(前号より)

 この徳川義親の題額「厚德廣惠」は、溝口幹の思いと一致します。溝口幹にとって大いに励みとなったことでしょう。

 

 前号で残しておいた、『盛田命祺翁小傳』に書かれていると私には思える「私も命祺翁のように、村民とともに生きる教師でありたい」という溝口幹の心情の叙述を、ここで見ることにしましょう。

 この心情は、『盛田命祺翁小傳』の結論にあたる末尾の部分に書かれています。盛田命祺の実績と思想を紹介した上での結論の部分にです。『明治忠孝節義傳』を引用して、溝口幹は、自らの心情を述べていきます。

 

『明治忠孝節義傳』は翁を以下のように伝えている。

世の中の富豪翁を見るに、演劇、相撲、俳句、囲碁の類を以て老境消日の具となさない者はいない。そして彼らの壮時の事を顧みれば、営々逐利(利益の追求)の外は一事も見るべきものはない。こういうもののことを米嚢飲器(穀潰し)と言うのだ。今の命祺はこれらの徒とは異なる。壮歳には賑救(救済)を事とし、老境に入りてなお国利民福に留意する。この働きは、孟子の言う「鶏鳴に起き、孳々として(じじとして・一心に)善を為す者は舜なり」に該当しよう。まさに命祺の如きは舜の徒である。これは溢美(いつび・褒めすぎ)の言ではない。誠に翁の如きは、至誠奉公、国利民福のために一生を捧げられた一大人格者と言うべきである。

 

 この『明治忠孝節義傳』には、明治の元勲をはじめ各界の名士や政治家、学者がなぜ盛田命祺を讃仰するかの理由が書かれています。いい国家、いい社会をつくるには、あなたのような「国利民福」のために働く人がいなければできない。私利私欲だけでなく、みんなの幸せのために働く人でないと。こんな思いが伝わってきます。

 これは同時に、溝口幹の理解でもあったはずです。わざわざ末尾の結論の箇所で紹介しているのですから。とりわけ「まさに命祺の如きは舜の徒である。これは褒めすぎの言ではない。誠に翁の如きは、至誠奉公、国利民福のために一生を捧げられた一大人格者と言うべきである」の言は、溝口幹の心を踊らせたに違いありません。「私も命祺翁のように、村民とともに生きる教師でありたい」。舜の徒として。国利民幅のために。

 この理解は、鈴渓義塾の校長としての実践で、思想を、大きく陶冶させることになります。この陶冶については、4月号以降の「溝口幹」の項で詳述します。

 しかし、このままで終わると誤解を生みそうです。溝口幹は大正5年には既に鈴渓義塾を退職しています。実際の退職は明治43 年。なのにどうして大きく陶冶なのかと。

 この命祺翁への尊敬の気持ち、すなわち翁のように生きたいという気持ちは、盛田命祺から鈴渓義塾への就任を依頼された時から持っていたと考えるべきです。後日紹介しますが、卒業生たちの溝口幹への感謝のことばを読めばすぐ納得できましょう。

 盛田命祺翁は村民とともに生き、小鈴谷村を豊かな郷にしました。溝口幹は、この翁の期待に応え、村民とともに生きる教師として、小鈴谷村を「徳これ香る」郷にしていきます。これを跡づけるのが鈴渓義塾物語です。(4月号につづく)

Copyright©2003-2017 Akai Newspaper dealer

プライバシーポリシー

あかい新聞店・常滑店

新聞■折込広告取扱■求人情報■ちたろまん■中部国際空港配送業務

電話:0569-35-2861

 

あかい新聞店・武豊店

電話:0569-72-0356

あかい新聞店・常滑店

新聞■折込広告取扱■求人情報■ちたろまん■中部国際空港配送業務

電話:0569-35-2861

あかい新聞店・武豊店

電話:0569-72-0356

 

Copyright©2003-2017 Akai Newspaper dealer

プライバシーポリシー

(前号より)

 この徳川義親の題額「厚德廣惠」は、溝口幹の思いと一致します。溝口幹にとって大いに励みとなったことでしょう。

 

 前号で残しておいた、『盛田命祺翁小傳』に書かれていると私には思える「私も命祺翁のように、村民とともに生きる教師でありたい」という溝口幹の心情の叙述を、ここで見ることにしましょう。

 この心情は、『盛田命祺翁小傳』の結論にあたる末尾の部分に書かれています。盛田命祺の実績と思想を紹介した上での結論の部分にです。『明治忠孝節義傳』を引用して、溝口幹は、自らの心情を述べていきます。

 

『明治忠孝節義傳』は翁を以下のように伝えている。

世の中の富豪翁を見るに、演劇、相撲、俳句、囲碁の類を以て老境消日の具となさない者はいない。そして彼らの壮時の事を顧みれば、営々逐利(利益の追求)の外は一事も見るべきものはない。こういうもののことを米嚢飲器(穀潰し)と言うのだ。今の命祺はこれらの徒とは異なる。壮歳には賑救(救済)を事とし、老境に入りてなお国利民福に留意する。この働きは、孟子の言う「鶏鳴に起き、孳々として(じじとして・一心に)善を為す者は舜なり」に該当しよう。まさに命祺の如きは舜の徒である。これは溢美(いつび・褒めすぎ)の言ではない。誠に翁の如きは、至誠奉公、国利民福のために一生を捧げられた一大人格者と言うべきである。

 

 この『明治忠孝節義傳』には、明治の元勲をはじめ各界の名士や政治家、学者がなぜ盛田命祺を讃仰するかの理由が書かれています。いい国家、いい社会をつくるには、あなたのような「国利民福」のために働く人がいなければできない。私利私欲だけでなく、みんなの幸せのために働く人でないと。こんな思いが伝わってきます。

 これは同時に、溝口幹の理解でもあったはずです。わざわざ末尾の結論の箇所で紹介しているのですから。とりわけ「まさに命祺の如きは舜の徒である。これは褒めすぎの言ではない。誠に翁の如きは、至誠奉公、国利民福のために一生を捧げられた一大人格者と言うべきである」の言は、溝口幹の心を踊らせたに違いありません。「私も命祺翁のように、村民とともに生きる教師でありたい」。舜の徒として。国利民幅のために。

 この理解は、鈴渓義塾の校長としての実践で、思想を、大きく陶冶させることになります。この陶冶については、4月号以降の「溝口幹」の項で詳述します。

 しかし、このままで終わると誤解を生みそうです。溝口幹は大正5年には既に鈴渓義塾を退職しています。実際の退職は明治43 年。なのにどうして大きく陶冶なのかと。

 この命祺翁への尊敬の気持ち、すなわち翁のように生きたいという気持ちは、盛田命祺から鈴渓義塾への就任を依頼された時から持っていたと考えるべきです。後日紹介しますが、卒業生たちの溝口幹への感謝のことばを読めばすぐ納得できましょう。

 盛田命祺翁は村民とともに生き、小鈴谷村を豊かな郷にしました。溝口幹は、この翁の期待に応え、村民とともに生きる教師として、小鈴谷村を「徳これ香る」郷にしていきます。これを跡づけるのが鈴渓義塾物語です。(4月号につづく)