遊び方 福笑い、独楽回し、凧揚げ、双六…かつては正月ならではの遊びがございましたねえ。中でも人生に例えることのできる双六は、その年の運試しにもなっていたようで。かの疫病が流行る昨今、あたふたと前に進むことはさておいて、これまでの人生をじっくり振り返ってみるもの宜しゅうございましょう。てなふうで、勘萃が昭和の世からとぼとぼ歩いてきた芸の道をすごろくにしてみました。コマを進めながら「ん?昭和◯◯年かあ、そう言えばあんなことがあったな」だの、「◯◯歳かあ、どんなことをしてたんだっけなあ」だのと、どうぞ、皆さまの身に置き換えてのお遊びを。

 

振り出し 昭和三十三年、勘萃、名古屋に生まれる。(写真①)

昭和三十六年(三歳)弟たちが生まれる前は、名古屋駅に程近い柳橋で育ったのでございます。ろくな遊び場がないので、幼稚園から帰ると地下街で三輪車を乗り回したり、名鉄百貨店のオモチャ売り場を冷やかしたり、不二屋パーラーでおやつを食べたり、映画館のディズニーに通ったり…で、週末になるてえと芸妓をしていた母方の伯母(後に養子となる)のいる廓で過ごす。勘萃の芸は、こうして種を蒔いてもらいました。(写真②)

早くも十代へコマを進める

昭和五十年(十七歳)「バッハ弾き」を志すようになり、教会でオルガンを弾いたり聖歌隊を指揮しながらキリスト教を学んでおったのでございます。2年ほどして、ボナルド・サンテ司祭より洗礼を受け「ヨハネ」の名を授かりました。(写真③)

昭和五十一年(十八歳)クラシック・ギター奏者としてデビュー(ヤマハホール)。

二つ進んで二十代へ

昭和五十三年(二十歳)名古屋音楽大学作曲科へ入学して、卒業まで作曲のほか、ピアノや指揮法なんぞを教わりました。

昭和五十五年(二十二歳)中部日本ギター協会『協会賞』受賞

昭和五十八年(二十五歳)『反核・日本の音楽家たち』名古屋コンサートに出演(愛知文化講堂)。

昭和五十九年(二十六歳)日本ギタリスト会議『最優秀新人賞』受賞したのに背中を押されて、自らの翻訳による語りと音楽のふたり芝居『プラテーロとぼく』を上演(コンコルディアホール)。

 この年から日本福祉大学で講師を務めるようになりました(平成十五年まで)。

昭和六十年(二十七歳)ルンデ『音楽する仲間たち』(スタジオ・ルンデ)Series2からSeries10までに渡って声楽、ピアノ、チェンバロの先輩がた、そして、憧れの杵屋弥十介師匠(三味線)の胸を借りての修業を。

昭和六十一年(二十八歳)東海学生マンドリン連盟『第二十二回 合同演奏会』(名古屋市民会館大ホール)にて『Critique of pure resonance』を作曲初演して作曲家デビューしたので、もう一回サイコロを振る

 この年には、更なる「バッハ弾き」になろうと、クラシック・ギター奏者から古楽器バロック・リュート奏者へと転向もしたので、あと一回サイコロを振る

三つ進んで三十代へ

平成元年(三十一歳)勘萃芸の育ての親、竹内正美プロデューサー(以下、竹内正美P)から世界デザイン博覧会テーマ館の音楽を手掛ける大役を仰せつかったのでございます。

平成二年 ( 三十二歳) 編曲をして演奏にも加わったC D『Requiem』がヒューマン・ネットワーク社より発売されました。

平成四年(三十四歳)バッハ『ヨハネ受難曲』(名古屋 カトリック五反城教会)にてバリトン歌手の大御所クラウス・オッカー氏の伴奏を務めたり、劇団·劇座『ジャングルを救おう』の音楽を手掛けたり。

 「ちたろまん」とのお付き合いもこの年から。これまでに六十編余りの拙文でお邪魔する嬉しゅうて長~いご縁になりました。

平成五年(三十五歳)バッハのカンタータ『おしゃべりはやめてお静かに』にて指揮者デビューしたので、もう一回サイコロを振る

平成六年(三十六歳)NHK教育『日曜美術館』に出演。

平成七年(三十七歳) NHK開局70周年『花の舞・花の宴』に出演。

 結婚式場「出雲殿」にて婚礼ピヤノを務めるようになったのもこの年のことでございました。三階まで吹き抜けたロビーで弾く名器「ベーゼンドルファー」…「出雲殿」が「IZUMODEN」、そして「マリエカリヨン」へと移り変ったこの二十五年の間に、何と数十万人ものお客さまのお耳汚しをさせていただいた勘定になります。(写真④)

