◎北杜夫(その1)

 大学2年生の時に『どくとるマンボウ航海記』を読んで以来、私は熱狂的な北杜夫ファンになりました。彼は私よりも一回り年上の作家です。しかし、私には同じ年頃の人のように親しく感じられました。同年齢の作家に藤沢周平や吉村昭や城山三郎がいますが、彼らは北杜夫よりもずっと年上に感じられます。

 北杜夫は老成することなく永遠に少年のままでした。いつまでも親しく話しかけられる友人みたいな作家でした。威厳を示すことなく、いつもぼんやり夢見ているような感じを与える作家でした。彼の文章を読むと、私はいつもホッとした気分になれました。

 彼の生涯を辿ってみましょう。

 昭和2年(1927)5月1日、東京で、父・斎藤茂吉、母・輝子の次男として生まれた。本名は斎藤宗吉。父は有名なアララギ派の歌人で青山脳病院の院長であった。母は青山脳病院の創立者・斎藤紀一の次女。11歳年上の兄は斎藤茂太。姉と妹が一人ずつ。

 父・斎藤茂吉の日記。「五月一日。午前ヨリ輝子、陣痛ノ気味アリ。直グ自動車ニテ、赤十字ノ産院ニ行キ、十時頃、男子安産ス」

 昭和9年4月、青南尋常小学校に入学。音楽と体育が苦手だったが、算数と図画は得意であった。

 「なかんずく算術が得手であった。受持ちの先生は福岡先生と言ったが、ある時、私が与えられた問題をすぐ解くと、『斎藤君は算術の神さまだ』とほめた。休み時間になると、級友が『やーい、神さまやーい』とからかって追いかけてくるのを、私は2年上の姉の後ろに隠れて逃げたことがある」(『どくとるマンボウ回想記』)

 昭和15年4月、麻布中学校に入学。クラブ活動で理科学部博物班に入った。

 昭和19年3月、松本高校を受験したが失敗。

 昭和20年1月、松本高校理科乙類に合格。5月25日の東京大空襲で自宅が全焼した。6月、松本高校の寮に入った。8月、入学式。アルミ工場に動員され、終戦を迎えた。

 昭和23年4月、東北大学医学部に入学。父と二人で夏休みを箱根の山荘で過ごした。

 「私は東大医学部はとても無理だと思ったから、仙台の東北大学を受けた。そこの教授たちが良いことよりも、松本高校の同じクラスの友人二人が受けることになったからである。そして、まるで奇跡のように私は合格してしまった」

 昭和25年、同人誌「文芸首都」に北杜夫のペンネームで「百蛾譜」を投稿した。

 「『文芸首都』という同人雑誌が投稿を受け付けるというので、『百蛾譜』という10枚の小説を送り、採用された。これが北杜夫の名を使った初めての作品であった」

 昭和27年3月、東北大学医学部を卒業し、同大学付属病院でインターン実習。

 昭和28年2月25日、父・茂吉が心臓喘息のため死去。5月、慶應義塾大学医学部神経科教室の助手になった。6月、医師国家資格に合格。

 昭和29年10月、『幽霊』を自費出版。

 昭和31年、「文芸首都」7月号の「人工の星」が芥川賞候補作となった。翌年も「狂詩」が芥川賞候補作となった。

 昭和33年11月、水産庁漁業調査船「照洋丸」の船医となり、東京湾から出航した。

 「私はトーマス・マンを熱愛していたから、一度ドイツへ行ってみたかった。それで政府交換留学生試験を受けることにしたが、研究論文一つ無いので書類選考で落とされた。水産庁のマグロ調査船・照洋丸が船医をさがしているのを知り、思い切って乗船することにした。当時居候していた兄の家では、六百トンの船で北ヨーロッパまで行くのは危ないと反対されたが、母だけは『男なんてものは、若いうち、どんどん苦労しなきゃいけません』と賛成してくれた」

 昭和34年4月末、帰国。「新潮」2月号の「谿間にて」が芥川賞候補作となった。

 昭和35年3月、『どくとるマンボウ航海記』を中央公論社より刊行。ベストセラーになった。6月、『夜と霧の隅で』を新潮社より刊行。7月、「夜と霧の隅で」で芥川賞を受賞した。

 「5ヵ月の航海が終わった時、その話が東京新聞にかなり大きく出た。そのため、初め3社の出版社からその話を書かないかと依頼があった。(中略)当時の私はごく遅筆であった。しかし、体験だけを書けばいいし、航海中の詳しい日記もあるし、思ったより早く進んだ。三百枚余の書下ろしを2ヵ月足らずで渡すことができた」

