◎南方熊楠
実に不思議で魅力的な名前を持った南方熊楠は、明治、大正、昭和の時代を生きた植物学者・民俗学者・博物学者でした。彼の全てが一般常識から外れており、学問的にどんな業績を残したのか、どんな偉大な学者だったのか、私にはまるで見当が付きません。
昭和16年(1941)12月27日の夜、萎縮腎が悪化した南方熊楠に、娘の文枝が「医者を呼びましょうか」と聞いた。彼は「天井にきれいな紫の花がいっぱい咲いている。わしは、その花の中をふわふわと飛んでいた。医者が来れば、花もええ気持ちも消えるさかい、呼ばんといてくれ」と答えた。
翌28日の夜、彼は、妻の松枝と娘の文枝に「わしはこれから眠る。縁の下に白い小鳥が死んどるから、明日の朝、手厚く葬ってやって欲しい。お前達も早く寝なさい」と言い、手元の羽織りを頭から被った。
日付が替わって、29日の午前2時頃、彼は「野口、野口、熊弥、熊弥」と大声で叫んだ。そして、彼は再び寝息をたて始めた。その後、二度と口を開くことはなかった。
昭和16年12月29日、午前6時30分、南方熊楠は74歳で死去した。
彼は最後に「野口、熊弥」と叫びました。「熊弥」は精神を病んでいた長男の名前であり、「野口」は発病した熊弥のために奔走し、尽力してくれた野口利太郎のことです。子煩悩だった熊楠は、最後の最後まで息子のことが気になっていたのでした。
今から、長男の熊弥の病気に焦点を当てながら、世界的な大学者・南方熊楠と彼を支えた妻の松枝について書いていきます。
◎結婚までの熊楠
南方熊楠は、慶応3 年(1867)4月15日、和歌山城下で金物商を営んでいた父・弥兵衛、母・すみの次男として生まれた。
明治16年3月、和歌山中学校を卒業して上京。共立学校に入学。翌年9月、大学予備門に入学。同級生に夏目漱石、正岡子規、山田美妙らがいた。
明治19年2月、予備門を中退。12月、横浜からアメリカに向かって出港。6年後、アメリカからイギリスに渡った。科学雑誌『ネイチャー』に論文を寄稿し、高く評価された。大英博物館図書館への入室が許可された。ロンドンに亡命中の孫文と親交を深めた。
明治33年10月、長い外国での生活を終え、帰国。それから4年間、那智勝浦で生活していたが、明治37年10月、田辺で暮らすようになった。そのきっかけは、中学時代の親友・喜多幅武三郎が田辺で医者をしていることを知って訪れ、誰からも温かく歓迎されたことと、町の風情がすっかり気に入ったことであった。
明治39年、喜多幅の勧めで、田辺の闘鶏神社宮司・田村宗造の四女・松枝(28歳)と結婚した。翌年6月、長男・熊弥が誕生。明治44年10月に長女・文枝が誕生した。
◎長男・熊弥の精神異変
長男の熊弥は、物静かな子だった。中学生になると、ますます口数が少なくなった。
大正14年(1925)3月13日、彼は、高知高校(旧制)を受験するために、増田と白木という二人の同級生と共に高知に向かった。少し前から、南方家では家族の者が流行性感冒で苦しんでいた。先ず熊楠が罹り、次に長男の熊弥が寝込み、続いて松枝が流感で倒れた。高知に出発した時、熊弥は病気が治ったばかりで、体力が衰えていた。
2日後の3月15日、一緒に高知に行った増田からの電報が届いた。「クマヤ、ビョウキ、スグコイ」。熊弥が精神異常に陥ったのであった。熊楠と松枝は驚愕した。「妻は気絶せんばかりに驚き申し候。夫婦とも病気上がりにて、とても高知まで行くことはならず、よって知人二人(佐武友吉と金崎卯吉)を頼み…」。知人の二人は、3月16日の早朝に高知に出立した。
