■杉本武之プロフィール
1939年 碧南市に生まれる。
京都大学文学部卒業。
翻訳業を経て、小学校教師になるために愛知教育大学に入学。
25年間、西尾市の小中学校に勤務。
定年退職後、名古屋大学教育学部の大学院で学ぶ。
〈趣味〉読書と競馬
【31】『正法眼蔵随聞記』
◎道元と良寛さん
江戸後期の禅僧・良寛さんは、和歌ほど多くはありませんが、漢詩もたくさん作りました。数多くの漢詩の中で、最もドラマチックな構成と内容を持った作品は『永平録を読む』です。
良寛さんの74年の生涯には、劇的な瞬間が何度かありました。
18歳の時、父親の横暴な態度に反抗して家を飛び出した瞬間。22歳の時、国仙和尚に会って弟子入りが許された瞬間。備中玉島の円通寺で厳しい修行をした後、諸国を行脚するが、40歳の時、生まれ故郷の越後に帰ろうと決意した瞬間。最晩年に、40歳も年下の若くて美しい貞心尼と出会い、心温まる交際が始まった瞬間。
道元禅師の著した『正法眼蔵』と出会った瞬間も、こうした劇的な瞬間に劣らない激烈なものでした。
天明8年(1788)8月15日の夜のことでした。31歳の良寛さんは、円通寺で師の国仙和尚から『正法眼蔵』の教えを受けました。円通寺で修行を始めて10年後のことでした。良寛さんは猛烈なショックを受けます。今までの自分の考え方、生き方は間違っていた。これではいけない。やり直そう。国仙和尚に頼んで、寺にあった『正法眼蔵』の写本を読むのを許可してもらいます。熱心に読み終えると、良寛さんは、道元が教示している生き方を実践するために円通寺を出て、行脚の旅に出ました。
その時の感動を中心にして、自分の心の変化、『正法眼蔵』の素晴らしさ、道元への憧憬、自己反省などを劇的に強い調子で詠んだ詩が『永平録を読む』です。私が七・七調で訳したものを載せます。
春の夜も更け/あたりは暗く/雪まじりの雨/竹林に降る/寂しさ募り/気を鎮めるために/永平録を/読むことにした/香を焚き付け/灯火を点けて/珠玉の文を/開いて読んだ/ああ、思い出す/玉島にいた時/先師が示した/正法眼蔵/その頃すでに/機が熟しており/貴い教えを/実践してみた/このままじゃ駄目と/初めて目が覚め/先師を辞して/諸国を歩いた/ああ、永平とは/ 有縁であった/どこに行っても/永平に出会った/何年間も/参学したが/時には心に/不満が生じた/これじゃならぬと/道を深めた/その後再読/はっきり分かった/諸法の乱立/いかんともしがたく/玉と石との/区別も付かぬ/長らくこの書が/埋もれていたのも/人に見る目が/無かったためだ/永平録は/万人のものだ/いまさら言っても/仕方の無いこと/あれこれ思うと/涙が止まらず/貴い書物を/濡らしてしまった/翌日、隣の/老人が問うた/「何故この本は/濡れているのか」/答えたいが/どうしても言えぬ/心が痛むが/答えられない/しばらく考え/名案を得た/「昨夜の雨で/濡れたのだよ」
ここで取り上げられている「永平録」というのは、書名ではなくて、単に永平(道元禅師)の語録という意味だと思います。そして、それは道元の代表作『正法眼蔵』のことで、良寛さんがその夜に読んだのは「行持」の巻だったと思われます。
玉島の円通寺において、初めて『正法眼蔵』を読み、30歳を過ぎた良寛さんは衝撃を受けました。それほど心を揺すぶられたのは何故だったのでしょうか。どうして、自分は間違っていたと反省したのでしょうか。
道元に出会うまでの良寛さんは、自己探求、自己救済のためだけに修行していたのです。とにかく自分が救われたいという気持ちだけでした。ところが、道元は、自己の修行は、同時にあらゆる人々を救おうとする心がなくてはいけない、と厳しく教えていたのです。自分より他人を先に済度すべきだと説いていたのです。
「菩提心を起こす、といふは、おのれ未だわたらざるに、一切衆生をわたさん、と発願し、いとなむなり」(『正法眼蔵』) 道元と出会うことによって、自己中心だった良寛さんに、他者の幸福という視点ができたのです。宮沢賢治の有名な言葉が思い起こされます。
「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」
