◎堀川弘通

 1998年に88歳で亡くなった偉大な映画監督・黒澤明は多くの助監督と組みましたが、彼が最も信頼した助監督は6歳年下の堀川弘通だったと思われます。

 堀川弘通は1916年に京都で生まれた。1940年、東京大学文学部を卒業すると東宝に入社。山本嘉次郎監督の『馬』(主演・高峰秀子)のフォース助監督としてつき、チーフ助監督だった黒澤明と一緒に仕事をした。

 堀川は初対面の様子をこう書いています。

 「『よろしくお願いします』。私は型通りの挨拶をした。相手は身長185センチもあろうか、見上げるような痩せた大男だった。私はこの時初めて『馬』のチーフ助監督・黒澤明に紹介されたのである。1940年( 昭和15)8 月のある日、東宝撮影所の広場でのことだったと記憶している。

 通称クロさんと呼ばれる男は、無愛想で、『これが今度、山本組につく新米助監督か』という風に、興味あり気に私を見下ろした。だが、その目は優しかった」

 黒澤明は堀川を可愛がり、二人で飲み回り、よく話し合った。しかし、間もなく堀川は肺結核になり1年間休職した。病気が良くなり助監督に復帰すると、黒澤の第2作『一番美しく』にセカンド、第3作『続姿三四郎』にサードとしてついた。

 1945年5月に軍隊に召集され、10月に復員した。再び黒澤組に戻り、『わが青春に悔いなし』のチーフ助監督になった。その後、病気が再発して3年半も休職した。回復すると、『生きる』と『七人の侍』のチーフ助監督として黒澤監督を献身的に支えた。

 『七人の侍』は1954年(昭和29)に完成した。その翌年、堀川は『あすなろ物語』で監督としてスタートした。井上靖の原作を基に、黒澤明が「よし、シナリオは俺が書いてやる」と言って、愛弟子のために脚本を書いた。堀川は、その後『女殺し油地獄』『裸の大将』『黒い画集・あるサラリーマンの証言』などの作品を監督して一流の映画監督として日本映画史に名を残した。黒澤明は1998年に脳卒中で死去した。享年88。堀川弘通も長く生きて、2012年に死去した。96歳だった。

◎『評伝 黒澤明』

 堀川は、黒澤明が死んだ2年後に『評伝 黒澤明』を書きました。

 「クロサワ映画の周辺にいた者の一人として、そろそろ腰を上げて『黒澤明』の実像を語る必要が出て来たと思うようになって来た。自分の見た『黒澤明』、自分の感じた『黒澤明』、そして私が交わした『黒澤明』との会話、それは好悪を超えて正直に記録しておく必要があると感じる。誤りがあるやも知れないが、クロさんとの交流の中で、現在まで私が保持していることを書きたかったまでである」

 この本を読んで、私が特に興味を持ったエピソードを二つ紹介します。

〈自殺未遂事件〉

 1971年(昭和46)12月22日の朝、61歳の黒澤明が自宅の風呂場でカミソリで首と手首を切り自殺を図りました。

 その時、私は32歳で、人生の岐路に立っていました。2年前に結婚して、二人の子供がいましたが、私は定職に就いていませんでした。そこで、その年の春に、小学校の教師の免許を取ろうとして、愛知教育大学の入学試験を受けました。幸い合格して、毎日、刈谷市に移転して間もない大学に通っていました。

 この世で最も尊敬していた黒澤明の自殺未遂事件は、私に大きな衝撃を与えました。

 堀川の文章を読んでみましょう。

 「1971 (昭和46)年12月22日、昼のテレビはクロさんの自殺未遂事件を報じた。私は慌てて、クロさんの入院先、昭和大学付属秋田外科病院に駆けつけた。京王電車沿いにある、あまり立派ではない病院だった。階段を上がってすぐの、二階の個室だったように記憶している。私が駆けつけた時、クロさんは首を包帯でぐるぐる巻きにして、痛々しい姿だった。枕元には二、三人いたと思うが、誰だったか名前は思い出せない。妻の喜代子の姿もなく、その時、娘の和子以外、家族の姿はなかったように記憶している。ただ橋本忍が涙ぐんで、『クロさん、何で? 何でこんなことを……』と繰り返していた。

 クロさんは、うん、うんと頷くような感じで、気弱そうに私の方を見た。私はクロさんの顔を正視できず、顔をそらした。私も、この時、混乱していたのだろう。それ以外は思い出せない。

 その日の『朝日新聞』夕刊によれば、『22日朝、自宅風呂場でカミソリで首と手首を切り自殺を図った。首の傷は幸い頸動脈すれすれで止まっていたため、約2週間程度で回復する見込み。原因は手掛けていたテレビ映画の企画がうまく行かなかったこと、黒澤プロが赤字を抱えていたと言われることなど、様々な憶測が出ているが、大映の行き詰まりなど苦悩する映画界にまた大きな波紋を投げかけることになりそうだ』という記事である。