3月19 日の夜、熊弥が帰って来た。室内に入ると、彼は近寄ってきた父親に座布団を投げ付けた。唸り声を上げ、うつろな表情で両親や妹を見つめていた。熊弥は発狂していた。父親の熊楠は、肩を震わせて男泣きに泣いた。娘の文枝は書いている。「父の落胆、母の嘆きは何物にも譬えようもなく、この時、私は初めて父の涙を見ました」
その後、大暴れするようなことはなかったが、8月になると、妄想に悩まされ始め、しばしば発作を起こした。熊楠は、生活費を稼ぐために、論文を寄稿したり随筆集を刊行したりした。『南方閑話』『南方随筆』『続南方随筆』の3冊が出版された。
大正15年11月、隣家の新築の屋根の上で大工が大声で歌っているのを聞いて、熊弥は突然暴れ出し、3時間余り大声で野獣のように咆哮した。熊弥の病気はどんどん悪化していき、家族は安眠できず疲労困憊した。
昭和3年5月、ついに熊楠は息子を京都の岩倉村の精神病院に入れることにした。
病んだ長男が入院した後、南方家に3年振りに平穏さが戻った。
昭和4年3月、皇居の生物学御研究所主任の服部広太郎が内密に南方熊楠の家を訪れた。「これは極秘の事ですが、もし天皇がこの地方に行幸された時は、粘菌について陛下にご進講してもらえますか」
6月1日、熊楠は、田辺湾の神島沖に停泊する戦艦「長門」の艦上で天皇に進講し、粘菌の標本を献上した。ご進講から33年経った昭和37年5月、天皇は白浜の宿舎から神島を望見して歌を詠まれた。「雨に煙る神島を見て紀伊の國の生みし南方熊楠を思ふ」
昭和12年2月、熊弥の病状が回復してきた。田辺で陶器と盆石を商っていた野口利太郎は、商用で京都に行く度に岩倉の病院に立ち寄っていたが、熊弥がほぼ回復していることを熊楠に知らせ、退院させた方がいいと言った。さらに野口は、長い間病人に付き添っていた特別看護人の山本栄吉に、和歌山県北西部の海南市に来て熊弥と生活するように頼んだ。山本は承諾した。3月、熊弥は退院した。
昭和14年12月、海南市で熊弥を看護していた山本が、隣組の会合からの帰りに、坂の上り口の段石で倒れ、顔面を強打して亡くなった。田辺から野口が急行して後始末を行い、あらたな看護人を雇う手配をした。
熊弥の症状は、看護人が代わっても、案じていたほどの変化はなかった。
昭和16年3月、和歌山中学時代からの親友で、松枝との結婚の世話などをしてくれた医師の喜多幅武三郎が脳溢血で亡くなった。「小生、ほとんど途方に暮れおり候」
昭和16年(1941)12月29日、午前6時30分、熊楠が死去した。享年74。
昭和20年(1945)8月15日、終戦。松枝は、食糧不足でやせ細った熊弥を自宅へ引き取った。
昭和30年(1955)11月、妻の松枝が亡くなった。享年76。
昭和35年(1960)2月18日、長男の熊弥が亡くなった。享年53。
2000年6月、長女の文枝が亡くなった。享年89。
2006年5月、「南方熊楠顕彰館」が開館した。
■杉本武之プロフィール
1939年 碧南市に生まれる。
京都大学文学部卒業。
翻訳業を経て、小学校教師になるために愛知教育大学に入学。
25年間、西尾市の小中学校に勤務。
定年退職後、名古屋大学教育学部の大学院で学ぶ。
〈趣味〉読書と競馬
・老春の戯言 No.009 ・私の出会った作品88 ・この指とまれ331 ・長澤晶子のSPEED★COOKING!
