声は秋の風」と詠んだ。

 その時の追善の句集『西の雲』の序によれば、芭蕉は「あはれ年月我を待ちしとなん。生きて世にいまさば、越の月をも共に見ばやとは何思ひけん」と述べ、泣く泣く墓に詣でて回向の袖を絞ったということです。芭蕉が号泣したその一笑の墓が友人の寺にあるのです。寺の山門の向かって左には、「塚も動け」の句碑が立っています。