 

平成八年(三十八歳)ピアノ曲集『抒情洋琴曲集』第壱巻を紡ぐ。

※洋琴=明治時代にはピアノをこう呼んでおったようです。

平成九年(三十九歳)『心はいつも春』(三重県・紀南健康長寿推進協議会テーマ曲)を作曲。作詞は竹内正美P。

四十代へコマを進める

平成十年(四十歳) 竹内正美Pのもと、碧南市市制50周年ミュージカル『オーバー・ザ・レインボー』を作曲。(写真⑤)

平成十一年(四十一歳)『生まれたから』(名古屋市市民芸術祭『ソング·フォー·ジャパン』テーマ曲)を作曲。作詞は竹内正美P。

平成十二年(四十二歳)ピアノ曲『浅縹紫陽花譜』を作曲。(写真⑥)

平成十三年(四十三歳)「宗家 藤間流」七世 藤間勘十郎より「勘萃」の名を賜ったので、もう一回サイコロを振る。(写真⑦)サイコロを振っている間にToshi(X JAPAN)の弦楽オーケストラを編曲。

平成十五年(四十五歳)ピアノ曲集『抒情洋琴曲集』第弐巻を紡ぐ。

平成十六年(四十六歳)『ITS世界会議』前夜祭の音楽を手掛ける。

平成十七年(四十七歳)室内楽『月の光が降り注ぐ逸話』、歌曲『いつまでも聞こえている歌』を作曲。

平成十八年(四十八歳)朗読劇『絵姿女房』、『地獄変』などの音楽を作曲。

 そうそう、「琴修会」と「ライリッシュ オカリナ連盟」の 顧問に就任したのもこの年のことでございました(平成三十年まで)。平成十九年(四十九歳) 講演『以心伝心・以身伝心』にて養老孟司氏(東京大学名誉教授)と共演。

五十代へコマを進める

平成二十年(五十歳)『藤間勘萃の四方山ばなし』を講演(名古屋~大阪~横浜~新潟~岡山)。

平成二十一年(五十一歳) 『藤間勘萃の古今東西 音げしき』を講演(熊本~名古屋~大阪~金沢~横浜~新潟~岡山~丸亀~秋田)。

平成二十二年(五十二歳) 関西二期会オペラ『アメーリア舞踏会へ行く』にて管弦楽を編曲。

平成二十三年(五十三歳)『秋天の興』(古川美術館開館20周年記念)にて久田舜一郎(大倉流十五世宗家)と共演したり、関西二期会オペラ「コジ・ファン・トゥッテ」の室内楽を編曲したり。

平成二十五年(五十五歳)『孫たちへのバトン』(豊田市、豊田市教育委員会主催)の音楽を手掛け、合唱曲『おじいちゃん、おばあちゃん、ありがとう』を作曲。作詞は竹内正美P。(写真⑧)

 

 江戸のころ、芝居小屋や大道芸と並んで芸の場だった門付け芸(江戸時代のライブ?)を平成の世でやってみました。バッハを弾き唄ったり、踊ったり。(写真⑨、写真⑩)

 

ここで一回おやすみ 柳家喬太郎「文七元結」、古今亭志ん生「おかめ団子」、金原亭馬生「笠碁」、古今亭志ん生「芝浜」…落語が好きで好きで、そりゃもう毎日聴いておるのでございますよ。それが、まさか勘萃も落語をするようになろうとは。大学に務めていた頃は「先生」と呼ばれることの多かった勘萃も、今では「師匠」と呼んで下さる方々が多ございます。この「師匠」というのは、落語の中で「お、師匠っ、そんなに粧し込んで、いったい何処へお出かけかい?」と、道ばたで出くわした旦那衆に冷やかされる幇間(太鼓持ち)になったようで、何とも良い心持ちがするもんです。(写真⑪)

 

