姪の就職2

 るり子が書斎に入るなり、声を荒げながら

「コロナの感染拡大が恐ろしいですね」

と報告した。

「そのようだね」

「デパ地下でもクラスターが発生しているといいますから、この感染爆発はどこまで続くのでしょうか」

「政府はワクチン接種が広まったらと説いている。それまでは外出を自粛しなさいと忠告しているが…」

「自粛だけでは進歩がないですね」

「これまで国民にはいろいろ指示してきたが、政府も専門家からも医療従事者に対する要望はほとんどしてこなかった。コロナ禍が災害だという段階になって、分科会からあらゆる医療従事者に対して強制的にコロナ患者に対応するように政府に申し入れた」

「いまでは自宅療養者が大変増え、急変に対応できず、亡くなる人もおられますね」

「そうなんだ。そこまできても政府は動こうとしないのだ」

「コロナに加えて、大雨の被害が大変ですね」

「この天候は異常だね。どうも日本の気温は欧米に比較して高いように思うね。ラジオで毎晩、世界中の気温を報告しているが、とくにヨーロッパと比較、高い印象だが…」

「でも、ドイツでの洪水、トルコなどの山火事を見ていますと、異常気候は世界で起こっていますね」

「そうだな。ところで友人からきたメール、見るかい」

「ぜひ、お願いします」

―ワクチン狂想曲(薬を10錠飲むよりも、心から笑った方がずっと効果がある・アンネ・フランク)

 ワクチンという言葉を耳にしない日はいつくるのだろうか。毎日のようにワクチン接種率の数字を見ながら、一向に感染者が減らないことに疑問視する向きもあるようだ。オリンピック関係者はワクチン接種を済ませてから来日するという報告だったが、感染する数字が毎日のように発表された。

 高齢者の多くはコロナのワクチン接種が今かいまかと首を長くして待ち望んでいた。というのも、高齢者はコロナに感染すると重症化、あるいは死に至ると専門家からたえず喧伝されたので耳底にこびりついたからだ。

 政府はワクチンを公平に配送することに注力し、接種は各自治体に任された。ワクチン接種はやれ配送がうまくいかない、量が不足、大規模接種会場は開いたかと思うと、閉じる。途中から感染者の多くが五十歳以下の若年層だという。それでも若者は緊急事態宣言下での路上飲みを止めない。飲食店も補償金だけでは店を維持できないと、酒の提供を続けるところも多く、日本列島はワクチンに振り回され続けてきた。

「これほど短期間で承認したワクチンには無理がある」と接種拒否の人がいる。さらにこれは二回で打ち止めでなく、これから先、複数回打ち続けるのではと、心配は尽きないのである。ワクチンより治療薬ができないことにはどうにもならない気がするが。

「まったく同感だね」

「日本政府の対応に覚悟がないように見えますね」

「そろそろ小説の続きを読むよ」

「わかりました」

―片桐齊造は大正八年、父・藤太郎と母・しずの間に生まれた。男四人、女二人の兄弟姉妹で、齊造は次男。長男は忠信で齊造の上に二人の姉がいた。長女の田鶴子は一歳の時、病魔に襲われ逝っていた。三男操(みさお)四男・信哉(のぶや)が続いていた。

 母のしずは浪華相銀の藤田万吉の姉である。万吉は片桐齊造にとっては叔父である。父の藤太郎は明治二十二年生まれである。そのころの日本は、近代国家の仲間入りをしようと、国威発揚を図っていた。藤太郎が生まれた翌年には、第一回総選挙が行われたが、有権者は地主か高給取りの上級役人など全国民の一・一%とひどいものだった。政府は富国強兵策を強力に推し進め、重工業が目覚ましく発達する時代であった。

 父の藤太郎は千早尋常小学校から地元の富田林中学校に進んだ。同中学校の第三回卒業生である。学校を出ると、家業の「片桐林産」を引き継ぎ、やがて農協の組合長や千早村の村議会議長など村の要職に就いた。

