姪の就職2

 二人のテレワーク談議が続く。

「昔、チャップリンの映画モダンタイムスを観たときは驚いた。当時、世界はオートメーションに向かってまっしぐらに進んでいたから、その流れを痛烈に批判する内容だったからだ」

「あれは人間の機械化でしょう」

「テレワークだってある意味、そうだよ」

「通勤時間がいらないと言いますが、通勤途中でヒントが浮かぶことも多いと思いますね」

「そうだよ。無駄の効用ということがある。人間、きっちり枠にはめてやる仕事はろくな事がないと思う。だけど世の経営者は流れに遅れまいと、急いで導入しているそうだ」

「そうでしょうね」

「人間の営みを効率だけを求めて実行すると碌なことがないと思うね」

「サービス業なんて、テレワークできませんね」

「テレワークできる仕事なんか、そのうちAIに取って代わるよ」

「高齢者には関係ないですが…」

「そうだな」

 二人の愚痴はいつ終わるかと思われたが、るり子は「夕飯の買い物に行ってきます」と言い残して部屋を出た。

 真三は小説の続きを読んだ。

「山城昭和産業無尽」は、第一次革命期を乗り切った京都市内の無尽業者三社が合併して昭和十五年に設立された。敗戦後、植田清吉という男が社長をしていた。八十歳と高齢のため、社長とは名ばかりで、実務は長男の息子の伝次郎と次男の竜太郎が代わってやっていた。

 一般の銀行と同様、無尽会社は恒常的な資金不足の時代を背景に業容を拡大していく。とくに預金業務と「看做無尽」の取り扱いが認められた点が大きい。金融機関として預金業務を行えないことは弱点であったが、これが認められ普通の銀行と変わらない。「看做無尽」は一定の口数まとめて「組」や「団」をつくり、その中で抽選により給付する順番を決めていた「典型型無尽」と違って、掛け金者が口数の集まるのを待たずに一定期間経れば、自由に給付を受けられるよう利便性を高めたものである。そして昭和二十六年、議員立法による「相互銀行法」が成立、施行された。

 植田清吉は息子兄弟に話しかける。高齢で名ばかりの社長とはいえ、清吉は相互銀行の重大さを読み取っていた。それは自分の会社も大改革しないと生き残れないことを意味していた。その年の十月、社名を「山城昭和産業相互銀行」に変更するとともに、長男の伝次郎が社長に就任した。次男の竜太郎も専務に昇格した。当初、兄弟による経営は順調にいくように見えた。

 企業はよくトップ次第だといわれるが、この山城昭和産業相互銀行でも当てはまる。伝次郎は京都美術学校で学んだ。芸術の道に進みたかった。親は経営を引き継ぐことを条件に、美術学校への入学を認めていた。強制的に芸術への道を断念させられたが、親が思うほど本人は簡単に捨てきれるものではない。

 親が元気で、その片腕としてやっている間は、精神的な余裕もあり、絵を描く時間もあった。しかし、親も逝り、孤独な社長となるとそうはいかない。そうかといって新しい金融の幕開けと言われても、経営に闘志を燃やさない伝次郎に確たる方策は浮かばない。親の選択は息子を不幸にしていた。次男は年も若く、清吉の頭にも後継者にする考えがなかった。伝次郎に賭けていた。

(昔から金を残すは下、事業を残すは中、人を残すは上といわれているが、まさに経営とは後継者の育成が最大の課題なのだ)

 人の問題の次に組織があった。同社は本店を京都に置きながら、支店を福井、奈良、滋賀県今津市、京都府舞鶴市、宮津市というように、他の金融機関が京都市内に集中させている時に、これまで通り遠方に設置している。

(経営者は時代の流れを読み取れない時に失敗する。時代を読めない人は経営者になる資格はない)ということだ。

 田舎に支店を置くことは伝次郎の基本姿勢であった。

「都市銀行の金は流動性が高く、落ち着きがない。行儀の悪い金なんです」

 都市の商売人は目先が利きすぎて、長期にわたって金融機関に預けることはない。その点、京都でも宮津、舞鶴、福井県の小浜など日本海側の土地有力者はおおらかなのか、ガツガツとしていないそうだ。彼らを支店長に据えて業容の拡大を図ろうとした。東京、大阪、名古屋そして京都などの都市型金融機関は逆に支店網を市内に集中させていた。人が都市に集まり出していたのである。時代の流れがそこにある。田舎では金の流動性が低いという利点はあるが、預金量そのものが集まらなくなっていた。しかも、支店が遠方だから経費がかかり、業績が急激に悪化に向かい始めた。