平成二十六年(五十六歳)「Toyota ART HALLOWEEN」にて、パーカッション、獅子舞い、パントマイム、コンテンポラリー・ダンス、三味線、拍子木、彫刻作品とのコラボ「松のサンバ叟」を上演。「師匠っ、一生ぶんの芸を見せてもらったよ!」と大喜びする竹内正美Pに、これで少しばかりの恩返し。(写真⑫)

平成二十七年(五十七歳)北海道から沖縄までをお父つぁん、おっ母さん、娘の家族三人(今では婿さまも加わって四人に)で巡業する野外劇団楽市楽座「バード・フラワー」名古屋公演に客演。木でこしらえた池の上でゆっくり回るお盆みたいな舞台に、千代紙に包まれた色とりどりの投げ銭が飛ぶ。芝居、歌い奏でられる音楽、踊り、衣裳、大道具、小道具…すべてを手掛ける楽市楽座に勘萃は恋い焦がれるばかりだよ。(写真⑬、写真⑭)

 

 ほぼ中学生によるブラス楽団「アンサンブル・フレンンズ」を指揮するようになったのもこの年のことで、名古屋市民会館大ホール、名古屋「広小路夏まつり」、「Kids☆HALLOWEEN」なんぞで賑やかしを。何しろ日本舞踊家が「吹けや踊れや!」と扇子でもって指揮をするのだから仕様がないやね。(写真⑮、写真⑯、写真⑰)

 

平成二十八年(五十八歳)伊藤直樹プロデューサーのもと、オペラ歌手、京がたり、ベリーダンサー、ヴィオラ名人に助けられながらデビュー以来の夢だった徹夜の演奏会『夜もすがらバッハ』を上演。(写真⑱、写真⑲、写真⑳、写真㉑、写真㉒)

 

 

平成二十九年(五十九歳)前年の『夜もすがらバッハ』につづく『暮れがたバッハ』にて京がたり「ひぃさま❀藤間勘萃」を上演。ところで、京がたり「ひぃさま❀藤間勘萃」は、生粋の京おんなが紡ぎ語る京都の四季折々に、勘萃が音楽を添えるという芸。朗読と音楽が組合わさることは数あれど、どちらも自作自演という構えは珍しいはず。(写真㉓)

還暦を迎えて振り出しへ戻る

平成三十年( 六十歳)Y♡SE寄席コンseason2 〜3にて京がたり「ひぃさま❀藤間勘萃」を上演したり、関西二期会オペラ「ヘンゼルとグレーテル」の管弦楽編曲をしたり、合唱曲「弥陀観音 大勢至」を作曲したりの年でございました。(写真㉔)

令和元年(六十一歳)「おとほぎ」(あいちオカリナフェスタのテーマ曲)を作曲初演。

令和二年(六十二歳)奇なる疫病が流行り、世間さま共ども一回おやすみ

上がり 皆さまと興じてまいりました勘萃の『芸の道を歩くすごろく』も、どうやら上がりに辿り着いたようでございます…が、いえいえ、人生のすごろくは、まだまだ続くのでございす、あらよっと。

 

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新聞■折込広告取扱■求人情報■ちたろまん■中部国際空港配送業務

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電話:0569-72-0356

平成二十九年(五十九歳)前年の『夜もすがらバッハ』につづく『暮れがたバッハ』にて京がたり「ひぃさま❀藤間勘萃」を上演。ところで、京がたり「ひぃさま❀藤間勘萃」は、生粋の京おんなが紡ぎ語る京都の四季折々に、勘萃が音楽を添えるという芸。朗読と音楽が組合わさることは数あれど、どちらも自作自演という構えは珍しいはず。(写真㉓)

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遊び方 福笑い、独楽回し、凧揚げ、双六…かつては正月ならではの遊びがございましたねえ。中でも人生に例えることのできる双六は、その年の運試しにもなっていたようで。かの疫病が流行る昨今、あたふたと前に進むことはさておいて、これまでの人生をじっくり振り返ってみるもの宜しゅうございましょう。てなふうで、勘萃が昭和の世からとぼとぼ歩いてきた芸の道をすごろくにしてみました。コマを進めながら「ん?昭和◯◯年かあ、そう言えばあんなことがあったな」だの、「◯◯歳かあ、どんなことをしてたんだっけなあ」だのと、どうぞ、皆さまの身に置き換えてのお遊びを。

 

振り出し 昭和三十三年、勘萃、名古屋に生まれる。(写真①)