「早うに起きて山に行って、草刈りしてこい」

 日曜日の朝、遅くまで寝ていると父の藤太郎は怒った。

 金剛山のロープウエイ駅周辺をはじめ、山頂から葛城山にかけて膨大な山林約百町歩を所有していた。杉やヒノキの幼齢林の周囲に生えている雑草の下刈りが齊造ら兄弟の仕事である。林業での機械化は伐木や造林で九〇%、集荷で七〇%に達しているが、ほかの作業ではほとんど進んでいない。手間がかかるのである。山で仕事をする山林労働者を地元では“山ゆきさん”と呼んでいるが、いまでは二十人足らずにまで減っていた。

 村は都市化の波にのまれ、若い労働者は大阪など都市に出てしまう。山ゆきさんの高齢化が進み、後継者難に悩んでいる。

 杉やヒノキは人間と同じだ。植林して約十年間は雑草の下刈りに大変な労力を要する。人間も十歳ぐらいまで親の目が離せない。植林後二十年ぐらいまでになると、切り出しに便利な山林であれば用材として利用できる。大きく育てるには間引きもしなければならない。四十年経てば柱に使用できる。さらに六十年にもなると、その木は製材して板にすることが可能となる。八十年も経つと、もう皆伐して幼齢材にする方が採算的に良いといわれる。人間の方は高齢化社会になったとはいえ、八十歳にもなると皆伐のようになる。

 杉やヒノキ一本が一人前の商品になるまで八十年かかるわけで、親、子、孫と三代にまたがっての商売である。これほど息の長い商売はほかにあまりあるまい。片桐が子供のころ、電柱や酒樽用に主眼を置いたが、戦後は建材、とくに柱角適材の小丸太が中心になったので、五十年~八十年で主伐する経営者が多いようだ。

 千早赤阪村は昔から林業が盛んである。隣の奈良県吉野材に次いで声価が高い。森林面積は村の八〇%を占め、うち人工造林が八〇%を占め、人工林の比率がきわめて高いのが特色である。材木は奈良の桜井、高田の素材市場に運ばれる。造林では杉、ヒノキが混植されているが、最近の比率は杉2に対してヒノキ8の割合である。

 林業では木を切って売らない限り税金(取引時)がかからないので、収益率がよく財産形成の投資として人工林を求める潜在需要が結構あるという。猫も杓子も財テクブームだが、“あなたのお孫さんに緑の財産を残そう”というキャッチフレーズで造林を奨励する方がよい。林野庁が国有林の森づくりに「分収育林制度」を設け、すすめている。

 木材の用途は時代と共に変わっており多様化している。南北朝時代は千早城、赤阪城の築城に使われたし、大阪築城の折はその一部用材に千早村から運ばれたという。戦前は酒、醤油の樽など包装資材としても利用される。また、第二次大戦では木造船に多く使われたし、敗戦で焼け野原となった大阪や東京では、建材として飛ぶように売れた。

 昭和三十年ごろまで千早赤阪村は凍豆腐の産地としても知られ、その製造燃料に雑木から薪をつくり、クヌギは薪や木炭にして家庭用燃料として売った。

 凍豆腐は天延製法で冬場のみつくっていたため、年中つくる人工豆腐に押され衰退。家庭でも燃料は薪や木炭を使わなくなった。このため、炭焼きも消えていった。殿中、橋梁、稲架、ブドウ支柱などの農業資材、机、足場丸太などに使用されているが、これらもプラスチック、コンクリートなど新しい材料に押され、木材の年産量は昭和四十年以降、激減している。

 るり子が廊下を急いで書斎にやってきた。

「菅総理が退任するそうですよ」

「そうか。総裁選には出ないのか」

「そのようですね」

「彼は女房役としては適任だったが、国のリーダーとしては無理だったのだろう」

「二代続いて総理の座を投げ出しましたね」

「そうだな。誰がやっても難しいとは思うが、これからもっと課題がが多く、困難極まりないだろう」

「それにしても河村市長の金メダルをかじることや、常滑のイベント会場で酒類を提供して感染者を出したことなど、どうかしていますね」

「なかなか先が見通せないな」

 るり子は書斎を出た。

 

■岡田 清治プロフィール

1942年生まれ ジャーナリスト

(編集プロダクション・NET108代表)

