◎中野孝次

 中野孝次という名前を聞いてもすぐにピンと来る人は少ないと思います。しかし、『ハラスのいた日々』や『清貧の思想』を書いた人だと聞けば、「読んだことはないが、そういう本のことは聞いたことがある」と思い出す人は多いでしょう。

 昭和62年(1987)に『ハラスのいた日々』(文芸春秋)が刊行されました。犬の好きな私はすぐに買い求めて読みました。深く感動しました。

 平成4年(1992)に『清貧の思想』(草思社)が刊行されました。世評が高く、私も読んでみたくなり、本屋に急行して買い求め、夢中になって読みました。

 平成7年(1995)に『良寛の呼ぶ声』(春秋社)が刊行されました。良寛に興味があった私は、すぐに買って読みました。良寛のことがよく分かったような気がしました。

 このようにして私は中野孝次という真摯な作家・評論家のことを知りました。

〈略年譜〉

 大正14年(1925)1月1日、千葉県東葛飾郡市川町(現・市川市)に生まれた。

 昭和14年(1939)3月、市川尋常高等小学校を卒業。2年後、高等学校高等科入学資格試験に合格。予備校で勉強して、昭和19年、熊本の第五高等学校の入試に合格。

 昭和20年1月から熊本市陸軍の航空機製作所に学徒動員。5月、召集されて宇都宮の連隊に入営。8月15日、終戦。10月、熊本の五高に戻った。

 昭和22年3月、五高卒業。4月、東京大学ドイツ文学科に入学。

 昭和25年3月、東大卒業。4月、東大文学部大学院に入学。

 昭和27年3月、東大文学部大学院を修了。4月、国学院大学の常勤講師になる。7月、成瀬秀と結婚。

 昭和40年4月、国学院大学教授になる。

 昭和51年、『ブリューゲルヘの旅』を刊行。

 昭和56年3月、国学院大学退職。

 昭和62年、『ハラスのいた日々』を刊行。

 平成4年、『清貧の思想』を刊行。

 平成7年、『良寛の呼ぶ声』を刊行。

 平成16年(2004)7月16日、鎌倉市の病院で食道ガンのために死去。享年79。

〈「死に際しての処置」〉

 中野孝次は、死ぬ3年前に「死に際しての処置」を書きました。私も死んだら、こういう処置をしてもらいたいと思っています。少し長いですが、全文引用します。

「死に際しての処置」

二〇〇一年五月三日、記す。

一、医師により死が確認せられたる時は、近親者と、別に指名せる編集者にのみにこれを知らせ、それ以外の者に知らせるなかれ。

一、近親者とは、予と秀(注・妻)の姉妹弟とその伴侶なり。

一、密葬に必要なかぎり葬儀屋に依頼すべきも、葬儀屋の言う通りにすべからず。

一、湯帷子の如き、草履、脚絆の如きは一切用うべからず。海島綿の下着をつけ、平常好んで着たるシャツに、ズボン、上着を着せ、生ける時の如くすべし。

一、死体の処置を近親者に限るは第三者に死顔を見せざるためなり。

一、飾りなき車にて棺を運び荼毘に付すべし。

一、骨を信州須坂浄運寺に運び小林覚雄和尚により簡素なる密葬を行うこと。このことは新聞紙上に公表して可なり。来る人が来ればよし。

一、死後「お別れの会」の如きはすべからず。

一、要するに、すべて最も簡略に迅速に事務的にやって貰いたい。

一、死はさしたる事柄に非ず。生の時は生あるのみ、死の時は死あるのみ、悲しむべきことに非ざるが故に。

一、小林和尚が浄土宗の流儀にて葬儀を行うは、これに従うべし。

 以上なり。予はすでに墓誌に記せる如く、十九歳、第五高等学校に遊学以来、文学を愛し、生涯の業とせり。戦後の窮乏時代には文学を以て生きること、はなはだ困難なりしも、素志を貫き、以来、ただ文学一筋に生きたり。これを誇りとす。また、成瀬秀と結婚し、先年、金婚の祝いをせしまで、共に支え合い、つつがなく生きたことを幸せとす。

 顧みて、幸福なる生涯なりき。このことを天に感謝す。

 わが志・わが思想・わが願いはすべて、わが著作にあり。予は喜びも悲しみもすべて文学に託して生きたり。予を偲ぶ者あらば、予が著作を見よ。 予に関わりしすべての人に感謝す。さらば。