 昭和産業相銀の転換策の遅れが、致命的になってくる。社長の伝次郎は業績が悪くなると、経費と人件費の切り下げを求めた。そうなると行員の待遇は悪化する一方である。ぼんぼん育ちの芸術型経営者に行員の生活苦を見抜く力がなかったか、それとも耐えることだけを求めたのか、三〇年代に入っても業績は一向に回復しない。

「社長、このままではこの先、どうなるかわからないよ」

「市内に支店を移せと言っても、余裕資金がないのは専務の君もよく知っているだろう」

 弟で専務の植田竜太郎の声も届かない。行員が生活改善を訴えるが、(業績を上げることが先決だ)と言って伝次郎は耳を貸さない。もう耐えられないと、行員の間で労働組合結成に向けて動き出していた。営業部の中堅管理職A(42)が若手行員を集めてオルグにはいっていた。日曜日にAの自宅に親しいものから順番に呼び込んでは、労働組合の結成を訴えた。全行員三百人のうち管理職を除くと約二百五十人いる。第一次の目標人員を三十人としていた。秘密裏に進めるためには、この人数に留めることがいいのだという判断があった。営業のA課長は時が来たという思いが湧いて、人生を賭ける決断をした。この先がどうなるか完全に詰めたわけではない。若手行員らと酒を酌み交わすなかで、流れを肌で体感していた。そしてやむに已まれぬ気持が昂ってきていた。

「吉野も加わるといってきました」

 A課長の自宅に外でのオルグの結果が伝えられる。ついに目標の人数に達したのである。

 実はA課長の判断は総務課長の榊原元の情報と指導によるものだった。榊原は会社全体の庶務的な仕事のほかに、広報、宣伝を担当、さらに機密費も扱い、銀行の裏から出入りする、ありとあらゆる人間と気脈を通じ合っていた。その中に、叔父で会計事務所を経営する原三郎もいた。

 柳原と原の二人は、山城相銀の倒産を目論んでいた。昭和十五年、京都市内の無尽会社三社が合併して「京都昭和産業無尽」になったが、その時の一社に「伏見無尽」という会社があった。伏見無尽の経営者が榊原の実父で、三社が合併する時、(初代社長の座を約束されていた)のだ。

 ところが、合併の一週間前に父、柳原文太郎は肺炎で京大病院に入院してしまった。一時、回復したので文太郎は銀行に出かけた。入院当初は合併手続きや、人事、組織の打ち合わせで伏見無尽時代の専務が病院を訪れていたが、そのうちぷっつり糸がきれたように来なくなっていた。そのため文太郎は不信感を募らせるようになっていたからだ。ようやく半年後、主治医の許可を得て外出できるようになり、京都昭和産業無尽に出向いたのであった。

「なんの御用ですか」

「なんの御用?」

「…」

「儂はこの銀行の社長の柳原文太郎だぞ。失礼なことを言うな」

「当行の社長は植田と言いますが…」

「なにー、植田。あのやつ…」

「御用の向きをおっしゃってください。勝手に入られては困ります」

 受付から連絡を受けた秘書の若い男が、社長室に向かおうとする柳原の腕を抱えるようにして応接室に連れこんだ。

「柳原さん落ち着いてください」

「どうして落ち着いていられるんだ。植田はどこにいる。すぐに呼べ」

「植田社長はいま留守にしていますが、私が代わりに承りましょう」

「植田社長?どういうことだ。それは…」

「柳原さんはなにもご存じないのですか。確かに合併時は柳原さん、いや伏見無尽さんは大株主でしたが、すでに以前の専務さんが名義書き替えをしておられまして、いまでは柳原さん個人の株式が三千株ほどあるだけでございます」

「なんだと…。畜生、騙したな。告訴してやる」

 柳原はそう叫ぶやソファーの上に倒れてしまった。再び京大病院に入院、そのまま帰らぬ人となってしまった。柳原の妻も看病疲れが重なって夫の死後、一ケ月後に逝った。母親は死の直前、一人息子の元を枕元に呼んで一通の封筒を手渡した。

 それは念書で京都昭和産業無尽の初代社長に無尽三社の社長名で柳原文太郎を初代社長に推挙するーと書かれてあった。手渡された念書をじっと見ていた時、母親が「敵をとって」とか細い声で呟いていた姿がいつまでも脳裏に焼き付いて離れない。

 

■岡田 清治プロフィール

1942年生まれ ジャーナリスト

(編集プロダクション・NET108代表)

