■杉本武之プロフィール

1939年 碧南市に生まれる。

京都大学文学部卒業。

翻訳業を経て、小学校教師になるために愛知教育大学に入学。

25年間、西尾市の小中学校に勤務。

定年退職後、名古屋大学教育学部の大学院で学ぶ。

〈趣味〉読書と競馬

 

【22】黒澤明『隠し砦の三悪人』

◎黒澤監督の映画との出会い

 私の芸術観と人生観に決定的な影響を与えた作品は、15歳の真夏に満員の映画館で観た黒澤明の映画『七人の侍』と、18歳の春に夢中になって読んだドストエフスキーの長編小説『罪と罰』です。60年以上が経過した今でも、二つの作品から受けた感動をはっきりと覚えています。

 感受性が鋭敏な10代の後半に、こうした世界最高の映画と文学に出会えたことを、私は誰に対して、何に対して感謝したらいいのでしょう。とにかく、私は運の良い人間として生まれ育ったのだと思わざるを得ません。

 偉大なものに出会うことを無意識に待ち望んでいた未熟な私が来るのを、黒澤明の映画『七人の侍』が、そして数年後に、ドストエフスキーの小説『罪と罰』が待っていてくれたのです。「早くおいで。来たら、一生の宝になるような素敵な物をあげよう」。そう言って、私を待っていてくれたのです。

 黒澤明は、88年の生涯に30本の映画を完成しました。勿論、私は全部の作品を観ています。どの作品も2回以上観ています。中でも『七人の侍』は20回以上観ており、画面もセリフも音楽も、全部頭の中に入っています。それでも、観る度に感動します。そして、ああ、また観ることができた、生きていて本当に良かった、と心から思います。

 黒澤の作品を少し挙げてみます。

 『姿三四郎』(処女作)『素晴らしき日曜日』『酔いどれ天使』『野良犬』『羅生門』『生きる』『七人の侍』『生きものの記録』『隠し砦の三悪人』『用心棒』『天国と地獄』『赤ひげ』『デルス・ウザーラ』『乱』『夢』『まあだだよ』(遺作)。

 どれもこれも傑作で、とても人間業とは思えません。黒澤明は映画のために生まれ、映画は黒澤明のために生まれた、と言っても過言ではありません。

 黒澤明の小学時代。驚くことに、あの「世界のクロサワ」は、いじけた泣き虫少年だったのです。

 小学校の1年から2年にかけて、黒澤明にとって、学校は「地獄の責め苦」でした。自伝『蝦蟇の油』の中で、彼は次のように書いています。

 「教室では、ただ辛い苦しい思いでじっと椅子に腰掛けて、家から付き添ってきた者が心配そうに廊下を行ったり来たりしている姿を、ガラス戸越しに目で追ってばかりいた。精薄児だったとは思いたくないが、知恵が遅れていたことは確かである」。

 「三つの陰の力」によって、泣き虫で知恵遅れの子どもだった彼は、たくましい少年に成長することができました。

 第一の力は、4歳年上の兄の丙午です。ずば抜けた秀才だった兄は、弱虫の弟を厳しく鍛えました。

 第二の力は、恩師の立川清治です。彼は、子ども一人ひとりの個性を認めて褒めてやるという温かい教育哲学の持ち主でした。「知能的に遅れ、変にいじけていた私を庇うようにして、初めて私に自信というものを持たせてくれた」と、黒澤は書いています。

 第三の力は、同級生の植草圭之助です。彼は泣き虫の文学少年でした。彼を見ることで、黒澤は自分を客観的に見ることができるようになりました。

 さて、黒澤と植草という二人の泣き虫を大きく育てた立川先生は、昭和22年、素晴らしい体験をします。『素晴らしき日曜日』を観た後、先生は、教え子だった黒澤明に葉書出しました。「私は、タイトルの、脚本・植草圭之助、監督・黒澤明という字を読んだ時から、スクリーンがぼやけて、よく見えなくなった」。黒澤はすぐに植草に連絡します。そして、先生を東宝の寮へ招待して、すき焼きを御馳走することにしました。

 懐かしい恩師を前にして、青春映画の名作を作ったばかりの二人の教え子は、かしこまって座っていました。黒澤は書いています。「私は、その先生を見つめているうちに、その先生の顔がぼやけて、よく見えなくなってしまった」。

 

◎『隠し砦の三悪人』

 浪人生活を送っていた昭和34年(1959) 1月初旬に、私は、中学時代の友人と名古屋の映画館で『隠し砦の三悪人』を観ました。

 大学受験を2ヵ月後に控えており、私の精神状態はかなり緊張していました。そうした時に、この痛快極まりない時代劇を観たのです。本当に面白いと思いました。気分転換になり、その後勉強がはかどりました。

 黒澤明は、この作品についてこう語っています。「しんどいものを二本( 『蜘蛛巣城』と『どん底』)やったから、ひとつ追っかけ形式の面白い時代劇を作ってやろう、そんなきっかけでした」。