・日々是好日 ・知多の哲学散歩道Vol.40 ・若竹俳壇 ・わが家のニューフェイス ・愛とMy Family ・始まったよ
Copyright©2003-2017 Akai Newspaper dealer
プライバシーポリシー
・老春の戯言 No.009 ・私の出会った作品88 ・この指とまれ331 ・長澤晶子のSPEED★COOKING!
あかい新聞店・常滑店
新聞■折込広告取扱■求人情報■ちたろまん■中部国際空港配送業務
電話:0569-35-2861
あかい新聞店・武豊店
電話:0569-72-0356
Copyright©2003-2017 Akai Newspaper dealer
プライバシーポリシー
◎南方熊楠
実に不思議で魅力的な名前を持った南方熊楠は、明治、大正、昭和の時代を生きた植物学者・民俗学者・博物学者でした。彼の全てが一般常識から外れており、学問的にどんな業績を残したのか、どんな偉大な学者だったのか、私にはまるで見当が付きません。
昭和16年(1941)12月27日の夜、萎縮腎が悪化した南方熊楠に、娘の文枝が「医者を呼びましょうか」と聞いた。彼は「天井にきれいな紫の花がいっぱい咲いている。わしは、その花の中をふわふわと飛んでいた。医者が来れば、花もええ気持ちも消えるさかい、呼ばんといてくれ」と答えた。
翌28日の夜、彼は、妻の松枝と娘の文枝に「わしはこれから眠る。縁の下に白い小鳥が死んどるから、明日の朝、手厚く葬ってやって欲しい。お前達も早く寝なさい」と言い、手元の羽織りを頭から被った。
日付が替わって、29日の午前2時頃、彼は「野口、野口、熊弥、熊弥」と大声で叫んだ。そして、彼は再び寝息をたて始めた。その後、二度と口を開くことはなかった。
昭和16年12月29日、午前6時30分、南方熊楠は74歳で死去した。
彼は最後に「野口、熊弥」と叫びました。「熊弥」は精神を病んでいた長男の名前であり、「野口」は発病した熊弥のために奔走し、尽力してくれた野口利太郎のことです。子煩悩だった熊楠は、最後の最後まで息子のことが気になっていたのでした。
今から、長男の熊弥の病気に焦点を当てながら、世界的な大学者・南方熊楠と彼を支えた妻の松枝について書いていきます。
◎結婚までの熊楠
南方熊楠は、慶応3 年(1867)4月15日、和歌山城下で金物商を営んでいた父・弥兵衛、母・すみの次男として生まれた。
明治16年3月、和歌山中学校を卒業して上京。共立学校に入学。翌年9月、大学予備門に入学。同級生に夏目漱石、正岡子規、山田美妙らがいた。
明治19年2月、予備門を中退。12月、横浜からアメリカに向かって出港。6年後、アメリカからイギリスに渡った。科学雑誌『ネイチャー』に論文を寄稿し、高く評価された。大英博物館図書館への入室が許可された。ロンドンに亡命中の孫文と親交を深めた。
明治33年10月、長い外国での生活を終え、帰国。それから4年間、那智勝浦で生活していたが、明治37年10月、田辺で暮らすようになった。そのきっかけは、中学時代の親友・喜多幅武三郎が田辺で医者をしていることを知って訪れ、誰からも温かく歓迎されたことと、町の風情がすっかり気に入ったことであった。
明治39年、喜多幅の勧めで、田辺の闘鶏神社宮司・田村宗造の四女・松枝(28歳)と結婚した。翌年6月、長男・熊弥が誕生。明治44年10月に長女・文枝が誕生した。
◎長男・熊弥の精神異変
長男の熊弥は、物静かな子だった。中学生になると、ますます口数が少なくなった。
