◎渥美清

 『男はつらいよ』で有名な映画俳優・渥美清は、親しかった付け人に「こんな風に静かに死んで行きたい」と話したそうです。

 「オレはね、ひとり静かに、誰もいない山道をとぼとぼと歩いて行くんだよ。そうすると、枯れ葉がね、チャバチャバと手品師の花びらのように落ちてくるんだよ。

 それでオレはね、ひとり静かに歩いて行って、パッタリと倒れるんだ。そうするとね、枯れ葉がどんどん落ちて来て、オレはやがて枯れ葉に包まれて、かくれんぼしているみたいに見えなくなってしまう。そうやってオレは、どこの誰だか分からないように死んでいくんだよ」

 私も、そんな風に静かに死んで行けたらいいなあと思っています。人の殆ど通らない寂しい村の小道、又は低い山の狭い道を歩いていて、私は突然倒れる。倒れた私の上に枯れ葉が落ちて来る。そのまま私は枯れ葉に包まれて死んで行く。その時に舞い落ちて来る枯れ葉は何でもいいけど、できたら色々な種類の葉っぱが落ちて来るといいなあ。体の上に落ちて来る乾いた葉っぱの音を聞きながら死んで行く……。

 山道でひとり静かに死ぬことを夢見ていた渥美清は、1996年8月4日に肺ガンのため大学病院で亡くなりました。死後、入会していた「アエラ句会」で詠んだ俳句が公表されました。その中の一句「お遍路が一列に行く虹の中」が専門の俳人の目に留まり、講談社の『新日本大歳時記』に収録されました。

 たちまちのうちに、渥美清が風天という俳号で秀れた俳句を作っていたことが多くの人々に知られるようになりました。その後、幾つかの句会で作られた句が見つかりました。魅力的な句が多く、渥美清は俳人としても非常に有名になりました。

 私も、渥美清という俳優が、「お遍路が一列に行く虹の中」「村の子がくれた林檎ひとつ旅いそぐ」「花びらの出て又入る鯉の口」のような俳句を作っていたことを知って、とても驚きました。さっそく図書館に行き、森英介著『風天・渥美清のうた』(大空出版)を借りて来ました。彼の全ての俳句を読みました。映画俳優としてもすごかったが、俳人としても一流だったことが分かりました。

 

〈渥美清の略年譜〉

・1928年(昭和3)3月10日、東京に生まれる。本名は田所康雄。

・1942年、東京市立志村高等尋常小学校を卒業。「東京管楽器」の小さな工場に就職。その後、数々のストリップ劇場でコメディアンとして働く。

・1953年、浅草のフランス座に入る。翌年、結核の治療のため入院。右肺を摘出。3年間の長い療養生活を送る。

・1961年、NHKの軽ドラマ『若い季節』やバラエティー番組『夢であいましょう』に出演して人気が出る。

・1968年、10月からフジテレビのドラマ『男はつらいよ』(脚本・山田洋次)に主演する。

・1969年、3月、テレビの『男はつらいよ』が終了する。このドラマは山田洋次監督で松竹で映画化され、ヒットする。直ちに『続・男はつらいよ』が作られる。

・1973年、「話の特集句会」に入会して、俳句を作り始める。

・1988年、「アエラ句会」に入会する。

・1995年(平成7)12月、第48作『男はつらいよ・寅次郎紅の花』が公開される。

・1996年8月4日、転移性肺ガンのため東京の順天堂大学附属病院で死去。享年68。8月6日、彼の遺志により、家族だけの密葬が営まれる。8月13日、松竹大船撮影所で「お別れの会」が行われ、3万5千人が参列する。9月、国民栄誉賞受賞。

 