著書に『高野山開創千二百年 いっぱんさん行状記』『心の遺言』『あなたは社員の全能力を引き出せますか!』『リヨンで見た虹』など多数

※この物語に対する読者の方々のコメント、体験談を左記のFAXかメールでお寄せください。

今回は「就職」「日本のゆくえ」「結婚」「夫婦」「インド」「愛知県」についてです。物語が進行する中で織り込むことを試み、一緒に考えます。

FAX‥0569―34―7971

メール‥takamitsu@akai-shinbunten.net

 

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姪の就職2

 二人のテレワーク談議が続く。

「昔、チャップリンの映画モダンタイムスを観たときは驚いた。当時、世界はオートメーションに向かってまっしぐらに進んでいたから、その流れを痛烈に批判する内容だったからだ」

「あれは人間の機械化でしょう」

「テレワークだってある意味、そうだよ」

「通勤時間がいらないと言いますが、通勤途中でヒントが浮かぶことも多いと思いますね」

「そうだよ。無駄の効用ということがある。人間、きっちり枠にはめてやる仕事はろくな事がないと思う。だけど世の経営者は流れに遅れまいと、急いで導入しているそうだ」

「そうでしょうね」

「人間の営みを効率だけを求めて実行すると碌なことがないと思うね」

「サービス業なんて、テレワークできませんね」

「テレワークできる仕事なんか、そのうちAIに取って代わるよ」

「高齢者には関係ないですが…」

「そうだな」

 二人の愚痴はいつ終わるかと思われたが、るり子は「夕飯の買い物に行ってきます」と言い残して部屋を出た。

 真三は小説の続きを読んだ。

「山城昭和産業無尽」は、第一次革命期を乗り切った京都市内の無尽業者三社が合併して昭和十五年に設立された。敗戦後、植田清吉という男が社長をしていた。八十歳と高齢のため、社長とは名ばかりで、実務は長男の息子の伝次郎と次男の竜太郎が代わってやっていた。

 一般の銀行と同様、無尽会社は恒常的な資金不足の時代を背景に業容を拡大していく。とくに預金業務と「看做無尽」の取り扱いが認められた点が大きい。金融機関として預金業務を行えないことは弱点であったが、これが認められ普通の銀行と変わらない。「看做無尽」は一定の口数まとめて「組」や「団」をつくり、その中で抽選により給付する順番を決めていた「典型型無尽」と違って、掛け金者が口数の集まるのを待たずに一定期間経れば、自由に給付を受けられるよう利便性を高めたものである。そして昭和二十六年、議員立法による「相互銀行法」が成立、施行された。

 植田清吉は息子兄弟に話しかける。高齢で名ばかりの社長とはいえ、清吉は相互銀行の重大さを読み取っていた。それは自分の会社も大改革しないと生き残れないことを意味していた。その年の十月、社名を「山城昭和産業相互銀行」に変更するとともに、長男の伝次郎が社長に就任した。次男の竜太郎も専務に昇格した。当初、兄弟による経営は順調にいくように見えた。

 企業はよくトップ次第だといわれるが、この山城昭和産業相互銀行でも当てはまる。伝次郎は京都美術学校で学んだ。芸術の道に進みたかった。親は経営を引き継ぐことを条件に、美術学校への入学を認めていた。強制的に芸術への道を断念させられたが、親が思うほど本人は簡単に捨てきれるものではない。

 親が元気で、その片腕としてやっている間は、精神的な余裕もあり、絵を描く時間もあった。しかし、親も逝り、孤独な社長となるとそうはいかない。そうかといって新しい金融の幕開けと言われても、経営に闘志を燃やさない伝次郎に確たる方策は浮かばない。親の選択は息子を不幸にしていた。次男は年も若く、清吉の頭にも後継者にする考えがなかった。伝次郎に賭けていた。

(昔から金を残すは下、事業を残すは中、人を残すは上といわれているが、まさに経営とは後継者の育成が最大の課題なのだ)

 人の問題の次に組織があった。同社は本店を京都に置きながら、支店を福井、奈良、滋賀県今津市、京都府舞鶴市、宮津市というように、他の金融機関が京都市内に集中させている時に、これまで通り遠方に設置している。

(経営者は時代の流れを読み取れない時に失敗する。時代を読めない人は経営者になる資格はない)ということだ。

 田舎に支店を置くことは伝次郎の基本姿勢であった。

「都市銀行の金は流動性が高く、落ち着きがない。行儀の悪い金なんです」

 都市の商売人は目先が利きすぎて、長期にわたって金融機関に預けることはない。その点、京都でも宮津、舞鶴、福井県の小浜など日本海側の土地有力者はおおらかなのか、ガツガツとしていないそうだ。彼らを支店長に据えて業容の拡大を図ろうとした。東京、大阪、名古屋そして京都などの都市型金融機関は逆に支店網を市内に集中させていた。人が都市に集まり出していたのである。時代の流れがそこにある。田舎では金の流動性が低いという利点はあるが、預金量そのものが集まらなくなっていた。しかも、支店が遠方だから経費がかかり、業績が急激に悪化に向かい始めた。