 確かに、『蜘蛛巣城』と『どん底』は、城とか貧乏長屋といった狭苦しい空間に展開される深刻な人間悲劇でした。解放感は少しもありません。

 『隠し砦の三悪人』は違っていました。雨の上がるのをじっと待っていた子どもや子犬たちが外に飛び出した時のような活気に満ちた映画でした。うれしくて、うれしくて堪らない気分が横溢した映画でした。「最初のシネスコ・サイズで、大きな画面にいろいろ入るので、おもしろくて思う存分撮ったな」と、黒澤も満足そうに回想しています。

 黒澤明を尊敬していたスピルバーグ監督(『E.T.』『ジョーズ』など)は、「私がこれまで観た黒澤映画の全ての中で、最も好きな作品を、敢えて3本挙げるとすれば、『隠し砦の三悪人』『蜘蛛巣城』『生きる』になるでしょう」と述べました。あの才能豊かな名監督も『隠し砦の三悪人』のダイナミックな映画表現に感動したのです。

 隣国に敗れた秋月藩の侍大将・真壁六郎太(三船敏郎)が、欲の深い二人の百姓(千秋実と藤原釜足)をうまく利用して、世継ぎの雪姫(上原美佐)と軍資金を擁して、敵国の領地をまんまと横断して友好国へ脱出する、という内容です。敵中横断は全編手に汗を握るスリルとサスペンスに満ちており、その後に作られた『用心棒』『椿三十郎』に勝るとも劣らない痛快な娯楽巨編です。機会があったら、是非観て下さい。

 この映画のシナリオは、菊島隆三、小国英雄、橋本忍、黒澤明の4人によって書かれました。「冒頭の場面」を少し読んでみましょう。

1・道

炎熱──ボコボコに乾いた道を、汗と埃にまみれ、毒々しく言い争いながら歩いて行く、半裸に小手脛当の男が二人(太平、又七)。

太平「もっと離れて歩けッ………死人臭くってやりきれねぇ」

又七「いい加減にしろ。……死人臭えのはお互い樣だ……それもみんな、お前のおかげじゃねえか」

太平、顔をしかめて、自分の方から離れると、見せつけがましく唾を吐く。(中略)

大きく近くの笹がざわめく。二人、ギクッとして見る。

笹をわけて、血みどろな落武者がよろめき出て来る。続いて、それを追って騎馬武者が五、六騎。

埃の道をよろめき逃げる落武者に襲いかかり、獣を狩るように突き伏せる。

蒼くなって立ちすくんでいる又七と太平。(後略)

 

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【22】黒澤明『隠し砦の三悪人』

◎黒澤監督の映画との出会い

私の芸術観と人生観に決定的な影響を与えた作品は、15歳の真夏に満員の映画館で観た黒澤明の映画『七人の侍』と、18歳の春に夢中になって読んだドストエフスキーの長編小説『罪と罰』です。60年以上が経過した今でも、二つの作品から受けた感動をはっきりと覚えています。

 感受性が鋭敏な10代の後半に、こうした世界最高の映画と文学に出会えたことを、私は誰に対して、何に対して感謝したらいいのでしょう。とにかく、私は運の良い人間として生まれ育ったのだと思わざるを得ません。

 偉大なものに出会うことを無意識に待ち望んでいた未熟な私が来るのを、黒澤明の映画『七人の侍』が、そして数年後に、ドストエフスキーの小説『罪と罰』が待っていてくれたのです。「早くおいで。来たら、一生の宝になるような素敵な物をあげよう」。そう言って、私を待っていてくれたのです。

 黒澤明は、88年の生涯に30本の映画を完成しました。勿論、私は全部の作品を観ています。どの作品も2回以上観ています。中でも『七人の侍』は20回以上観ており、画面もセリフも音楽も、全部頭の中に入っています。それでも、観る度に感動します。そして、ああ、また観ることができた、生きていて本当に良かった、と心から思います。

 黒澤の作品を少し挙げてみます。

 『姿三四郎』(処女作)『素晴らしき日曜日』『酔いどれ天使』『野良犬』『羅生門』『生きる』『七人の侍』『生きものの記録』『隠し砦の三悪人』『用心棒』『天国と地獄』『赤ひげ』『デルス・ウザーラ』『乱』『夢』『まあだだよ』(遺作)。

 どれもこれも傑作で、とても人間業とは思えません。黒澤明は映画のために生まれ、映画は黒澤明のために生まれた、と言っても過言ではありません。

 黒澤明の小学時代。驚くことに、あの「世界のクロサワ」は、いじけた泣き虫少年だったのです。

 小学校の1年から2年にかけて、黒澤明にとって、学校は「地獄の責め苦」でした。自伝『蝦蟇の油』の中で、彼は次のように書いています。

 「教室では、ただ辛い苦しい思いでじっと椅子に腰掛けて、家から付き添ってきた者が心配そうに廊下を行ったり来たりしている姿を、ガラス戸越しに目で追ってばかりいた。精薄児だったとは思いたくないが、知恵が遅れていたことは確かである」。