◎渥美清の俳句

 先日、図書館に行って『渥美清句集・赤とんぼ』( 本阿弥書店)を借りました。そして、久しぶりに渥美清の全ての俳句(223句)を読み直しました。

 印象に残った幾つかの句を紹介します。私の感想を極く短く書きます。

(1)「お遍路が一列に行く虹の中」=文句なく素晴らしい句です。やはりこれが風天俳句の頂点でしょうね。

(2)「村の子がくれた林檎ひとつ旅いそぐ」=何と素朴で人情味にあふれた作品でしょう。私はこの句が大好きです。

(3)「花びらの出て又入る鯉の口」=京都の有名な庭園の池で、大きな鯉が水面に浮いている白い花びらを口に入れたり出したりするのを見たことを思い出しました。

(4)「そば食らう歯のない婆や夜の駅」=暗く侘しい情景ですが、たくましい生命力も感じられます。私も歯が一本もありません。

(5)「ぬれた眼でなにを見ている仔馬」=牧場で遠くを見ている子馬。強い競走馬になることを夢見ているのでしょうか。

(6)「ゆうべの台風どこに居たちょうちょ」=羽が大きな蝶々は、ちょっとした風でも吹き流されてしまいます。台風の時、どうしていたのでしょうか。

(7)「赤とんぼじっとしたまま明日どうする」=私のイメージでは、赤とんぼはいつも澄んだ秋空を仲間の赤とんぼと一緒にすいすいと飛んでいるのですが……。

(8)「花冷えや我が内と外に君が居て」=好きな女の人ができると、男は何時でも何処でもその女の人のことを想うようになります。そういうものだと私は思っています。

(9)「びわの種残されてふふくそう」=なんと言っても、ビワの種は大きすぎます。美味しいけれど、食べるところが少ないのがビワの欠点。

(10)「汗濡れし乳房覗かせ手渡すラムネ」=小学生の時、夏の夜店でこんなふうな姿で働いている中年の女の人を見て、心がときめいたことを思い出しました。

 風天の俳句にはまだまだ素敵なものがたくさんあります。

 「春のつばくろ休んでおいで峠くだれば人の里」「土筆これからどうするひとりぽつんと」「深づめの足袋こそばゆく湯ざめして」「日の落ちて蝉逃げるように鳴く残暑」「団扇にて軽く袖打つ仲となり」「雛にぎるように渡すぶどう一房」「股ぐらに巻き込む布団眠れぬ夜」「乱歩読む窓のガラスに蝸牛」

 山田洋次監督は、『赤とんぼ・渥美清句集』の中で次のように書いています。

 「渥美さんは物事の本質や情景を短い言葉でスパッと言い当てるのがほどんど名人芸のようだった。人間に対して、あるいは社会について的確かつ辛辣な批評の言葉を持っていた。それはまさしく俳人たる資格だったのかもしれない。ぼくの思い出の中の渥美さんは、時として哲学者のように思索的であり、またある時は詩人のように美しい言葉を語る人である」

 

■杉本武之プロフィール

1939年 碧南市に生まれる。

京都大学文学部卒業。

翻訳業を経て、小学校教師になるために愛知教育大学に入学。

25年間、西尾市の小中学校に勤務。

定年退職後、名古屋大学教育学部の大学院で学ぶ。

〈趣味〉読書と競馬

 

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◎渥美清

 『男はつらいよ』で有名な映画俳優・渥美清は、親しかった付け人に「こんな風に静かに死んで行きたい」と話したそうです。

 「オレはね、ひとり静かに、誰もいない山道をとぼとぼと歩いて行くんだよ。そうすると、枯れ葉がね、チャバチャバと手品師の花びらのように落ちてくるんだよ。

 それでオレはね、ひとり静かに歩いて行って、パッタリと倒れるんだ。そうするとね、枯れ葉がどんどん落ちて来て、オレはやがて枯れ葉に包まれて、かくれんぼしているみたいに見えなくなってしまう。そうやってオレは、どこの誰だか分からないように死んでいくんだよ」

 私も、そんな風に静かに死んで行けたらいいなあと思っています。人の殆ど通らない寂しい村の小道、又は低い山の狭い道を歩いていて、私は突然倒れる。倒れた私の上に枯れ葉が落ちて来る。そのまま私は枯れ葉に包まれて死んで行く。その時に舞い落ちて来る枯れ葉は何でもいいけど、できたら色々な種類の葉っぱが落ちて来るといいなあ。体の上に落ちて来る乾いた葉っぱの音を聞きながら死んで行く……。

 山道でひとり静かに死ぬことを夢見ていた渥美清は、1996年8月4日に肺ガンのため大学病院で亡くなりました。死後、入会していた「アエラ句会」で詠んだ俳句が公表されました。その中の一句「お遍路が一列に行く虹の中」が専門の俳人の目に留まり、講談社の『新日本大歳時記』に収録されました。

 たちまちのうちに、渥美清が風天という俳号で秀れた俳句を作っていたことが多くの人々に知られるようになりました。その後、幾つかの句会で作られた句が見つかりました。魅力的な句が多く、渥美清は俳人としても非常に有名になりました。

 私も、渥美清という俳優が、「お遍路が一列に行く虹の中」「村の子がくれた林檎ひとつ旅いそぐ」「花びらの出て又入る鯉の口」のような俳句を作っていたことを知って、とても驚きました。さっそく図書館に行き、森英介著『風天・渥美清のうた』(大空出版)を借りて来ました。彼の全ての俳句を読みました。映画俳優としてもすごかったが、俳人としても一流だったことが分かりました。