 昭和産業相銀の転換策の遅れが、致命的になってくる。社長の伝次郎は業績が悪くなると、経費と人件費の切り下げを求めた。そうなると行員の待遇は悪化する一方である。ぼんぼん育ちの芸術型経営者に行員の生活苦を見抜く力がなかったか、それとも耐えることだけを求めたのか、三〇年代に入っても業績は一向に回復しない。

「社長、このままではこの先、どうなるかわからないよ」

「市内に支店を移せと言っても、余裕資金がないのは専務の君もよく知っているだろう」

 弟で専務の植田竜太郎の声も届かない。行員が生活改善を訴えるが、(業績を上げることが先決だ)と言って伝次郎は耳を貸さない。もう耐えられないと、行員の間で労働組合結成に向けて動き出していた。営業部の中堅管理職A(42)が若手行員を集めてオルグにはいっていた。日曜日にAの自宅に親しいものから順番に呼び込んでは、労働組合の結成を訴えた。全行員三百人のうち管理職を除くと約二百五十人いる。第一次の目標人員を三十人としていた。秘密裏に進めるためには、この人数に留めることがいいのだという判断があった。営業のA課長は時が来たという思いが湧いて、人生を賭ける決断をした。この先がどうなるか完全に詰めたわけではない。若手行員らと酒を酌み交わすなかで、流れを肌で体感していた。そしてやむに已まれぬ気持が昂ってきていた。

「吉野も加わるといってきました」

 A課長の自宅に外でのオルグの結果が伝えられる。ついに目標の人数に達したのである。

 実はA課長の判断は総務課長の榊原元の情報と指導によるものだった。榊原は会社全体の庶務的な仕事のほかに、広報、宣伝を担当、さらに機密費も扱い、銀行の裏から出入りする、ありとあらゆる人間と気脈を通じ合っていた。その中に、叔父で会計事務所を経営する原三郎もいた。

 柳原と原の二人は、山城相銀の倒産を目論んでいた。昭和十五年、京都市内の無尽会社三社が合併して「京都昭和産業無尽」になったが、その時の一社に「伏見無尽」という会社があった。伏見無尽の経営者が榊原の実父で、三社が合併する時、(初代社長の座を約束されていた)のだ。

 ところが、合併の一週間前に父、柳原文太郎は肺炎で京大病院に入院してしまった。一時、回復したので文太郎は銀行に出かけた。入院当初は合併手続きや、人事、組織の打ち合わせで伏見無尽時代の専務が病院を訪れていたが、そのうちぷっつり糸がきれたように来なくなっていた。そのため文太郎は不信感を募らせるようになっていたからだ。ようやく半年後、主治医の許可を得て外出できるようになり、京都昭和産業無尽に出向いたのであった。

「なんの御用ですか」

「なんの御用?」

「…」

「儂はこの銀行の社長の柳原文太郎だぞ。失礼なことを言うな」

「当行の社長は植田と言いますが…」

「なにー、植田。あのやつ…」

「御用の向きをおっしゃってください。勝手に入られては困ります」

 受付から連絡を受けた秘書の若い男が、社長室に向かおうとする柳原の腕を抱えるようにして応接室に連れこんだ。

「柳原さん落ち着いてください」

「どうして落ち着いていられるんだ。植田はどこにいる。すぐに呼べ」

「植田社長はいま留守にしていますが、私が代わりに承りましょう」

「植田社長?どういうことだ。それは…」

「柳原さんはなにもご存じないのですか。確かに合併時は柳原さん、いや伏見無尽さんは大株主でしたが、すでに以前の専務さんが名義書き替えをしておられまして、いまでは柳原さん個人の株式が三千株ほどあるだけでございます」

「なんだと…。畜生、騙したな。告訴してやる」

 柳原はそう叫ぶやソファーの上に倒れてしまった。再び京大病院に入院、そのまま帰らぬ人となってしまった。柳原の妻も看病疲れが重なって夫の死後、一ケ月後に逝った。母親は死の直前、一人息子の元を枕元に呼んで一通の封筒を手渡した。

 それは念書で京都昭和産業無尽の初代社長に無尽三社の社長名で柳原文太郎を初代社長に推挙するーと書かれてあった。手渡された念書をじっと見ていた時、母親が「敵をとって」とか細い声で呟いていた姿がいつまでも脳裏に焼き付いて離れない。