 昭和36年1月、慶応大学の医局を辞め、兄・茂太の経営する斎藤神経病院を手伝った。4月、横山喜美子と結婚。翌年4月、長女・由香が誕生。

 昭和39年4月、代表作の『楡家の人びと』を新潮社より刊行。

 「『楡家の人びと』は、いつか書こうと思っていた長編であった。大学時代から、私はトーマス・マンの『ブッデンブローク家の人びと』を模して自分の家のことを書きたいと考えていた。マンの生家はリューベックで由緒ある商家だが、初めはたくましい生活力のあった血が、代々次第に紳士然としてくるとその力強さを失い、更に芸術性を帯びてくると弱々しくなって滅んでしまうという没落史である。話に聞く祖父などのことはいかにもそれに似たように見えたからである」

 昭和41年4月、最初の躁病になり、大言壮語したり、株を買ったりした。その後、しばしば躁病と鬱病を繰り返すようになった。特に昭和51年の躁病の時には、株取引に熱中して大損害を被った。

 「昭和51年(1976)の躁の時は、後で考えてもまさしく悪夢のようなものであった。株式投資の雑誌を買ってきて、思いつくまま四、五銘柄を買った。するとそれらは次第に値下がりしてゆくようである。証券会社の人に聞くと、今は優良株は駄目で仕手株ばかりが踊ると言う。それで教えられるままに、仕手株をまた三、四銘柄買った。それらは確かに値上がりしてゆくようであった。私はすっかり調子に乗ってしまった。動かす資金も多い方が多く稼げると思い込んで、ついに全財産をつぎ込んでしまった。ついに新潮社から前借りを始めた。時と共に額も増え、他の出版社からも前借りし、ついには佐藤愛子さんにまで金を借りることになった」

 平成3年6月、『青年茂吉』を岩波書店より刊行。ほぼ2年間隔で、『壮年茂吉』『茂吉彷徨』『茂吉晩年』を刊行した。平成11年1月、この「茂吉評伝4部作」により大仏次郎賞を受賞した。

 平成21年4月、白内障手術。6月、自宅で転び大腿骨を骨折した。9月、肺炎で東京医療センターに入院。

 平成23年(2011)、10月23日、昼食後、救急車で東京医療センターに入院。翌24日、腸閉塞で死去。享年84。

 

■杉本武之プロフィール

1939年 碧南市に生まれる。

京都大学文学部卒業。

翻訳業を経て、小学校教師になるために愛知教育大学に入学。

25年間、西尾市の小中学校に勤務。

定年退職後、名古屋大学教育学部の大学院で学ぶ。

〈趣味〉読書と競馬

 

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◎北杜夫(その1)

 

 大学2年生の時に『どくとるマンボウ航海記』を読んで以来、私は熱狂的な北杜夫ファンになりました。彼は私よりも一回り年上の作家です。しかし、私には同じ年頃の人のように親しく感じられました。同年齢の作家に藤沢周平や吉村昭や城山三郎がいますが、彼らは北杜夫よりもずっと年上に感じられます。

 北杜夫は老成することなく永遠に少年のままでした。いつまでも親しく話しかけられる友人みたいな作家でした。威厳を示すことなく、いつもぼんやり夢見ているような感じを与える作家でした。彼の文章を読むと、私はいつもホッとした気分になれました。

 彼の生涯を辿ってみましょう。

 昭和2年(1927)5月1日、東京で、父・斎藤茂吉、母・輝子の次男として生まれた。本名は斎藤宗吉。父は有名なアララギ派の歌人で青山脳病院の院長であった。母は青山脳病院の創立者・斎藤紀一の次女。11歳年上の兄は斎藤茂太。姉と妹が一人ずつ。

 父・斎藤茂吉の日記。「五月一日。午前ヨリ輝子、陣痛ノ気味アリ。直グ自動車ニテ、赤十字ノ産院ニ行キ、十時頃、男子安産ス」

 昭和9年4月、青南尋常小学校に入学。音楽と体育が苦手だったが、算数と図画は得意であった。

 「なかんずく算術が得手であった。受持ちの先生は福岡先生と言ったが、ある時、私が与えられた問題をすぐ解くと、『斎藤君は算術の神さまだ』とほめた。休み時間になると、級友が『やーい、神さまやーい』とからかって追いかけてくるのを、私は2年上の姉の後ろに隠れて逃げたことがある」(『どくとるマンボウ回想記』)

 昭和15年4月、麻布中学校に入学。クラブ活動で理科学部博物班に入った。

 昭和19年3月、松本高校を受験したが失敗。

 昭和20年1月、松本高校理科乙類に合格。5月25日の東京大空襲で自宅が全焼した。6月、松本高校の寮に入った。8月、入学式。アルミ工場に動員され、終戦を迎えた。

 昭和23年4月、東北大学医学部に入学。父と二人で夏休みを箱根の山荘で過ごした。

 「私は東大医学部はとても無理だと思ったから、仙台の東北大学を受けた。そこの教授たちが良いことよりも、松本高校の同じクラスの友人二人が受けることになったからである。そして、まるで奇跡のように私は合格してしまった」