 

 

〈渥美清の略年譜〉

・1928年(昭和3)3月10日、東京に生まれる。本名は田所康雄。

・1942年、東京市立志村高等尋常小学校を卒業。「東京管楽器」の小さな工場に就職。その後、数々のストリップ劇場でコメディアンとして働く。

・1953年、浅草のフランス座に入る。翌年、結核の治療のため入院。右肺を摘出。3年間の長い療養生活を送る。

・1961年、NHKの軽ドラマ『若い季節』やバラエティー番組『夢であいましょう』に出演して人気が出る。

・1968年、10月からフジテレビのドラマ『男はつらいよ』(脚本・山田洋次)に主演する。

・1969年、3月、テレビの『男はつらいよ』が終了する。このドラマは山田洋次監督で松竹で映画化され、ヒットする。直ちに『続・男はつらいよ』が作られる。

・1973年、「話の特集句会」に入会して、俳句を作り始める。

・1988年、「アエラ句会」に入会する。

・1995年(平成7)12月、第48作『男はつらいよ・寅次郎紅の花』が公開される。

・1996年8月4日、転移性肺ガンのため東京の順天堂大学附属病院で死去。享年68。8月6日、彼の遺志により、家族だけの密葬が営まれる。8月13日、松竹大船撮影所で「お別れの会」が行われ、3万5千人が参列する。9月、国民栄誉賞受賞。

 

◎渥美清の俳句

 先日、図書館に行って『渥美清句集・赤とんぼ』( 本阿弥書店)を借りました。そして、久しぶりに渥美清の全ての俳句(223句)を読み直しました。

 印象に残った幾つかの句を紹介します。私の感想を極く短く書きます。

(1)「お遍路が一列に行く虹の中」=文句なく素晴らしい句です。やはりこれが風天俳句の頂点でしょうね。

(2)「村の子がくれた林檎ひとつ旅いそぐ」=何と素朴で人情味にあふれた作品でしょう。私はこの句が大好きです。

(3)「花びらの出て又入る鯉の口」=京都の有名な庭園の池で、大きな鯉が水面に浮いている白い花びらを口に入れたり出したりするのを見たことを思い出しました。

(4)「そば食らう歯のない婆や夜の駅」=暗く侘しい情景ですが、たくましい生命力も感じられます。私も歯が一本もありません。

(5)「ぬれた眼でなにを見ている仔馬」=牧場で遠くを見ている子馬。強い競走馬になることを夢見ているのでしょうか。

(6)「ゆうべの台風どこに居たちょうちょ」=羽が大きな蝶々は、ちょっとした風でも吹き流されてしまいます。台風の時、どうしていたのでしょうか。

(7)「赤とんぼじっとしたまま明日どうする」=私のイメージでは、赤とんぼはいつも澄んだ秋空を仲間の赤とんぼと一緒にすいすいと飛んでいるのですが……。

(8)「花冷えや我が内と外に君が居て」=好きな女の人ができると、男は何時でも何処でもその女の人のことを想うようになります。そういうものだと私は思っています。

(9)「びわの種残されてふふくそう」=なんと言っても、ビワの種は大きすぎます。美味しいけれど、食べるところが少ないのがビワの欠点。

(10)「汗濡れし乳房覗かせ手渡すラムネ」=小学生の時、夏の夜店でこんなふうな姿で働いている中年の女の人を見て、心がときめいたことを思い出しました。

 風天の俳句にはまだまだ素敵なものがたくさんあります。

 「春のつばくろ休んでおいで峠くだれば人の里」「土筆これからどうするひとりぽつんと」「深づめの足袋こそばゆく湯ざめして」「日の落ちて蝉逃げるように鳴く残暑」「団扇にて軽く袖打つ仲となり」「雛にぎるように渡すぶどう一房」「股ぐらに巻き込む布団眠れぬ夜」「乱歩読む窓のガラスに蝸牛」

 山田洋次監督は、『赤とんぼ・渥美清句集』の中で次のように書いています。

 「渥美さんは物事の本質や情景を短い言葉でスパッと言い当てるのがほどんど名人芸のようだった。人間に対して、あるいは社会について的確かつ辛辣な批評の言葉を持っていた。それはまさしく俳人たる資格だったのかもしれない。ぼくの思い出の中の渥美さんは、時として哲学者のように思索的であり、またある時は詩人のように美しい言葉を語る人である」