〈良寛への憧れ〉

 中野孝次は江戸時代の禅僧・良寛の生き方に強く引き付けられました。彼の最初の本格的な良寛論『良寛の呼ぶ声』の中で、彼はこう書きました。

 「良寛は、ごく日常的なところから見ても、私とはずいぶん違う人である。彼は、草庵という極小点を住居とし、ほとんど物を所有していないのに対し、私は、それに較べたらずっと大きな家に住み、多くの物を所有している。彼には、炉と最小限の食器、道具、寝具、衣類があるだけだが、私は、ほとんど不必要なくらい多くそれらを持ち、ひねれば湯の出る水道管、洗濯機、冷蔵庫、炊飯器、暖房、クーラーなど、生活の利便と快適に恵まれている。

 良寛とは世間一般の人間の生に対するクリテーリウム(試金石とか判断基準)なのである。良寛に触れることで、世の人は自らの生き方を自ずと反省させられるのである。自分の生き方の正・不正、善し悪し、高雅か卑俗か、欲ぼけかどうか、親切か冷酷か、慈愛か邪険か、そういう道徳的な面のみならず、心のありようそのものをあぶり出されるような気がしてくるのだ」

 中野孝次は、死ぬ前年、新潟県民文化祭で講演をしました。その時に、司会者から「現代の高校生や大学生に、良寛のことで何を伝えたいか」と問われて、次のように答えました。

 「自分で指示して、1週間なら1 週間 、粗食をし、テレビもケータイも無い生活をし、板の上に寝る。そういう生活を1週間に限ってやってもらう。そして、1日3食、それも間食はしない。腹が減ったら食うっていうのではなくて、3食きちんと食うという生活。そういう単純なことでいい。それで自然の中に入って、そういう生活をすればいい。とにかく、ゼロに身を置く訓練をしなさい」

 犬と良寛について、私は彼から多くのことを学びました。

 

■杉本武之プロフィール

1939年 碧南市に生まれる。

京都大学文学部卒業。

翻訳業を経て、小学校教師になるために愛知教育大学に入学。

25年間、西尾市の小中学校に勤務。

定年退職後、名古屋大学教育学部の大学院で学ぶ。

〈趣味〉読書と競馬

 

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◎中野孝次

 中野孝次という名前を聞いてもすぐにピンと来る人は少ないと思います。しかし、『ハラスのいた日々』や『清貧の思想』を書いた人だと聞けば、「読んだことはないが、そういう本のことは聞いたことがある」と思い出す人は多いでしょう。

 昭和62年(1987)に『ハラスのいた日々』(文芸春秋)が刊行されました。犬の好きな私はすぐに買い求めて読みました。深く感動しました。

 平成4年(1992)に『清貧の思想』(草思社)が刊行されました。世評が高く、私も読んでみたくなり、本屋に急行して買い求め、夢中になって読みました。

 平成7年(1995)に『良寛の呼ぶ声』(春秋社)が刊行されました。良寛に興味があった私は、すぐに買って読みました。良寛のことがよく分かったような気がしました。

 このようにして私は中野孝次という真摯な作家・評論家のことを知りました。

〈略年譜〉

 大正14年(1925)1月1日、千葉県東葛飾郡市川町(現・市川市)に生まれた。

 昭和14年(1939)3月、市川尋常高等小学校を卒業。2年後、高等学校高等科入学資格試験に合格。予備校で勉強して、昭和19年、熊本の第五高等学校の入試に合格。

 昭和20年1月から熊本市陸軍の航空機製作所に学徒動員。5月、召集されて宇都宮の連隊に入営。8月15日、終戦。10月、熊本の五高に戻った。

 昭和22年3月、五高卒業。4月、東京大学ドイツ文学科に入学。

 昭和25年3月、東大卒業。4月、東大文学部大学院に入学。

 昭和27年3月、東大文学部大学院を修了。4月、国学院大学の常勤講師になる。7月、成瀬秀と結婚。

 昭和40年4月、国学院大学教授になる。

 昭和51年、『ブリューゲルヘの旅』を刊行。

 昭和56年3月、国学院大学退職。

 昭和62年、『ハラスのいた日々』を刊行。

 平成4年、『清貧の思想』を刊行。

 平成7年、『良寛の呼ぶ声』を刊行。

 平成16年(2004)7月16日、鎌倉市の病院で食道ガンのために死去。享年79。

 

