■杉本武之プロフィール

1939年 碧南市に生まれる。

京都大学文学部卒業。

翻訳業を経て、小学校教師になるために愛知教育大学に入学。

25年間、西尾市の小中学校に勤務。

定年退職後、名古屋大学教育学部の大学院で学ぶ。

〈趣味〉読書と競馬

 

◎新美南吉について

 新美南吉(本名・正八)は、大正2年(1913)7月30日、知多郡半田町 (現・半田市)に、畳屋をしていた父・渡辺多蔵、母・りゑの次男として生まれました。前年に生まれた長男・正八は生後18日で死にました。4歳の時に実母が死亡し、その日を境に、南吉にとって苦難の日々が始まりました。

 ―父は後妻を迎えるために、南吉を父の実家に預けた。翌年、継母の志んが来た。下駄屋を始めた。6歳の時、異母弟の益吉が生まれた。1920年4月、半田第二尋常小学校(現・岩滑小学校)に入学。 翌年の7月、両親が離婚。南吉は新美志も(実母・りゑの継母)の養子になった。しばらく養家から通学したが、祖母との二人だけの淋しい生活に耐えられず、12月に岩滑の実家に戻った。1926年4月、半田中学校に入学。暮らしは非常に貧しかった。1931年3月、半田中学校を優秀な成績で卒業。岡崎師範学校を受験したが、身体検査で不合格。母校の半田第二尋常小学校の代用教員として8月まで勤務した。12月に東京高等師範学校を受験するが、今度も不合格。翌年の3月、東京外国語学校を受験して合格した。

 1936年3月、東京外国語学校を卒業。希望した中等学校の教員の働き口がなく、東京土産品協会に就職。10月に喀血し、帰郷して療養生活を始めた。生活のため、翌年の4月から7月まで河和第一尋常高等小学校(現・河和小学校)の代用教員として勤務した。9月から杉治商会で鶏の雛の世話をする仕事に就いた。1938年4月、安城高等女学校の教諭になった。経済的にも安定し、ようやく長い苦闘の生活から脱出できた。しかし、1941年12月に腎臓が悪くなり、血尿が出るようになった。1943年2月に退職。3月22日午前8時15分、喉頭結核のため死去。享年30。

 半田市に「新美南吉記念館」があります。1994年に童話「ごんぎつね」に登場する中山の森の隣に建てられた小山のような建物です。2010年6月に平成天皇皇后が見学に訪れました。美智子皇后は小さい頃から南吉の作品がとても好きでした。私は毎月1回、用事で常滑市に行きます。その行き帰りに南吉記念館の横を通ります。通り過ぎながら、私は南吉のことを考えます。私は南吉の童話が大好きです。宮沢賢治とどちらが好きかと質問されたら、私は長い間考え込むことでしょう。考えても結論は出ないでしょう。

◎『和太郎さんと牛』

 南吉の作品の中で一番好きなのは、死の前年(1942年)の5月に書かれた『和太郎さんと牛』です。酒の大好きな和太郎さんと老牛との交流が、少しとぼけた文体で描かれており、読む者に春のそよ風のような心地よい温もりを与えます。読んでみましょう。

 「牛引きの和太郎さんは大変良い牛を持っている、とみんなが言っていました。だが、それはよぼよぼの年取った牛で、お尻の肉がこけて落ちて、あばら骨も数えられるほどでした。そして、空車を引いてさえ、じきに舌を出して苦しそうに息をするのでした。

 人間には誰しも癖があります。和太郎さんにも一つ悪い癖があって、和太郎さんはそれを言われると、いつも恐れ入って、頭を掻き、ついでに背中の痒いところまで掻くのですが、それと言うのはお酒を飲むことでありました。

 村から町へ行く途中、道端に大きな松が一本あり、その陰に茶店が一軒ありました。丁度うまい具合に松の木が一本と茶店が一軒並んでいるということが、和太郎さんには良くなかったのです。と言うのは、松の木というものは牛を繋いでおくのに良いもので、茶店というものはお酒の好きな人が一寸一服するのに良いものだからです。そこで和太郎さんは、そこを通りかかると、つい牛を松に繋いで、ふらふらと茶店に入って一寸一服してしまうのでした。

 一寸一服のつもりで、和太郎さんは茶店に入るのです。けれど、酒を飲んでいるうちに、人間の考えはよく変わってしまうものです。もう一寸、もう一寸と思って1時間くらい直に過ごしてしまいます」

 和太郎さんも、若かった時、お嫁さんがいた。和太郎さんのお母さんの目は、稲の葉先で突いたために潰れて赤い肉が見えている。お嫁さんはその目を嫌悪した。それを知ったお母さんは、奉公に出ようと決心する。和太郎さんは出て行く母親を引き留め、お嫁さんを実家に帰した。