◎『正法眼蔵随聞記』
これは、道元の侍者・懐弉(えじょう)が編んだ6巻の書物です。道元の法話を、懷弉が聞いた通りに平易な文章で筆記したもので、理解しやすく、道元自身の姿を生き生きと浮き彫りにしています。1235年から1238年までの3年間に記録されたものだと言われています。今から780年ほど前のことです。
道元の主著『正法眼蔵』のように難解ではありません。大学生の時に『正法眼蔵』を読んでみようとしましたが、すぐに読むのを諦めました。その後、昭和35年に角川文庫の『正法眼蔵随聞記』が出版されました。吉田紹欽の現代語訳も付いていました。
私は、分かりやすい文庫本を買い、夢中になって読みました。
ここでは、その角川文庫版から、「第六」(四)の一部を紹介します。
「雑話のついでに示して曰く。学道の人、衣食にわづらふことなかれ。此の国は、辺地小国なりといへども、昔も今も、顕密の二教に名を得、後代にも人にも知られる人多し。或は、詩歌管弦の家、文武学芸の才、其の道を嗜む人も多し。
かくの如き人々、未だ一人も衣食に豊かなり、といふことを聞かず。皆、貧を忍び、他事を忘れて、一向に其の道を好む故に、其の名を得るなり。
況んや、祖門学道の人は、渡世を捨てて、一切名利に走らず、何としてか豊かなるべきぞ(後略)」(現代語訳)
「雑話をされた際に、続いて垂示して言われた。仏道を学ぼうとする人は、衣食の事について心を煩わすことがあってはならない。我が国は、中央(中国)から辺した地の小国であるけれども、昔も今も、顕教と密教が栄えて、名声が上がっており、後代になっても、人に知られた立派な人が多い。或いは詩歌管弦の家柄の人があり、文武学芸の才人もあり、それぞれの道を嗜む人も多い。
しかし、こうした人々の誰一人として衣食に豊かであったということを聞かないのである。皆、貧乏を忍んで、余事を忘れ、一向にその道を好み究めたのである。そして、その道の名声を得たのである。
ましてや、仏祖の教えを受けてその道を学ぼうとする人は、世渡りをすることを捨てて一切名利のために走ってはならないのであり、どうして豊かであってよかろうか」
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【31】『正法眼蔵随聞記』
◎道元と良寛さん
江戸後期の禅僧・良寛さんは、和歌ほど多くはありませんが、漢詩もたくさん作りました。数多くの漢詩の中で、最もドラマチックな構成と内容を持った作品は『永平録を読む』です。
良寛さんの74年の生涯には、劇的な瞬間が何度かありました。
18歳の時、父親の横暴な態度に反抗して家を飛び出した瞬間。22歳の時、国仙和尚に会って弟子入りが許された瞬間。備中玉島の円通寺で厳しい修行をした後、諸国を行脚するが、40歳の時、生まれ故郷の越後に帰ろうと決意した瞬間。最晩年に、40歳も年下の若くて美しい貞心尼と出会い、心温まる交際が始まった瞬間。
道元禅師の著した『正法眼蔵』と出会った瞬間も、こうした劇的な瞬間に劣らない激烈なものでした。
天明8年(1788)8月15日の夜のことでした。31歳の良寛さんは、円通寺で師の国仙和尚から『正法眼蔵』の教えを受けました。円通寺で修行を始めて10年後のことでした。良寛さんは猛烈なショックを受けます。今までの自分の考え方、生き方は間違っていた。これではいけない。やり直そう。国仙和尚に頼んで、寺にあった『正法眼蔵』の写本を読むのを許可してもらいます。熱心に読み終えると、良寛さんは、道元が教示している生き方を実践するために円通寺を出て、行脚の旅に出ました。
その時の感動を中心にして、自分の心の変化、『正法眼蔵』の素晴らしさ、道元への憧憬、自己反省などを劇的に強い調子で詠んだ詩が『永平録を読む』です。私が七・七調で訳したものを載せます。