大正14年(1925)3月13日、彼は、高知高校(旧制)を受験するために、増田と白木という二人の同級生と共に高知に向かった。少し前から、南方家では家族の者が流行性感冒で苦しんでいた。先ず熊楠が罹り、次に長男の熊弥が寝込み、続いて松枝が流感で倒れた。高知に出発した時、熊弥は病気が治ったばかりで、体力が衰えていた。
2日後の3月15日、一緒に高知に行った増田からの電報が届いた。「クマヤ、ビョウキ、スグコイ」。熊弥が精神異常に陥ったのであった。熊楠と松枝は驚愕した。「妻は気絶せんばかりに驚き申し候。夫婦とも病気上がりにて、とても高知まで行くことはならず、よって知人二人(佐武友吉と金崎卯吉)を頼み…」。知人の二人は、3月16日の早朝に高知に出立した。
3月19 日の夜、熊弥が帰って来た。室内に入ると、彼は近寄ってきた父親に座布団を投げ付けた。唸り声を上げ、うつろな表情で両親や妹を見つめていた。熊弥は発狂していた。父親の熊楠は、肩を震わせて男泣きに泣いた。娘の文枝は書いている。「父の落胆、母の嘆きは何物にも譬えようもなく、この時、私は初めて父の涙を見ました」
その後、大暴れするようなことはなかったが、8月になると、妄想に悩まされ始め、しばしば発作を起こした。熊楠は、生活費を稼ぐために、論文を寄稿したり随筆集を刊行したりした。『南方閑話』『南方随筆』『続南方随筆』の3冊が出版された。
大正15年11月、隣家の新築の屋根の上で大工が大声で歌っているのを聞いて、熊弥は突然暴れ出し、3時間余り大声で野獣のように咆哮した。熊弥の病気はどんどん悪化していき、家族は安眠できず疲労困憊した。
昭和3年5月、ついに熊楠は息子を京都の岩倉村の精神病院に入れることにした。
病んだ長男が入院した後、南方家に3年振りに平穏さが戻った。
昭和4年3月、皇居の生物学御研究所主任の服部広太郎が内密に南方熊楠の家を訪れた。「これは極秘の事ですが、もし天皇がこの地方に行幸された時は、粘菌について陛下にご進講してもらえますか」
6月1日、熊楠は、田辺湾の神島沖に停泊する戦艦「長門」の艦上で天皇に進講し、粘菌の標本を献上した。ご進講から33年経った昭和37年5月、天皇は白浜の宿舎から神島を望見して歌を詠まれた。「雨に煙る神島を見て紀伊の國の生みし南方熊楠を思ふ」
昭和12年2月、熊弥の病状が回復してきた。田辺で陶器と盆石を商っていた野口利太郎は、商用で京都に行く度に岩倉の病院に立ち寄っていたが、熊弥がほぼ回復していることを熊楠に知らせ、退院させた方がいいと言った。さらに野口は、長い間病人に付き添っていた特別看護人の山本栄吉に、和歌山県北西部の海南市に来て熊弥と生活するように頼んだ。山本は承諾した。3月、熊弥は退院した。
昭和14年12月、海南市で熊弥を看護していた山本が、隣組の会合からの帰りに、坂の上り口の段石で倒れ、顔面を強打して亡くなった。田辺から野口が急行して後始末を行い、あらたな看護人を雇う手配をした。
熊弥の症状は、看護人が代わっても、案じていたほどの変化はなかった。
昭和16年3月、和歌山中学時代からの親友で、松枝との結婚の世話などをしてくれた医師の喜多幅武三郎が脳溢血で亡くなった。「小生、ほとんど途方に暮れおり候」
昭和16年(1941)12月29日、午前6時30分、熊楠が死去した。享年74。
昭和20年(1945)8月15日、終戦。松枝は、食糧不足でやせ細った熊弥を自宅へ引き取った。
昭和30年(1955)11月、妻の松枝が亡くなった。享年76。
昭和35年(1960)2月18日、長男の熊弥が亡くなった。享年53。
2000年6月、長女の文枝が亡くなった。享年89。
2006年5月、「南方熊楠顕彰館」が開館した。