 「人間は他の人間からお世話になるとお礼をします。けれど、牛や馬からお世話になった時には、余りいたしません。お礼をしなくても、牛や馬はべつだん文句を言わないからであります。だが、これは不公平な、いけないやり方である、と和太郎さんは思っていました。何か、よぼよぼの牛の大層喜ぶようなことをして、日頃お世話になっているお礼にしたいものだ、と考えていました。すると、そういう良い折りがやって来ました」

 ある時、隣村の酒屋から、酒樽を町の酢屋まで届けるように頼まれた。運んでいるうちに樽の鏡板が外れ、白い酒の滓が地面に流れ出した。和太郎さんは牛に嘗めさせた。

 「牛は舌出して、ぺろりと一嘗めやりました。そしてまた一寸動かずにいました。口の中でその味をよく調べているに違いありません。牛はまたぺろりと嘗めました。そして後は、ぺろりぺろりと嘗め、お負けにふうふうという鼻息まで加わったので、大層忙しくなりました」

 和太郎さんも茶店に立ち寄り、たくさん飲んだ。その夜、酔っ払った和太郎さんと牛は家に帰らなかった。心配したお母さんがお巡りさんや青年団に捜索を頼んだ。朝になっても見つからず、みんな草臥れて駐在所の前で座り込んだ。

 「すると、西の方の学校の裏道を、牛車が一台やって来ました。もう仕事に行くのかと、みんなぼんやりした目で見ていました。牛車が駐在所の前を通る時、乗っていた男が『おい、お前ら、朝早いのう。今日は道普請でもするかえ』と言いました。見たことのある男だと思って、みんながよく見ると、それが和太郎さんだったのです」

 和太郎さんも牛もびしょ濡れだった。「池の中でも通って来たのじゃねえか」と問われて、和太郎さんは強く否定したが、和太郎さんの懐から、大きな鮒や亀の子が出てきた。「さて、おしまいに、村人たちにも和太郎さんにも、どうしても訳の分からぬことが一つあったのです。それは、牛車の上に一つの小さな籠が載っていて、その中に花束と丸々太った男の赤ん坊が入っていたことです」

 和太郎さんは、赤ん坊の親が現れるのを待っていたが、現れなかった。「そこで、その子には和助という名を付けて自分の子にしました」

 籠の中の赤ん坊は、離縁したお嫁さんが産んだ男の子だったのではないか、と私は前々から推理しています。本当に面白い童話です。是非読んでみて下さい。

 

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◎新美南吉について

 

 新美南吉(本名・正八)は、大正2年(1913)7月30日、知多郡半田町 (現・半田市)に、畳屋をしていた父・渡辺多蔵、母・りゑの次男として生まれました。前年に生まれた長男・正八は生後18日で死にました。4歳の時に実母が死亡し、その日を境に、南吉にとって苦難の日々が始まりました。

 ―父は後妻を迎えるために、南吉を父の実家に預けた。翌年、継母の志んが来た。下駄屋を始めた。6歳の時、異母弟の益吉が生まれた。1920年4月、半田第二尋常小学校(現・岩滑小学校)に入学。 翌年の7月、両親が離婚。南吉は新美志も(実母・りゑの継母)の養子になった。しばらく養家から通学したが、祖母との二人だけの淋しい生活に耐えられず、12月に岩滑の実家に戻った。1926年4月、半田中学校に入学。暮らしは非常に貧しかった。1931年3月、半田中学校を優秀な成績で卒業。岡崎師範学校を受験したが、身体検査で不合格。母校の半田第二尋常小学校の代用教員として8月まで勤務した。12月に東京高等師範学校を受験するが、今度も不合格。翌年の3月、東京外国語学校を受験して合格した。

 1936年3月、東京外国語学校を卒業。希望した中等学校の教員の働き口がなく、東京土産品協会に就職。10月に喀血し、帰郷して療養生活を始めた。生活のため、翌年の4月から7月まで河和第一尋常高等小学校(現・河和小学校)の代用教員として勤務した。9月から杉治商会で鶏の雛の世話をする仕事に就いた。1938年4月、安城高等女学校の教諭になった。経済的にも安定し、ようやく長い苦闘の生活から脱出できた。しかし、1941年12月に腎臓が悪くなり、血尿が出るようになった。1943年2月に退職。3月22日午前8時15分、喉頭結核のため死去。享年30。

 半田市に「新美南吉記念館」があります。1994年に童話「ごんぎつね」に登場する中山の森の隣に建てられた小山のような建物です。2010年6月に平成天皇皇后が見学に訪れました。美智子皇后は小さい頃から南吉の作品がとても好きでした。私は毎月1回、用事で常滑市に行きます。その行き帰りに南吉記念館の横を通ります。通り過ぎながら、私は南吉のことを考えます。私は南吉の童話が大好きです。宮沢賢治とどちらが好きかと質問されたら、私は長い間考え込むことでしょう。考えても結論は出ないでしょう。

