先月号では、地元の研究者岩田裕氏と法明院住職滋野敬淳師との出会いまでをお話ししました。この結果、敬淳師から山口静一氏(「日本フェノロサ学会」のリーダー)へ「西河野村」は「西阿野村」の誤読だと伝えられ山口氏の目が地元常滑へと向けられるようになり、これが先月号に記した「歴史的な転換」を生み出すことになります。地元常滑での研究がこうして日本フェノロサ学会と結びつくようになったからです。その後、同会会員の村形明子氏の常滑訪問も受け、地元研究者の鯉江節子さんが「法明院・三井寺の旅」という一文を発表するまでになったからです(友の会だより、29号、改題)。

 山口氏は岩田さんや常滑市の教育委員会や称明寺に問合せの手紙を送り理解をさらに正しくしていきます。その成果を「日本フェノロサ学会」の紀要「Lotus」(No.28)に「町田久成著園城寺法明院蔵版『敬徳大和上畧傳』を読む」として発表されます。

 町田久成の『敬徳大和上略伝』についてお坊さんは自分の業績を誇ることはしません。成仏・成道の仏の道に励むのがお坊さんです。仏の道に達したお坊さんであればあるほどそうで敬徳はまさにそういうお坊さんでした。だから敬徳が残したものと言えば手紙類しかありません。それゆえ、敬徳の生前の業績を伝えるものはこの町田久成の『敬徳大和上略伝』しかないのです。この略伝は弟子久成の祟敬の心からのもので敬徳の三回忌の折に謹記されました。

 この略伝は敬徳の思想や生き様を伝える本当に唯一の資料です。

 しかし私たち地元の研究者からするとこの山口氏の研究成果は少し不満です。西河野村を西阿野村に直してくれたこと、地元常滑に目を向けてくれたことには感謝しますがこれだけでは不十分だということが分かってきたからです。しかし、正しくは山口氏の研究のお陰で研究の不十分さのみならず、町田の謹記そのものが持つ間違いにも気づかせてくれたのですからそうした点には感謝すべきなのです。

 簡単な事実から言えば、謹記では「櫻井敬徳」とされているが「土井敬徳」ではないのか?これが解明されなければ敬徳は本当に土井家の出身なのかが疑問になります。遺品が土井家に送られてきてはいても、これらについては山口氏は一切ふれていません。この解明は渡辺澄子さんの弟の土井真太郎さんによってなされました。この成果は後日発行の私どもの研究論文集において公表します。

 それとともに、町田久成の『敬徳大和上略伝』には人名において間違いのあることも分かってきました。恐らくこの略伝は敬徳が口述したものを町田久成が筆記したからでしょうが多くの誤りがあります。これも後日発行する論文集で明らかにします。

 それにもっと大きな問題は、山口氏の研究には櫻井敬徳の思想を解明する上で決定的に重要である「色心二法」や「円頓菩薩戒」の思想についての深い解明のないことです。

 山口氏は自署『三井寺に眠るフェノロサとビゲロウの物語』で、以下に示す1878年の東京日々新聞(9/30)の記事を引用してフェノロサが敬徳に指導を受けて仏弟子になった理由を「色心二法」の思考法が仏教にあってキリスト教にないからと言っていることを示しながら、なぜフェノロサがそう言うのかの深い解明がないのです。敬徳から色心二法の説明を受けてそれに感動して入門したのは明らかなのに。

   哲学士、仏門に入る。東京大学哲学教師フェノロサ氏は、……色心二法の実

   理に至り(出会い)、未だ欧米学士の講究し能わざるもの数多あり……と悟り、

   此程、天台宗寺門派の櫻井敬徳阿闍梨に就きて菩薩戒を受く。(次号に続く)

 

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 山口氏は岩田さんや常滑市の教育委員会や称明寺に問合せの手紙を送り理解をさらに正しくしていきます。その成果を「日本フェノロサ学会」の紀要「Lotus」(No.28)に「町田久成著園城寺法明院蔵版『敬徳大和上畧傳』を読む」として発表されます。

 町田久成の『敬徳大和上略伝』についてお坊さんは自分の業績を誇ることはしません。成仏・成道の仏の道に励むのがお坊さんです。仏の道に達したお坊さんであればあるほどそうで敬徳はまさにそういうお坊さんでした。だから敬徳が残したものと言えば手紙類しかありません。それゆえ、敬徳の生前の業績を伝えるものはこの町田久成の『敬徳大和上略伝』しかないのです。この略伝は弟子久成の祟敬の心からのもので敬徳の三回忌の折に謹記されました。

 この略伝は敬徳の思想や生き様を伝える本当に唯一の資料です。

 しかし私たち地元の研究者からするとこの山口氏の研究成果は少し不満です。西河野村を西阿野村に直してくれたこと、地元常滑に目を向けてくれたことには感謝しますがこれだけでは不十分だということが分かってきたからです。しかし、正しくは山口氏の研究のお陰で研究の不十分さのみならず、町田の謹記そのものが持つ間違いにも気づかせてくれたのですからそうした点には感謝すべきなのです。

 簡単な事実から言えば、謹記では「櫻井敬徳」とされているが「土井敬徳」ではないのか?これが解明されなければ敬徳は本当に土井家の出身なのかが疑問になります。遺品が土井家に送られてきてはいても、これらについては山口氏は一切ふれていません。この解明は渡辺澄子さんの弟の土井真太郎さんによってなされました。この成果は後日発行の私どもの研究論文集において公表します。

 それとともに、町田久成の『敬徳大和上略伝』には人名において間違いのあることも分かってきました。恐らくこの略伝は敬徳が口述したものを町田久成が筆記したからでしょうが多くの誤りがあります。これも後日発行する論文集で明らかにします。

 それにもっと大きな問題は、山口氏の研究には櫻井敬徳の思想を解明する上で決定的に重要である「色心二法」や「円頓菩薩戒」の思想についての深い解明のないことです。

 山口氏は自署『三井寺に眠るフェノロサとビゲロウの物語』で、以下に示す1878年の東京日々新聞(9/30)の記事を引用してフェノロサが敬徳に指導を受けて仏弟子になった理由を「色心二法」の思考法が仏教にあってキリスト教にないからと言っていることを示しながら、なぜフェノロサがそう言うのかの深い解明がないのです。敬徳から色心二法の説明を受けてそれに感動して入門したのは明らかなのに。

   哲学士、仏門に入る。東京大学哲学教師フェノロサ氏は、……色心二法の実

   理に至り(出会い)、未だ欧米学士の講究し能わざるもの数多あり……と悟り、

   此程、天台宗寺門派の櫻井敬徳阿闍梨に就きて菩薩戒を受く。(次号に続く)