◎藤沢周平(その2)

〈2年間の教師時代〉

 藤沢周平は、作家になる前に、いくつかの職業に就いていました。

 昭和17年(1942)4月、小学校高等科卒業後、彼は山形県立鶴岡中学校夜間部に入学しました。昼は鶴岡印刷株式会社で働いていました。その後、黄金村村役場の税務課書記補になりました。

 昭和21年、鶴岡中学校夜間部卒業後、山形師範学校に入学。昭和24年3月、師範学校卒業。4月、山形県湯田川村立湯田川中学校へ就任。2年B組(生徒数25人)の担任になりました。

 「学校は小さく、グランドも狭く、その学校に小学校と中学校が同居していた。就任するとすぐに私は2組ある2年生のひと組を担任することになった。私はその生徒たちを前にして、いい先生になりたいと痛切に思った。

 しかし、教育の現実はなかなか甘いものではなく、私は想像していたような学校や生徒とは異なる学校、生徒に直面して、しばらく呆然とするばかりだった。就職して一番おどろいたのは、学校が予想以上に忙しい職場だったことである。その忙しい理由の8割は、ひんぱんに開かれる職員会議にあった。

 多忙の原因にはもう一つあった。小学校、中学校合同で保健教育の研究指定校を引き受けたことである。刺激的でおもしろかったが、準備から発表までの期間は忙しく、帰宅のために学校を出るのが午後9時過ぎになることも珍しくなかった」

 就職して3ヵ月ほど経った頃、彼は教師を辞めようかと思うほど悩みました。

 「学校が予想外に忙しくて、落ち着いて自分の教育を考える時間がない上に、生徒が思うようには動かなかったのである」

 しかし、夏休み前の海浜学校の頃から元気を取り戻し始め、9月の教員異動にともなう担任の編成変えがあった後には、すっかり元気になりました。新しく担任することになったのは1年生で、男女合わせて55人のクラスでした。副担任が付きました。

 「さきに担任した1級上の生徒たちが、思春期に片足を突っ込んだ感じで大人っぽかったのに比べると、55人の1年生には、幼なさとそれに相当した明るさがあった。とにかく賑やかだった。教室で私語はする、喧嘩はするで、その頃の私は一日中どなっていた。しかし、そうしてどなったり、頭をゴツンとやったりしているうちに、私はその生徒たちがかわいくて仕方がなくなった。多分ここが教育というものの原点だったのだろう。私はもう教師を辞めたいなどとは微塵も思わず、勢いよく一人前の教師になる道を歩き始めたのであった。(中略)万事好調にすべり出したかに見えた2年目の終わりの春に、私は思いがけなく肺結核が発見され、3年目になるはずの新学期から休職して治療にはげむことになった。私の長い不運な歳月のそれが始まりだった」

 このようにして、藤沢周平のたった2年間の教師生活は終わってしまいました。長い教師生活を体験した私から見て、彼は理想的な教師だったと思います。

〈熱狂的な映画愛好者〉

 藤沢周平は生涯に亙って映画が好きでした。特に山形師範学校時代の彼は、熱狂的な映画ファンでした。

 「私が戦後に在籍した山形師範の正門前の道を、県庁までは行かずに途中で左折すると、やがて映画館が数軒かたまっている場所に出る。そこが山形市の映画街だった。

 その頃、というのは昭和21年から24年にかけてのことだが、私はその映画街に入り浸りになっていた」 学生の彼は毎日のように映画を見ていました。

 「日本映画も、例えば『大曽根家の朝』『わが青春に悔なし』『わが恋せし乙女』『安城家の舞踏会』『素晴らしき日曜日』『四つの恋の物語』、そして『銀嶺の果て』に始まる三船敏郎主演の映画などを見たはずで、断片的にその記憶もちらちらと甦るけれども、全体に印象が薄いのは、外国映画の印象が強すぎたせいかも知れない。

 外国映画は『ガス燈』『運命の饗宴』『カサブランカ』『心の旅路』『荒野の決闘』などを見た。やがてカラー映画が入ってきた。ソ連映画の『石の花』と『シベリヤ物語』、イギリス映画『ヘンリー五世』。こういう映画と一緒に私は『わが道を往く』『美女と野獣』『旅路の果て』『失われた週末』などを次々と見、そしてどうした訳かデヴィッド・リーン監督の『逢びき』を見逃してしまったのだった。シリア・ジョンスンとトレバー・ハワードが主演する、今も私の心に不滅の感動を残すこの名画を見るのはずっと後のことである」