 昭和25年、同人誌「文芸首都」に北杜夫のペンネームで「百蛾譜」を投稿した。

 「『文芸首都』という同人雑誌が投稿を受け付けるというので、『百蛾譜』という10枚の小説を送り、採用された。これが北杜夫の名を使った初めての作品であった」

 昭和27年3月、東北大学医学部を卒業し、同大学付属病院でインターン実習。

 昭和28年2月25日、父・茂吉が心臓喘息のため死去。5月、慶應義塾大学医学部神経科教室の助手になった。6月、医師国家資格に合格。

 昭和29年10月、『幽霊』を自費出版。

 昭和31年、「文芸首都」7月号の「人工の星」が芥川賞候補作となった。翌年も「狂詩」が芥川賞候補作となった。

 昭和33年11月、水産庁漁業調査船「照洋丸」の船医となり、東京湾から出航した。

 「私はトーマス・マンを熱愛していたから、一度ドイツへ行ってみたかった。それで政府交換留学生試験を受けることにしたが、研究論文一つ無いので書類選考で落とされた。水産庁のマグロ調査船・照洋丸が船医をさがしているのを知り、思い切って乗船することにした。当時居候していた兄の家では、六百トンの船で北ヨーロッパまで行くのは危ないと反対されたが、母だけは『男なんてものは、若いうち、どんどん苦労しなきゃいけません』と賛成してくれた」

 昭和34年4月末、帰国。「新潮」2月号の「谿間にて」が芥川賞候補作となった。

 昭和35年3月、『どくとるマンボウ航海記』を中央公論社より刊行。ベストセラーになった。6月、『夜と霧の隅で』を新潮社より刊行。7月、「夜と霧の隅で」で芥川賞を受賞した。

 「5ヵ月の航海が終わった時、その話が東京新聞にかなり大きく出た。そのため、初め3社の出版社からその話を書かないかと依頼があった。(中略)当時の私はごく遅筆であった。しかし、体験だけを書けばいいし、航海中の詳しい日記もあるし、思ったより早く進んだ。三百枚余の書下ろしを2ヵ月足らずで渡すことができた」

 昭和36年1月、慶応大学の医局を辞め、兄・茂太の経営する斎藤神経病院を手伝った。4月、横山喜美子と結婚。翌年4月、長女・由香が誕生。

 昭和39年4月、代表作の『楡家の人びと』を新潮社より刊行。

 「『楡家の人びと』は、いつか書こうと思っていた長編であった。大学時代から、私はトーマス・マンの『ブッデンブローク家の人びと』を模して自分の家のことを書きたいと考えていた。マンの生家はリューベックで由緒ある商家だが、初めはたくましい生活力のあった血が、代々次第に紳士然としてくるとその力強さを失い、更に芸術性を帯びてくると弱々しくなって滅んでしまうという没落史である。話に聞く祖父などのことはいかにもそれに似たように見えたからである」

 昭和41年4月、最初の躁病になり、大言壮語したり、株を買ったりした。その後、しばしば躁病と鬱病を繰り返すようになった。特に昭和51年の躁病の時には、株取引に熱中して大損害を被った。

 「昭和51年(1976)の躁の時は、後で考えてもまさしく悪夢のようなものであった。株式投資の雑誌を買ってきて、思いつくまま四、五銘柄を買った。するとそれらは次第に値下がりしてゆくようである。証券会社の人に聞くと、今は優良株は駄目で仕手株ばかりが踊ると言う。それで教えられるままに、仕手株をまた三、四銘柄買った。それらは確かに値上がりしてゆくようであった。私はすっかり調子に乗ってしまった。動かす資金も多い方が多く稼げると思い込んで、ついに全財産をつぎ込んでしまった。ついに新潮社から前借りを始めた。時と共に額も増え、他の出版社からも前借りし、ついには佐藤愛子さんにまで金を借りることになった」

 平成3年6月、『青年茂吉』を岩波書店より刊行。ほぼ2年間隔で、『壮年茂吉』『茂吉彷徨』『茂吉晩年』を刊行した。平成11年1月、この「茂吉評伝4部作」により大仏次郎賞を受賞した。

 平成21年4月、白内障手術。6月、自宅で転び大腿骨を骨折した。9月、肺炎で東京医療センターに入院。

 平成23年(2011)、10月23日、昼食後、救急車で東京医療センターに入院。翌24日、腸閉塞で死去。享年84。