 

◎『和太郎さんと牛』

 南吉の作品の中で一番好きなのは、死の前年(1942年)の5月に書かれた『和太郎さんと牛』です。酒の大好きな和太郎さんと老牛との交流が、少しとぼけた文体で描かれており、読む者に春のそよ風のような心地よい温もりを与えます。読んでみましょう。

 「牛引きの和太郎さんは大変良い牛を持っている、とみんなが言っていました。だが、それはよぼよぼの年取った牛で、お尻の肉がこけて落ちて、あばら骨も数えられるほどでした。そして、空車を引いてさえ、じきに舌を出して苦しそうに息をするのでした。

 人間には誰しも癖があります。和太郎さんにも一つ悪い癖があって、和太郎さんはそれを言われると、いつも恐れ入って、頭を掻き、ついでに背中の痒いところまで掻くのですが、それと言うのはお酒を飲むことでありました。

 村から町へ行く途中、道端に大きな松が一本あり、その陰に茶店が一軒ありました。丁度うまい具合に松の木が一本と茶店が一軒並んでいるということが、和太郎さんには良くなかったのです。と言うのは、松の木というものは牛を繋いでおくのに良いもので、茶店というものはお酒の好きな人が一寸一服するのに良いものだからです。そこで和太郎さんは、そこを通りかかると、つい牛を松に繋いで、ふらふらと茶店に入って一寸一服してしまうのでした。

 一寸一服のつもりで、和太郎さんは茶店に入るのです。けれど、酒を飲んでいるうちに、人間の考えはよく変わってしまうものです。もう一寸、もう一寸と思って1時間くらい直に過ごしてしまいます」

 和太郎さんも、若かった時、お嫁さんがいた。和太郎さんのお母さんの目は、稲の葉先で突いたために潰れて赤い肉が見えている。お嫁さんはその目を嫌悪した。それを知ったお母さんは、奉公に出ようと決心する。和太郎さんは出て行く母親を引き留め、お嫁さんを実家に帰した。

 「人間は他の人間からお世話になるとお礼をします。けれど、牛や馬からお世話になった時には、余りいたしません。お礼をしなくても、牛や馬はべつだん文句を言わないからであります。だが、これは不公平な、いけないやり方である、と和太郎さんは思っていました。何か、よぼよぼの牛の大層喜ぶようなことをして、日頃お世話になっているお礼にしたいものだ、と考えていました。すると、そういう良い折りがやって来ました」

 ある時、隣村の酒屋から、酒樽を町の酢屋まで届けるように頼まれた。運んでいるうちに樽の鏡板が外れ、白い酒の滓が地面に流れ出した。和太郎さんは牛に嘗めさせた。

 「牛は舌出して、ぺろりと一嘗めやりました。そしてまた一寸動かずにいました。口の中でその味をよく調べているに違いありません。牛はまたぺろりと嘗めました。そして後は、ぺろりぺろりと嘗め、お負けにふうふうという鼻息まで加わったので、大層忙しくなりました」

 和太郎さんも茶店に立ち寄り、たくさん飲んだ。その夜、酔っ払った和太郎さんと牛は家に帰らなかった。心配したお母さんがお巡りさんや青年団に捜索を頼んだ。朝になっても見つからず、みんな草臥れて駐在所の前で座り込んだ。

 「すると、西の方の学校の裏道を、牛車が一台やって来ました。もう仕事に行くのかと、みんなぼんやりした目で見ていました。牛車が駐在所の前を通る時、乗っていた男が『おい、お前ら、朝早いのう。今日は道普請でもするかえ』と言いました。見たことのある男だと思って、みんながよく見ると、それが和太郎さんだったのです」

 和太郎さんも牛もびしょ濡れだった。「池の中でも通って来たのじゃねえか」と問われて、和太郎さんは強く否定したが、和太郎さんの懐から、大きな鮒や亀の子が出てきた。「さて、おしまいに、村人たちにも和太郎さんにも、どうしても訳の分からぬことが一つあったのです。それは、牛車の上に一つの小さな籠が載っていて、その中に花束と丸々太った男の赤ん坊が入っていたことです」

 和太郎さんは、赤ん坊の親が現れるのを待っていたが、現れなかった。「そこで、その子には和助という名を付けて自分の子にしました」

 籠の中の赤ん坊は、離縁したお嫁さんが産んだ男の子だったのではないか、と私は前々から推理しています。本当に面白い童話です。是非読んでみて下さい。