 私はクロさんが回復した後も、一度もこの件について話し合ったことはない。クロさん自身も一切何も語らなかった。向こうが語りたがらない事件を、こちらが、こうですか、ああですかとは、とても言い出せない」

〈『七人の侍』について〉

 今なお世界映画史上に燦然と輝く黒澤明の代表作『七人の侍』のシナリオは、次のような苦しみの後に完成されました。その部分を読んでみましょう。

 「『七人の侍』の発端は、徳川中期の侍の一日を克明に描き、その主人公がヒョンなことからある事件に巻き込まれ、切腹しなければならなくなる、というような話を考えよう、というところから始まった。ところがその時代の侍の生活ぶり、例えば何時に起床して、朝食に何を食べ、何時に藩に出仕し、午前中はどんな仕事につき、藩主、家老、何の役付きの侍と協議し、昼食に何を食べ、藩出入りの商人と、どういう談合をするのか。その主人公の役付き、階級によっていろいろ変わると思うが調べてみても、リアルに考えれば考えるほど不明の点が多くて、ハタと行き詰まった。

 ともあれ、黒澤シナリオチーム(黒澤明・橋本忍・小国英雄)は時代を戦国時代にまで広げ、乱世の時代に野盗群を防ぐため浪人たちを雇った村があったという話に、橋本が目を止めた。『それだ』というので、シナリオチームは構想を変えて、熱海の『水口園』に籠もってシナリオを書き出した。

 橋本が第一稿を担当し、それを基にクロさんと橋本がシナリオを根本的に書き直し、二人の書いたシーンの善し悪し、採用の判定は小国英雄がやるということで、二人は別々の部屋に籠もって作業した。そして出来たところで三人が集まって納得し合い、次のシーンに進むという具合で、40日間一歩も宿から出ず、後半、いいアイデアが浮かばないと、イライラして眠れず、多量の睡眠薬と飲酒をチャンポンに使用するようになった」

 

■杉本武之プロフィール

1939年 碧南市に生まれる。

京都大学文学部卒業。

翻訳業を経て、小学校教師になるために愛知教育大学に入学。

25年間、西尾市の小中学校に勤務。

定年退職後、名古屋大学教育学部の大学院で学ぶ。

〈趣味〉読書と競馬

 

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◎堀川弘通

 1998年に88歳で亡くなった偉大な映画監督・黒澤明は多くの助監督と組みましたが、彼が最も信頼した助監督は6歳年下の堀川弘通だったと思われます。

 堀川弘通は1916年に京都で生まれた。1940年、東京大学文学部を卒業すると東宝に入社。山本嘉次郎監督の『馬』(主演・高峰秀子)のフォース助監督としてつき、チーフ助監督だった黒澤明と一緒に仕事をした。

 堀川は初対面の様子をこう書いています。

 「『よろしくお願いします』。私は型通りの挨拶をした。相手は身長185センチもあろうか、見上げるような痩せた大男だった。私はこの時初めて『馬』のチーフ助監督・黒澤明に紹介されたのである。1940年( 昭和15)8 月のある日、東宝撮影所の広場でのことだったと記憶している。

 通称クロさんと呼ばれる男は、無愛想で、『これが今度、山本組につく新米助監督か』という風に、興味あり気に私を見下ろした。だが、その目は優しかった」

 黒澤明は堀川を可愛がり、二人で飲み回り、よく話し合った。しかし、間もなく堀川は肺結核になり1年間休職した。病気が良くなり助監督に復帰すると、黒澤の第2作『一番美しく』にセカンド、第3作『続姿三四郎』にサードとしてついた。

 1945年5月に軍隊に召集され、10月に復員した。再び黒澤組に戻り、『わが青春に悔いなし』のチーフ助監督になった。その後、病気が再発して3年半も休職した。回復すると、『生きる』と『七人の侍』のチーフ助監督として黒澤監督を献身的に支えた。

 『七人の侍』は1954年(昭和29)に完成した。その翌年、堀川は『あすなろ物語』で監督としてスタートした。井上靖の原作を基に、黒澤明が「よし、シナリオは俺が書いてやる」と言って、愛弟子のために脚本を書いた。堀川は、その後『女殺し油地獄』『裸の大将』『黒い画集・あるサラリーマンの証言』などの作品を監督して一流の映画監督として日本映画史に名を残した。黒澤明は1998年に脳卒中で死去した。享年88。堀川弘通も長く生きて、2012年に死去した。96歳だった。