 

〈「死に際しての処置」〉

 中野孝次は、死ぬ3年前に「死に際しての処置」を書きました。私も死んだら、こういう処置をしてもらいたいと思っています。少し長いですが、全文引用します。

「死に際しての処置」

二〇〇一年五月三日、記す。

一、医師により死が確認せられたる時は、近親者と、別に指名せる編集者にのみにこれを知らせ、それ以外の者に知らせるなかれ。

一、近親者とは、予と秀(注・妻)の姉妹弟とその伴侶なり。

一、密葬に必要なかぎり葬儀屋に依頼すべきも、葬儀屋の言う通りにすべからず。

一、湯帷子の如き、草履、脚絆の如きは一切用うべからず。海島綿の下着をつけ、平常好んで着たるシャツに、ズボン、上着を着せ、生ける時の如くすべし。

一、死体の処置を近親者に限るは第三者に死顔を見せざるためなり。

一、飾りなき車にて棺を運び荼毘に付すべし。

一、骨を信州須坂浄運寺に運び小林覚雄和尚により簡素なる密葬を行うこと。このことは新聞紙上に公表して可なり。来る人が来ればよし。

一、死後「お別れの会」の如きはすべからず。

一、要するに、すべて最も簡略に迅速に事務的にやって貰いたい。

一、死はさしたる事柄に非ず。生の時は生あるのみ、死の時は死あるのみ、悲しむべきことに非ざるが故に。

一、小林和尚が浄土宗の流儀にて葬儀を行うは、これに従うべし。

 以上なり。予はすでに墓誌に記せる如く、十九歳、第五高等学校に遊学以来、文学を愛し、生涯の業とせり。戦後の窮乏時代には文学を以て生きること、はなはだ困難なりしも、素志を貫き、以来、ただ文学一筋に生きたり。これを誇りとす。また、成瀬秀と結婚し、先年、金婚の祝いをせしまで、共に支え合い、つつがなく生きたことを幸せとす。

 顧みて、幸福なる生涯なりき。このことを天に感謝す。

 わが志・わが思想・わが願いはすべて、わが著作にあり。予は喜びも悲しみもすべて文学に託して生きたり。予を偲ぶ者あらば、予が著作を見よ。 予に関わりしすべての人に感謝す。さらば。

〈良寛への憧れ〉

 中野孝次は江戸時代の禅僧・良寛の生き方に強く引き付けられました。彼の最初の本格的な良寛論『良寛の呼ぶ声』の中で、彼はこう書きました。

 「良寛は、ごく日常的なところから見ても、私とはずいぶん違う人である。彼は、草庵という極小点を住居とし、ほとんど物を所有していないのに対し、私は、それに較べたらずっと大きな家に住み、多くの物を所有している。彼には、炉と最小限の食器、道具、寝具、衣類があるだけだが、私は、ほとんど不必要なくらい多くそれらを持ち、ひねれば湯の出る水道管、洗濯機、冷蔵庫、炊飯器、暖房、クーラーなど、生活の利便と快適に恵まれている。

 良寛とは世間一般の人間の生に対するクリテーリウム(試金石とか判断基準)なのである。良寛に触れることで、世の人は自らの生き方を自ずと反省させられるのである。自分の生き方の正・不正、善し悪し、高雅か卑俗か、欲ぼけかどうか、親切か冷酷か、慈愛か邪険か、そういう道徳的な面のみならず、心のありようそのものをあぶり出されるような気がしてくるのだ」

 中野孝次は、死ぬ前年、新潟県民文化祭で講演をしました。その時に、司会者から「現代の高校生や大学生に、良寛のことで何を伝えたいか」と問われて、次のように答えました。

 「自分で指示して、1週間なら1 週間 、粗食をし、テレビもケータイも無い生活をし、板の上に寝る。そういう生活を1週間に限ってやってもらう。そして、1日3食、それも間食はしない。腹が減ったら食うっていうのではなくて、3食きちんと食うという生活。そういう単純なことでいい。それで自然の中に入って、そういう生活をすればいい。とにかく、ゼロに身を置く訓練をしなさい」

 犬と良寛について、私は彼から多くのことを学びました。