 「三つの陰の力」によって、泣き虫で知恵遅れの子どもだった彼は、たくましい少年に成長することができました。

 第一の力は、4歳年上の兄の丙午です。ずば抜けた秀才だった兄は、弱虫の弟を厳しく鍛えました。

 第二の力は、恩師の立川清治です。彼は、子ども一人ひとりの個性を認めて褒めてやるという温かい教育哲学の持ち主でした。「知能的に遅れ、変にいじけていた私を庇うようにして、初めて私に自信というものを持たせてくれた」と、黒澤は書いています。

 第三の力は、同級生の植草圭之助です。彼は泣き虫の文学少年でした。彼を見ることで、黒澤は自分を客観的に見ることができるようになりました。

 さて、黒澤と植草という二人の泣き虫を大きく育てた立川先生は、昭和22年、素晴らしい体験をします。『素晴らしき日曜日』を観た後、先生は、教え子だった黒澤明に葉書出しました。「私は、タイトルの、脚本・植草圭之助、監督・黒澤明という字を読んだ時から、スクリーンがぼやけて、よく見えなくなった」。黒澤はすぐに植草に連絡します。そして、先生を東宝の寮へ招待して、すき焼きを御馳走することにしました。

 懐かしい恩師を前にして、青春映画の名作を作ったばかりの二人の教え子は、かしこまって座っていました。黒澤は書いています。「私は、その先生を見つめているうちに、その先生の顔がぼやけて、よく見えなくなってしまった」。

 

◎『隠し砦の三悪人』

 浪人生活を送っていた昭和34年(1959) 1月初旬に、私は、中学時代の友人と名古屋の映画館で『隠し砦の三悪人』を観ました。

 大学受験を2ヵ月後に控えており、私の精神状態はかなり緊張していました。そうした時に、この痛快極まりない時代劇を観たのです。本当に面白いと思いました。気分転換になり、その後勉強がはかどりました。

 黒澤明は、この作品についてこう語っています。「しんどいものを二本( 『蜘蛛巣城』と『どん底』)やったから、ひとつ追っかけ形式の面白い時代劇を作ってやろう、そんなきっかけでした」。

 確かに、『蜘蛛巣城』と『どん底』は、城とか貧乏長屋といった狭苦しい空間に展開される深刻な人間悲劇でした。解放感は少しもありません。

 『隠し砦の三悪人』は違っていました。雨の上がるのをじっと待っていた子どもや子犬たちが外に飛び出した時のような活気に満ちた映画でした。うれしくて、うれしくて堪らない気分が横溢した映画でした。「最初のシネスコ・サイズで、大きな画面にいろいろ入るので、おもしろくて思う存分撮ったな」と、黒澤も満足そうに回想しています。

 黒澤明を尊敬していたスピルバーグ監督(『E.T.』『ジョーズ』など)は、「私がこれまで観た黒澤映画の全ての中で、最も好きな作品を、敢えて3本挙げるとすれば、『隠し砦の三悪人』『蜘蛛巣城』『生きる』になるでしょう」と述べました。あの才能豊かな名監督も『隠し砦の三悪人』のダイナミックな映画表現に感動したのです。

 隣国に敗れた秋月藩の侍大将・真壁六郎太(三船敏郎)が、欲の深い二人の百姓(千秋実と藤原釜足)をうまく利用して、世継ぎの雪姫(上原美佐)と軍資金を擁して、敵国の領地をまんまと横断して友好国へ脱出する、という内容です。敵中横断は全編手に汗を握るスリルとサスペンスに満ちており、その後に作られた『用心棒』『椿三十郎』に勝るとも劣らない痛快な娯楽巨編です。機会があったら、是非観て下さい。

 この映画のシナリオは、菊島隆三、小国英雄、橋本忍、黒澤明の4人によって書かれました。「冒頭の場面」を少し読んでみましょう。

1・道

炎熱──ボコボコに乾いた道を、汗と埃にまみれ、毒々しく言い争いながら歩いて行く、半裸に小手脛当の男が二人(太平、又七)。

太平「もっと離れて歩けッ………死人臭くってやりきれねぇ」

又七「いい加減にしろ。……死人臭えのはお互い樣だ……それもみんな、お前のおかげじゃねえか」

太平、顔をしかめて、自分の方から離れると、見せつけがましく唾を吐く。(中略)

大きく近くの笹がざわめく。二人、ギクッとして見る。

笹をわけて、血みどろな落武者がよろめき出て来る。続いて、それを追って騎馬武者が五、六騎。

埃の道をよろめき逃げる落武者に襲いかかり、獣を狩るように突き伏せる。

蒼くなって立ちすくんでいる又七と太平。(後略)