 

 

◎『評伝 黒澤明』

 堀川は、黒澤明が死んだ2年後に『評伝 黒澤明』を書きました。

 「クロサワ映画の周辺にいた者の一人として、そろそろ腰を上げて『黒澤明』の実像を語る必要が出て来たと思うようになって来た。自分の見た『黒澤明』、自分の感じた『黒澤明』、そして私が交わした『黒澤明』との会話、それは好悪を超えて正直に記録しておく必要があると感じる。誤りがあるやも知れないが、クロさんとの交流の中で、現在まで私が保持していることを書きたかったまでである」

 この本を読んで、私が特に興味を持ったエピソードを二つ紹介します。

〈自殺未遂事件〉

 1971年(昭和46)12月22日の朝、61歳の黒澤明が自宅の風呂場でカミソリで首と手首を切り自殺を図りました。

 その時、私は32歳で、人生の岐路に立っていました。2年前に結婚して、二人の子供がいましたが、私は定職に就いていませんでした。そこで、その年の春に、小学校の教師の免許を取ろうとして、愛知教育大学の入学試験を受けました。幸い合格して、毎日、刈谷市に移転して間もない大学に通っていました。

 この世で最も尊敬していた黒澤明の自殺未遂事件は、私に大きな衝撃を与えました。

 堀川の文章を読んでみましょう。

 「1971 (昭和46)年12月22日、昼のテレビはクロさんの自殺未遂事件を報じた。私は慌てて、クロさんの入院先、昭和大学付属秋田外科病院に駆けつけた。京王電車沿いにある、あまり立派ではない病院だった。階段を上がってすぐの、二階の個室だったように記憶している。私が駆けつけた時、クロさんは首を包帯でぐるぐる巻きにして、痛々しい姿だった。枕元には二、三人いたと思うが、誰だったか名前は思い出せない。妻の喜代子の姿もなく、その時、娘の和子以外、家族の姿はなかったように記憶している。ただ橋本忍が涙ぐんで、『クロさん、何で? 何でこんなことを……』と繰り返していた。

 クロさんは、うん、うんと頷くような感じで、気弱そうに私の方を見た。私はクロさんの顔を正視できず、顔をそらした。私も、この時、混乱していたのだろう。それ以外は思い出せない。

 その日の『朝日新聞』夕刊によれば、『22日朝、自宅風呂場でカミソリで首と手首を切り自殺を図った。首の傷は幸い頸動脈すれすれで止まっていたため、約2週間程度で回復する見込み。原因は手掛けていたテレビ映画の企画がうまく行かなかったこと、黒澤プロが赤字を抱えていたと言われることなど、様々な憶測が出ているが、大映の行き詰まりなど苦悩する映画界にまた大きな波紋を投げかけることになりそうだ』という記事である。

 私はクロさんが回復した後も、一度もこの件について話し合ったことはない。クロさん自身も一切何も語らなかった。向こうが語りたがらない事件を、こちらが、こうですか、ああですかとは、とても言い出せない」

〈『七人の侍』について〉

 今なお世界映画史上に燦然と輝く黒澤明の代表作『七人の侍』のシナリオは、次のような苦しみの後に完成されました。その部分を読んでみましょう。

 「『七人の侍』の発端は、徳川中期の侍の一日を克明に描き、その主人公がヒョンなことからある事件に巻き込まれ、切腹しなければならなくなる、というような話を考えよう、というところから始まった。ところがその時代の侍の生活ぶり、例えば何時に起床して、朝食に何を食べ、何時に藩に出仕し、午前中はどんな仕事につき、藩主、家老、何の役付きの侍と協議し、昼食に何を食べ、藩出入りの商人と、どういう談合をするのか。その主人公の役付き、階級によっていろいろ変わると思うが調べてみても、リアルに考えれば考えるほど不明の点が多くて、ハタと行き詰まった。

 ともあれ、黒澤シナリオチーム(黒澤明・橋本忍・小国英雄)は時代を戦国時代にまで広げ、乱世の時代に野盗群を防ぐため浪人たちを雇った村があったという話に、橋本が目を止めた。『それだ』というので、シナリオチームは構想を変えて、熱海の『水口園』に籠もってシナリオを書き出した。

 橋本が第一稿を担当し、それを基にクロさんと橋本がシナリオを根本的に書き直し、二人の書いたシーンの善し悪し、採用の判定は小国英雄がやるということで、二人は別々の部屋に籠もって作業した。そして出来たところで三人が集まって納得し合い、次のシーンに進むという具合で、40日間一歩も宿から出ず、後半、いいアイデアが浮かばないと、イライラして眠れず、多量の睡眠薬と飲酒をチャンポンに使用するようになった」