春の夜も更け/あたりは暗く/雪まじりの雨/竹林に降る/寂しさ募り/気を鎮めるために/永平録を/読むことにした/香を焚き付け/灯火を点けて/珠玉の文を/開いて読んだ/ああ、思い出す/玉島にいた時/先師が示した/正法眼蔵/その頃すでに/機が熟しており/貴い教えを/実践してみた/このままじゃ駄目と/初めて目が覚め/先師を辞して/諸国を歩いた/ああ、永平とは/ 有縁であった/どこに行っても/永平に出会った/何年間も/参学したが/時には心に/不満が生じた/これじゃならぬと/道を深めた/その後再読/はっきり分かった/諸法の乱立/いかんともしがたく/玉と石との/区別も付かぬ/長らくこの書が/埋もれていたのも/人に見る目が/無かったためだ/永平録は/万人のものだ/いまさら言っても/仕方の無いこと/あれこれ思うと/涙が止まらず/貴い書物を/濡らしてしまった/翌日、隣の/老人が問うた/「何故この本は/濡れているのか」/答えたいが/どうしても言えぬ/心が痛むが/答えられない/しばらく考え/名案を得た/「昨夜の雨で/濡れたのだよ」
ここで取り上げられている「永平録」というのは、書名ではなくて、単に永平(道元禅師)の語録という意味だと思います。そして、それは道元の代表作『正法眼蔵』のことで、良寛さんがその夜に読んだのは「行持」の巻だったと思われます。
玉島の円通寺において、初めて『正法眼蔵』を読み、30歳を過ぎた良寛さんは衝撃を受けました。それほど心を揺すぶられたのは何故だったのでしょうか。どうして、自分は間違っていたと反省したのでしょうか。
道元に出会うまでの良寛さんは、自己探求、自己救済のためだけに修行していたのです。とにかく自分が救われたいという気持ちだけでした。ところが、道元は、自己の修行は、同時にあらゆる人々を救おうとする心がなくてはいけない、と厳しく教えていたのです。自分より他人を先に済度すべきだと説いていたのです。
「菩提心を起こす、といふは、おのれ未だわたらざるに、一切衆生をわたさん、と発願し、いとなむなり」(『正法眼蔵』) 道元と出会うことによって、自己中心だった良寛さんに、他者の幸福という視点ができたのです。宮沢賢治の有名な言葉が思い起こされます。
「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」
◎『正法眼蔵随聞記』
これは、道元の侍者・懐弉(えじょう)が編んだ6巻の書物です。道元の法話を、懷弉が聞いた通りに平易な文章で筆記したもので、理解しやすく、道元自身の姿を生き生きと浮き彫りにしています。1235年から1238年までの3年間に記録されたものだと言われています。今から780年ほど前のことです。
道元の主著『正法眼蔵』のように難解ではありません。大学生の時に『正法眼蔵』を読んでみようとしましたが、すぐに読むのを諦めました。その後、昭和35年に角川文庫の『正法眼蔵随聞記』が出版されました。吉田紹欽の現代語訳も付いていました。
私は、分かりやすい文庫本を買い、夢中になって読みました。
ここでは、その角川文庫版から、「第六」(四)の一部を紹介します。
「雑話のついでに示して曰く。学道の人、衣食にわづらふことなかれ。此の国は、辺地小国なりといへども、昔も今も、顕密の二教に名を得、後代にも人にも知られる人多し。或は、詩歌管弦の家、文武学芸の才、其の道を嗜む人も多し。
かくの如き人々、未だ一人も衣食に豊かなり、といふことを聞かず。皆、貧を忍び、他事を忘れて、一向に其の道を好む故に、其の名を得るなり。
況んや、祖門学道の人は、渡世を捨てて、一切名利に走らず、何としてか豊かなるべきぞ(後略)」(現代語訳)
「雑話をされた際に、続いて垂示して言われた。仏道を学ぼうとする人は、衣食の事について心を煩わすことがあってはならない。我が国は、中央(中国)から辺した地の小国であるけれども、昔も今も、顕教と密教が栄えて、名声が上がっており、後代になっても、人に知られた立派な人が多い。或いは詩歌管弦の家柄の人があり、文武学芸の才人もあり、それぞれの道を嗜む人も多い。
しかし、こうした人々の誰一人として衣食に豊かであったということを聞かないのである。皆、貧乏を忍んで、余事を忘れ、一向にその道を好み究めたのである。そして、その道の名声を得たのである。
ましてや、仏祖の教えを受けてその道を学ぼうとする人は、世渡りをすることを捨てて一切名利のために走ってはならないのであり、どうして豊かであってよかろうか」