 彼は『逢びき』が特に好きでした。彼の感性にぴったり合った映画でした。

―ロンドン郊外のミルフォード駅で、平凡な中年の人妻ローラが、通過した汽車の煤が目に入って苦しんでいた。たまたま駅の食堂にいた見知らぬ医者のアレックが煤を取ってくれた。その後も二人は偶然に出会うことが重なり、次第に引かれ合った。強く引かれ合う二人だったが、結ばれることはなかった。アレックはアフリカの病院で働くことを決意する。最後の別れの時が来た。駅の食堂で話し合っているところに、ローラの知り合いの女性がやって来た。その女はよく喋った。言葉少なくアレックは食堂を出て行った。ローラは通過する汽車に飛び込もうとしたが、思い止どまり、家に帰った。事情を察したのか、夫は優しく声を掛けてくれた。ローラの心は平静になって行った。

 この映画について、藤沢周平は「わが青春の映画館」の中で次のように書いています。

 「何度見ても新たな感興を呼び覚まされる作品というものはあるもので、私の場合、それは『逢びき』であるらしい。監督はデヴィッド・リーンだったろうかと、監督の名前もあやふやなのに、主演の二人、トレバー・ハワードとシリア・ジョンスンだけはすぐに目に浮かんでくる。最後の別れの場面で、ローラ(シリア・ジョンスン)は、知り合いのお喋り女につかまり、去って行くトレバー・ハワードと別れの言葉を交わすことも出来ない。食堂を出て行くハワードの後ろ姿にかぶせて、ローラのナレーションが『肩に手を置いて彼は去って行った―私の人生から永遠に』と言うところまで覚えているのは、まるで文学青年だが、ここは一人の女性が、まさに人生の底を覗いてしまう哀切きわまりない場面なのだ」

 既婚の中年男女の密かな愛の歓びと苦悩を描いたこの映画は、藤沢周平の時代小説と同じ雰囲気を持っています。平凡な人間の哀歓がしみじみと伝わって来ます。

 デヴィッド・リーンは『戦場にかける橋』や『アラビアのロレンス』や『ドクトル・ジバゴ』などの大作も作った偉大な英国の監督でした。彼の作品の中では、私は『逢びき』という小品が一番好きです。

 

■杉本武之プロフィール

1939年 碧南市に生まれる。

京都大学文学部卒業。

翻訳業を経て、小学校教師になるために愛知教育大学に入学。

25年間、西尾市の小中学校に勤務。

定年退職後、名古屋大学教育学部の大学院で学ぶ。

〈趣味〉読書と競馬

 

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◎藤沢周平(その2)

 

〈2年間の教師時代〉

 藤沢周平は、作家になる前に、いくつかの職業に就いていました。

 昭和17年(1942)4月、小学校高等科卒業後、彼は山形県立鶴岡中学校夜間部に入学しました。昼は鶴岡印刷株式会社で働いていました。その後、黄金村村役場の税務課書記補になりました。

 昭和21年、鶴岡中学校夜間部卒業後、山形師範学校に入学。昭和24年3月、師範学校卒業。4月、山形県湯田川村立湯田川中学校へ就任。2年B組(生徒数25人)の担任になりました。

 「学校は小さく、グランドも狭く、その学校に小学校と中学校が同居していた。就任するとすぐに私は2組ある2年生のひと組を担任することになった。私はその生徒たちを前にして、いい先生になりたいと痛切に思った。

 しかし、教育の現実はなかなか甘いものではなく、私は想像していたような学校や生徒とは異なる学校、生徒に直面して、しばらく呆然とするばかりだった。就職して一番おどろいたのは、学校が予想以上に忙しい職場だったことである。その忙しい理由の8割は、ひんぱんに開かれる職員会議にあった。

 多忙の原因にはもう一つあった。小学校、中学校合同で保健教育の研究指定校を引き受けたことである。刺激的でおもしろかったが、準備から発表までの期間は忙しく、帰宅のために学校を出るのが午後9時過ぎになることも珍しくなかった」

 就職して3ヵ月ほど経った頃、彼は教師を辞めようかと思うほど悩みました。

 「学校が予想外に忙しくて、落ち着いて自分の教育を考える時間がない上に、生徒が思うようには動かなかったのである」

 しかし、夏休み前の海浜学校の頃から元気を取り戻し始め、9月の教員異動にともなう担任の編成変えがあった後には、すっかり元気になりました。新しく担任することになったのは1年生で、男女合わせて55人のクラスでした。副担任が付きました。

