私の本のタイトルは『尾州廻船水主(かこ・雑役係)、音吉の哲学的陶冶の物語-音吉表現のギュツラフ聖書を読む-』です。第1部「音吉聖書に至る前史」、第2部「音吉聖書の現代語訳」、第3部「音吉聖書の読解」として。

 タイトルの『音吉表現のギュツラフ訳聖書』はここでの「ギュツラフ聖書」と同じものです。この本では更に「音吉聖書」と呼称していきますので、ここでも音吉聖書と呼称することにします。

 この音吉聖書は、すでに翻訳し終えていた日本語聖書を見せながら、ギュツラフが話ことばによる日本語聖書、日常会話による日本語聖書を目指し、音吉に協力を求めてきてできあがったもののようです。地物の研究者佐藤宏一氏が「音吉聖書には小野浦方言が見られる」と言っていますので、この理解でよろしいでしょう。

 この音吉聖書は、聖書のヨハネ伝を翻訳したものです。このヨハネ伝には何が書かれているのでしょうか。

 神は人間が幸せ世界に生きられるように、モーゼを通して、それに至る道として、律法(モーゼの十戒)を示しましたが、今見ると、その律法は、人間を奴隷化する神の意志とは逆の掟になっているのでした。改めさせる必要があります。そこで神は息子のイエスを降臨させ、神の願いは隣人愛にあって、ともに幸せになる極楽世界を創造することにあるとして、イエスにその模範の実践をさせるのでした。それゆえ、イエスが起こす不思議(奇蹟)はすべて人々が幸せになるためのものばかり。

 こうした実践は庶民の心をとらえ、イエスの思想(隣人愛思想)は受け入れられていきます。しかし支配者たちにとっては黙視できないものとなります。イエスの思想は支配から共存へ(隣人愛は共存の思想)ですので。彼らの支配の思想とは相容れません。彼らのイエス攻撃は執拗を極めます。イエスを罪人として裁こう、これを目標とするに至ります。しかしそれは不可能です。隣人愛が罪になるわけがありませんので。形場は、彼らの無法がイエスを磔にしたことを示し、隣人愛思想の不滅を示す場となります。かくして隣人愛の実践は人類の課題として示されるのでした。

 以上がヨハネ伝の中味です。

 しかしヨハネ伝は宗教書として書かれていますので、隣人愛は神の教えと言います。しかしこの隣人愛思想は、哲学的思考の結果として生まれて来たものなのです。

 ヨハネ伝は、人間は「再生」し、イエスを信じ、神から学ぶのでなければ隣人愛の思想は身につかないと言い、その理由は、隣人愛思想は人間世界からは出てこないものだからと言いますが、この隣人愛の思想は哲学的思考の結果として生まれて来たものなのです。

 人間は個として生まれ個として生きますので、自己愛なしでは生きていくことはできません。死んでしまいますので。自己愛は前提です。しかし人間は同時に集団としても生きていますので、自己愛だけでは生きていけないことも明らかとなります。ましてや高じてジコチュウになればとてもとてもです。どうしても共存の心が必要となります。こうして生まれたのが、共存の心としての隣人愛なのです。それゆえ、ヨハネ伝はこの心は神の教えと言いますが、哲学的思考を踏まえてこう言っていることは明らかです。

 この理解はとても大切と思います。この理解は、共存の心こそ哲学の共通の土台と言っていることになりますので。音吉は、聖書の中に、良参寺の寺子屋で学んだ菩薩道と同じものを見て、自分の挫折を克服していきますが、この理解があってのことです。

 

Copyright©2003-2017 Akai Newspaper dealer

プライバシーポリシー

あかい新聞店・常滑店

新聞■折込広告取扱■求人情報■ちたろまん■中部国際空港配送業務

電話:0569-35-2861

 

あかい新聞店・武豊店

電話:0569-72-0356

あかい新聞店・常滑店

新聞■折込広告取扱■求人情報■ちたろまん■中部国際空港配送業務

電話:0569-35-2861

あかい新聞店・武豊店

電話:0569-72-0356

 

Copyright©2003-2017 Akai Newspaper dealer

プライバシーポリシー

 私の本のタイトルは『尾州廻船水主(かこ・雑役係)、音吉の哲学的陶冶の物語-音吉表現のギュツラフ聖書を読む-』です。第1部「音吉聖書に至る前史」、第2部「音吉聖書の現代語訳」、第3部「音吉聖書の読解」として。

 タイトルの『音吉表現のギュツラフ訳聖書』はここでの「ギュツラフ聖書」と同じものです。この本では更に「音吉聖書」と呼称していきますので、ここでも音吉聖書と呼称することにします。

 この音吉聖書は、すでに翻訳し終えていた日本語聖書を見せながら、ギュツラフが話ことばによる日本語聖書、日常会話による日本語聖書を目指し、音吉に協力を求めてきてできあがったもののようです。地物の研究者佐藤宏一氏が「音吉聖書には小野浦方言が見られる」と言っていますので、この理解でよろしいでしょう。

 この音吉聖書は、聖書のヨハネ伝を翻訳したものです。このヨハネ伝には何が書かれているのでしょうか。

 神は人間が幸せ世界に生きられるように、モーゼを通して、それに至る道として、律法(モーゼの十戒)を示しましたが、今見ると、その律法は、人間を奴隷化する神の意志とは逆の掟になっているのでした。改めさせる必要があります。そこで神は息子のイエスを降臨させ、神の願いは隣人愛にあって、ともに幸せになる極楽世界を創造することにあるとして、イエスにその模範の実践をさせるのでした。それゆえ、イエスが起こす不思議(奇蹟)はすべて人々が幸せになるためのものばかり。

 こうした実践は庶民の心をとらえ、イエスの思想(隣人愛思想)は受け入れられていきます。しかし支配者たちにとっては黙視できないものとなります。イエスの思想は支配から共存へ(隣人愛は共存の思想)ですので。彼らの支配の思想とは相容れません。彼らのイエス攻撃は執拗を極めます。イエスを罪人として裁こう、これを目標とするに至ります。しかしそれは不可能です。隣人愛が罪になるわけがありませんので。形場は、彼らの無法がイエスを磔にしたことを示し、隣人愛思想の不滅を示す場となります。かくして隣人愛の実践は人類の課題として示されるのでした。

 以上がヨハネ伝の中味です。

 しかしヨハネ伝は宗教書として書かれていますので、隣人愛は神の教えと言います。しかしこの隣人愛思想は、哲学的思考の結果として生まれて来たものなのです。

 ヨハネ伝は、人間は「再生」し、イエスを信じ、神から学ぶのでなければ隣人愛の思想は身につかないと言い、その理由は、隣人愛思想は人間世界からは出てこないものだからと言いますが、この隣人愛の思想は哲学的思考の結果として生まれて来たものなのです。

 人間は個として生まれ個として生きますので、自己愛なしでは生きていくことはできません。死んでしまいますので。自己愛は前提です。しかし人間は同時に集団としても生きていますので、自己愛だけでは生きていけないことも明らかとなります。ましてや高じてジコチュウになればとてもとてもです。どうしても共存の心が必要となります。こうして生まれたのが、共存の心としての隣人愛なのです。それゆえ、ヨハネ伝はこの心は神の教えと言いますが、哲学的思考を踏まえてこう言っていることは明らかです。

 この理解はとても大切と思います。この理解は、共存の心こそ哲学の共通の土台と言っていることになりますので。音吉は、聖書の中に、良参寺の寺子屋で学んだ菩薩道と同じものを見て、自分の挫折を克服していきますが、この理解があってのことです。