櫻井敬徳の哲学思想を紹介します。

 こう言われても、「櫻井敬徳って、だれ?」と思われる方がほとんどでしょう。ましてこの人を知多の哲学者と言うと、「つくり話をするな」と言いたくなるかもしれません。しかし櫻井敬徳は正真正銘の哲学者なのです。ただ彼を十分には研究されておず埋もれているため、このような評価になっていると私は考えます。

 私が「櫻井敬徳の思想」を紹介しようとするのは、勿論、この埋もれている敬徳像や敬徳の思想を明らかにする中で哲学者として我々の鑑になるような人でした。しかし敬徳はそれに留まらず、この哲学者としての面を明らかにすることで敬徳にふさわしい評価を確立したいと思ったからです。

 簡単に櫻井敬徳の経歴を示しておきましょう。

 生没年は(1834-1889)。出身地は常滑市西阿野。高讃寺と称名寺の寺子屋で学び、天台宗の三井寺法明院の住職となる。円頓菩薩戒を身につけ大阿闍梨となり、明治初頭の廃仏毀釈の嵐の中、町田久成やフェノロサや岡倉天心を指導して日本仏教の法灯を守った。

 私はこの紹介運動を彼の生地常滑で「櫻井敬徳勉強会」を起こすことで始めました。理由は友人の松本泰さんの勧めがあったことが1つ。もう1つは、地元での先行研究を哲学として受け継ぐことの大切さを感じたからに他なりません。

 櫻井敬徳については先に述べたように当時は全国的に殆ど知られていませんでした。しかし、地元では敬徳の末裔に当たる土井家の人々や有志によって研究されていたのでした。私が敬徳を知るきっかけを作ってくれたのは同年の土井敬君ですが彼は研究仲間の田中正さんからその情報を得、私に教えてくれたのです。土井君は西阿野在住で地元の研究をされていました。地元の研究団体が地元の偉人を研究し讃え受け継ぐ必要を感じた次第です。

 地元の研究は、土井家の末裔の渡辺澄子さんの『孫婆さんから聞いた話だけれど、本家からは偉い坊さんが出ていて三井寺から送られてきた遺品が沢山残っているんだって。』この一声から始まったと言われます。

 その言葉に研究会のリーダー格であった岩田裕さんが反応しました。そして当時の土井家の当主の土井知男さん(現当主は富雅氏)がこの事に協力してくれ遺品の撮影と整理を進める一方、三井寺法明院に赴き、時の住職滋野敬淳師(現住職は敬宣師)と面会をします。その時、敬淳師から町田久成筆の『敬徳大和上略伝』とそれを要約した「櫻井敬徳」(『大津市志』所収)が手渡されます。この事が研究にとって歴史的な転換を生み出すことになりました。

 『大津市志』には「西阿野村」が「西河野村」と書かれていました。地元では変だなあと不思議に思ったそうです。西阿野がありもしない西河野にされていたのです。それは大津市志側が翻刻を誤っただけでした。

 しかし「日本フェノロサ学会」の方は大変でした。櫻井敬徳の出身地は「西河野村」と言うのに、「西河野村」は日本のどこにも存在しないのですから。『エッ!何だって。こんなことありかよう。』研究は頓挫していたのでした。

 敬淳師と地元の研究者(岩田裕氏)の出会いがこの難問を簡単に解決しました。「西河野村」は誤読で、「西阿野村」と読まなければでなければならないことを即刻に判明させたからです。これが歴史的転換の始まりとなります。この続きは次号で。

 

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 私が「櫻井敬徳の思想」を紹介しようとするのは、勿論、この埋もれている敬徳像や敬徳の思想を明らかにする中で哲学者として我々の鑑になるような人でした。しかし敬徳はそれに留まらず、この哲学者としての面を明らかにすることで敬徳にふさわしい評価を確立したいと思ったからです。

 簡単に櫻井敬徳の経歴を示しておきましょう。

 生没年は(1834-1889)。出身地は常滑市西阿野。高讃寺と称名寺の寺子屋で学び、天台宗の三井寺法明院の住職となる。円頓菩薩戒を身につけ大阿闍梨となり、明治初頭の廃仏毀釈の嵐の中、町田久成やフェノロサや岡倉天心を指導して日本仏教の法灯を守った。

 私はこの紹介運動を彼の生地常滑で「櫻井敬徳勉強会」を起こすことで始めました。理由は友人の松本泰さんの勧めがあったことが1つ。もう1つは、地元での先行研究を哲学として受け継ぐことの大切さを感じたからに他なりません。

 櫻井敬徳については先に述べたように当時は全国的に殆ど知られていませんでした。しかし、地元では敬徳の末裔に当たる土井家の人々や有志によって研究されていたのでした。私が敬徳を知るきっかけを作ってくれたのは同年の土井敬君ですが彼は研究仲間の田中正さんからその情報を得、私に教えてくれたのです。土井君は西阿野在住で地元の研究をされていました。地元の研究団体が地元の偉人を研究し讃え受け継ぐ必要を感じた次第です。

 地元の研究は、土井家の末裔の渡辺澄子さんの『孫婆さんから聞いた話だけれど、本家からは偉い坊さんが出ていて三井寺から送られてきた遺品が沢山残っているんだって。』この一声から始まったと言われます。

 その言葉に研究会のリーダー格であった岩田裕さんが反応しました。そして当時の土井家の当主の土井知男さん(現当主は富雅氏)がこの事に協力してくれ遺品の撮影と整理を進める一方、三井寺法明院に赴き、時の住職滋野敬淳師(現住職は敬宣師)と面会をします。その時、敬淳師から町田久成筆の『敬徳大和上略伝』とそれを要約した「櫻井敬徳」(『大津市志』所収)が手渡されます。この事が研究にとって歴史的な転換を生み出すことになりました。

 『大津市志』には「西阿野村」が「西河野村」と書かれていました。地元では変だなあと不思議に思ったそうです。西阿野がありもしない西河野にされていたのです。それは大津市志側が翻刻を誤っただけでした。

 しかし「日本フェノロサ学会」の方は大変でした。櫻井敬徳の出身地は「西河野村」と言うのに、「西河野村」は日本のどこにも存在しないのですから。『エッ!何だって。こんなことありかよう。』研究は頓挫していたのでした。

 敬淳師と地元の研究者(岩田裕氏)の出会いがこの難問を簡単に解決しました。「西河野村」は誤読で、「西阿野村」と読まなければでなければならないことを即刻に判明させたからです。これが歴史的転換の始まりとなります。この続きは次号で。