著書に『高野山開創千二百年 いっぱんさん行状記』『心の遺言』『あなたは社員の全能力を引き出せますか!』『リヨンで見た虹』など多数

※この物語に対する読者の方々のコメント、体験談を左記のFAXかメールでお寄せください。

今回は「就職」「日本のゆくえ」「結婚」「夫婦」「インド」「愛知県」についてです。物語が進行する中で織り込むことを試み、一緒に考えます。

FAX‥0569―34―7971

メール‥takamitsu@akai-shinbunten.net

 

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姪の就職2

 るり子が書斎に入るなり、声を荒げながら

「コロナの感染拡大が恐ろしいですね」

と報告した。

「そのようだね」

「デパ地下でもクラスターが発生しているといいますから、この感染爆発はどこまで続くのでしょうか」

「政府はワクチン接種が広まったらと説いている。それまでは外出を自粛しなさいと忠告しているが…」

「自粛だけでは進歩がないですね」

「これまで国民にはいろいろ指示してきたが、政府も専門家からも医療従事者に対する要望はほとんどしてこなかった。コロナ禍が災害だという段階になって、分科会からあらゆる医療従事者に対して強制的にコロナ患者に対応するように政府に申し入れた」

「いまでは自宅療養者が大変増え、急変に対応できず、亡くなる人もおられますね」

「そうなんだ。そこまできても政府は動こうとしないのだ」

「コロナに加えて、大雨の被害が大変ですね」

「この天候は異常だね。どうも日本の気温は欧米に比較して高いように思うね。ラジオで毎晩、世界中の気温を報告しているが、とくにヨーロッパと比較、高い印象だが…」

「でも、ドイツでの洪水、トルコなどの山火事を見ていますと、異常気候は世界で起こっていますね」

「そうだな。ところで友人からきたメール、見るかい」

「ぜひ、お願いします」

―ワクチン狂想曲(薬を10錠飲むよりも、心から笑った方がずっと効果がある・アンネ・フランク)

 ワクチンという言葉を耳にしない日はいつくるのだろうか。毎日のようにワクチン接種率の数字を見ながら、一向に感染者が減らないことに疑問視する向きもあるようだ。オリンピック関係者はワクチン接種を済ませてから来日するという報告だったが、感染する数字が毎日のように発表された。

 高齢者の多くはコロナのワクチン接種が今かいまかと首を長くして待ち望んでいた。というのも、高齢者はコロナに感染すると重症化、あるいは死に至ると専門家からたえず喧伝されたので耳底にこびりついたからだ。

 政府はワクチンを公平に配送することに注力し、接種は各自治体に任された。ワクチン接種はやれ配送がうまくいかない、量が不足、大規模接種会場は開いたかと思うと、閉じる。途中から感染者の多くが五十歳以下の若年層だという。それでも若者は緊急事態宣言下での路上飲みを止めない。飲食店も補償金だけでは店を維持できないと、酒の提供を続けるところも多く、日本列島はワクチンに振り回され続けてきた。

「これほど短期間で承認したワクチンには無理がある」と接種拒否の人がいる。さらにこれは二回で打ち止めでなく、これから先、複数回打ち続けるのではと、心配は尽きないのである。ワクチンより治療薬ができないことにはどうにもならない気がするが。

「まったく同感だね」

「日本政府の対応に覚悟がないように見えますね」

「そろそろ小説の続きを読むよ」

「わかりました」

―片桐齊造は大正八年、父・藤太郎と母・しずの間に生まれた。男四人、女二人の兄弟姉妹で、齊造は次男。長男は忠信で齊造の上に二人の姉がいた。長女の田鶴子は一歳の時、病魔に襲われ逝っていた。三男操(みさお)四男・信哉(のぶや)が続いていた。

 母のしずは浪華相銀の藤田万吉の姉である。万吉は片桐齊造にとっては叔父である。父の藤太郎は明治二十二年生まれである。そのころの日本は、近代国家の仲間入りをしようと、国威発揚を図っていた。藤太郎が生まれた翌年には、第一回総選挙が行われたが、有権者は地主か高給取りの上級役人など全国民の一・一%とひどいものだった。政府は富国強兵策を強力に推し進め、重工業が目覚ましく発達する時代であった。

 父の藤太郎は千早尋常小学校から地元の富田林中学校に進んだ。同中学校の第三回卒業生である。学校を出ると、家業の「片桐林産」を引き継ぎ、やがて農協の組合長や千早村の村議会議長など村の要職に就いた。