 「さきに担任した1級上の生徒たちが、思春期に片足を突っ込んだ感じで大人っぽかったのに比べると、55人の1年生には、幼なさとそれに相当した明るさがあった。とにかく賑やかだった。教室で私語はする、喧嘩はするで、その頃の私は一日中どなっていた。しかし、そうしてどなったり、頭をゴツンとやったりしているうちに、私はその生徒たちがかわいくて仕方がなくなった。多分ここが教育というものの原点だったのだろう。私はもう教師を辞めたいなどとは微塵も思わず、勢いよく一人前の教師になる道を歩き始めたのであった。(中略)万事好調にすべり出したかに見えた2年目の終わりの春に、私は思いがけなく肺結核が発見され、3年目になるはずの新学期から休職して治療にはげむことになった。私の長い不運な歳月のそれが始まりだった」

 このようにして、藤沢周平のたった2年間の教師生活は終わってしまいました。長い教師生活を体験した私から見て、彼は理想的な教師だったと思います。

〈熱狂的な映画愛好者〉

 藤沢周平は生涯に亙って映画が好きでした。特に山形師範学校時代の彼は、熱狂的な映画ファンでした。

 「私が戦後に在籍した山形師範の正門前の道を、県庁までは行かずに途中で左折すると、やがて映画館が数軒かたまっている場所に出る。そこが山形市の映画街だった。

 その頃、というのは昭和21年から24年にかけてのことだが、私はその映画街に入り浸りになっていた」 学生の彼は毎日のように映画を見ていました。

 「日本映画も、例えば『大曽根家の朝』『わが青春に悔なし』『わが恋せし乙女』『安城家の舞踏会』『素晴らしき日曜日』『四つの恋の物語』、そして『銀嶺の果て』に始まる三船敏郎主演の映画などを見たはずで、断片的にその記憶もちらちらと甦るけれども、全体に印象が薄いのは、外国映画の印象が強すぎたせいかも知れない。

 外国映画は『ガス燈』『運命の饗宴』『カサブランカ』『心の旅路』『荒野の決闘』などを見た。やがてカラー映画が入ってきた。ソ連映画の『石の花』と『シベリヤ物語』、イギリス映画『ヘンリー五世』。こういう映画と一緒に私は『わが道を往く』『美女と野獣』『旅路の果て』『失われた週末』などを次々と見、そしてどうした訳かデヴィッド・リーン監督の『逢びき』を見逃してしまったのだった。シリア・ジョンスンとトレバー・ハワードが主演する、今も私の心に不滅の感動を残すこの名画を見るのはずっと後のことである」

 彼は『逢びき』が特に好きでした。彼の感性にぴったり合った映画でした。

―ロンドン郊外のミルフォード駅で、平凡な中年の人妻ローラが、通過した汽車の煤が目に入って苦しんでいた。たまたま駅の食堂にいた見知らぬ医者のアレックが煤を取ってくれた。その後も二人は偶然に出会うことが重なり、次第に引かれ合った。強く引かれ合う二人だったが、結ばれることはなかった。アレックはアフリカの病院で働くことを決意する。最後の別れの時が来た。駅の食堂で話し合っているところに、ローラの知り合いの女性がやって来た。その女はよく喋った。言葉少なくアレックは食堂を出て行った。ローラは通過する汽車に飛び込もうとしたが、思い止どまり、家に帰った。事情を察したのか、夫は優しく声を掛けてくれた。ローラの心は平静になって行った。

 この映画について、藤沢周平は「わが青春の映画館」の中で次のように書いています。

 「何度見ても新たな感興を呼び覚まされる作品というものはあるもので、私の場合、それは『逢びき』であるらしい。監督はデヴィッド・リーンだったろうかと、監督の名前もあやふやなのに、主演の二人、トレバー・ハワードとシリア・ジョンスンだけはすぐに目に浮かんでくる。最後の別れの場面で、ローラ(シリア・ジョンスン)は、知り合いのお喋り女につかまり、去って行くトレバー・ハワードと別れの言葉を交わすことも出来ない。食堂を出て行くハワードの後ろ姿にかぶせて、ローラのナレーションが『肩に手を置いて彼は去って行った―私の人生から永遠に』と言うところまで覚えているのは、まるで文学青年だが、ここは一人の女性が、まさに人生の底を覗いてしまう哀切きわまりない場面なのだ」

 既婚の中年男女の密かな愛の歓びと苦悩を描いたこの映画は、藤沢周平の時代小説と同じ雰囲気を持っています。平凡な人間の哀歓がしみじみと伝わって来ます。

 デヴィッド・リーンは『戦場にかける橋』や『アラビアのロレンス』や『ドクトル・ジバゴ』などの大作も作った偉大な英国の監督でした。彼の作品の中では、私は『逢びき』という小品が一番好きです。