「早うに起きて山に行って、草刈りしてこい」

 日曜日の朝、遅くまで寝ていると父の藤太郎は怒った。

 金剛山のロープウエイ駅周辺をはじめ、山頂から葛城山にかけて膨大な山林約百町歩を所有していた。杉やヒノキの幼齢林の周囲に生えている雑草の下刈りが齊造ら兄弟の仕事である。林業での機械化は伐木や造林で九〇%、集荷で七〇%に達しているが、ほかの作業ではほとんど進んでいない。手間がかかるのである。山で仕事をする山林労働者を地元では“山ゆきさん”と呼んでいるが、いまでは二十人足らずにまで減っていた。

 村は都市化の波にのまれ、若い労働者は大阪など都市に出てしまう。山ゆきさんの高齢化が進み、後継者難に悩んでいる。

 杉やヒノキは人間と同じだ。植林して約十年間は雑草の下刈りに大変な労力を要する。人間も十歳ぐらいまで親の目が離せない。植林後二十年ぐらいまでになると、切り出しに便利な山林であれば用材として利用できる。大きく育てるには間引きもしなければならない。四十年経てば柱に使用できる。さらに六十年にもなると、その木は製材して板にすることが可能となる。八十年も経つと、もう皆伐して幼齢材にする方が採算的に良いといわれる。人間の方は高齢化社会になったとはいえ、八十歳にもなると皆伐のようになる。

 杉やヒノキ一本が一人前の商品になるまで八十年かかるわけで、親、子、孫と三代にまたがっての商売である。これほど息の長い商売はほかにあまりあるまい。片桐が子供のころ、電柱や酒樽用に主眼を置いたが、戦後は建材、とくに柱角適材の小丸太が中心になったので、五十年~八十年で主伐する経営者が多いようだ。

 千早赤阪村は昔から林業が盛んである。隣の奈良県吉野材に次いで声価が高い。森林面積は村の八〇%を占め、うち人工造林が八〇%を占め、人工林の比率がきわめて高いのが特色である。材木は奈良の桜井、高田の素材市場に運ばれる。造林では杉、ヒノキが混植されているが、最近の比率は杉2に対してヒノキ8の割合である。

 林業では木を切って売らない限り税金(取引時)がかからないので、収益率がよく財産形成の投資として人工林を求める潜在需要が結構あるという。猫も杓子も財テクブームだが、“あなたのお孫さんに緑の財産を残そう”というキャッチフレーズで造林を奨励する方がよい。林野庁が国有林の森づくりに「分収育林制度」を設け、すすめている。

 木材の用途は時代と共に変わっており多様化している。南北朝時代は千早城、赤阪城の築城に使われたし、大阪築城の折はその一部用材に千早村から運ばれたという。戦前は酒、醤油の樽など包装資材としても利用される。また、第二次大戦では木造船に多く使われたし、敗戦で焼け野原となった大阪や東京では、建材として飛ぶように売れた。

 昭和三十年ごろまで千早赤阪村は凍豆腐の産地としても知られ、その製造燃料に雑木から薪をつくり、クヌギは薪や木炭にして家庭用燃料として売った。

 凍豆腐は天延製法で冬場のみつくっていたため、年中つくる人工豆腐に押され衰退。家庭でも燃料は薪や木炭を使わなくなった。このため、炭焼きも消えていった。殿中、橋梁、稲架、ブドウ支柱などの農業資材、机、足場丸太などに使用されているが、これらもプラスチック、コンクリートなど新しい材料に押され、木材の年産量は昭和四十年以降、激減している。

 るり子が廊下を急いで書斎にやってきた。

「菅総理が退任するそうですよ」

「そうか。総裁選には出ないのか」

「そのようですね」

「彼は女房役としては適任だったが、国のリーダーとしては無理だったのだろう」

「二代続いて総理の座を投げ出しましたね」

「そうだな。誰がやっても難しいとは思うが、これからもっと課題がが多く、困難極まりないだろう」

「それにしても河村市長の金メダルをかじることや、常滑のイベント会場で酒類を提供して感染者を出したことなど、どうかしていますね」

「なかなか先が見通せないな」

 るり子は書斎を出た。