昭和三十六年(三歳)弟たちが生まれる前は、名古屋駅に程近い柳橋で育ったのでございます。ろくな遊び場がないので、幼稚園から帰ると地下街で三輪車を乗り回したり、名鉄百貨店のオモチャ売り場を冷やかしたり、不二屋パーラーでおやつを食べたり、映画館のディズニーに通ったり…で、週末になるてえと芸妓をしていた母方の伯母(後に養子となる)のいる廓で過ごす。勘萃の芸は、こうして種を蒔いてもらいました。(写真②)

早くも十代へコマを進める

昭和五十年(十七歳)「バッハ弾き」を志すようになり、教会でオルガンを弾いたり聖歌隊を指揮しながらキリスト教を学んでおったのでございます。2年ほどして、ボナルド・サンテ司祭より洗礼を受け「ヨハネ」の名を授かりました。(写真③)

昭和五十一年(十八歳)クラシック・ギター奏者としてデビュー(ヤマハホール)。

二つ進んで二十代へ

昭和五十三年(二十歳)名古屋音楽大学作曲科へ入学して、卒業まで作曲のほか、ピアノや指揮法なんぞを教わりました。

昭和五十五年(二十二歳)中部日本ギター協会『協会賞』受賞

昭和五十八年(二十五歳)『反核・日本の音楽家たち』名古屋コンサートに出演(愛知文化講堂)。

昭和五十九年(二十六歳)日本ギタリスト会議『最優秀新人賞』受賞したのに背中を押されて、自らの翻訳による語りと音楽のふたり芝居『プラテーロとぼく』を上演(コンコルディアホール)。

 この年から日本福祉大学で講師を務めるようになりました(平成十五年まで)。

昭和六十年(二十七歳)ルンデ『音楽する仲間たち』(スタジオ・ルンデ)Series2からSeries10までに渡って声楽、ピアノ、チェンバロの先輩がた、そして、憧れの杵屋弥十介師匠(三味線)の胸を借りての修業を。

昭和六十一年(二十八歳)東海学生マンドリン連盟『第二十二回 合同演奏会』(名古屋市民会館大ホール)にて『Critique of pure resonance』を作曲初演して作曲家デビューしたので、もう一回サイコロを振る

 この年には、更なる「バッハ弾き」になろうと、クラシック・ギター奏者から古楽器バロック・リュート奏者へと転向もしたので、あと一回サイコロを振る

三つ進んで三十代へ

平成元年(三十一歳)勘萃芸の育ての親、竹内正美プロデューサー(以下、竹内正美P)から世界デザイン博覧会テーマ館の音楽を手掛ける大役を仰せつかったのでございます。

平成二年 ( 三十二歳) 編曲をして演奏にも加わったC D『Requiem』がヒューマン・ネットワーク社より発売されました。

平成四年(三十四歳)バッハ『ヨハネ受難曲』(名古屋 カトリック五反城教会)にてバリトン歌手の大御所クラウス・オッカー氏の伴奏を務めたり、劇団·劇座『ジャングルを救おう』の音楽を手掛けたり。

 「ちたろまん」とのお付き合いもこの年から。これまでに六十編余りの拙文でお邪魔する嬉しゅうて長~いご縁になりました。

平成五年(三十五歳)バッハのカンタータ『おしゃべりはやめてお静かに』にて指揮者デビューしたので、もう一回サイコロを振る

平成六年(三十六歳)NHK教育『日曜美術館』に出演。

平成七年(三十七歳) NHK開局70周年『花の舞・花の宴』に出演。

 結婚式場「出雲殿」にて婚礼ピヤノを務めるようになったのもこの年のことでございました。三階まで吹き抜けたロビーで弾く名器「ベーゼンドルファー」…「出雲殿」が「IZUMODEN」、そして「マリエカリヨン」へと移り変ったこの二十五年の間に、何と数十万人ものお客さまのお耳汚しをさせていただいた勘定になります。(写真④)

 

平成八年(三十八歳)ピアノ曲集『抒情洋琴曲集』第壱巻を紡ぐ。

※洋琴=明治時代にはピアノをこう呼んでおったようです。

平成九年(三十九歳)『心はいつも春』(三重県・紀南健康長寿推進協議会テーマ曲)を作曲。作詞は竹内正美P。

四十代へコマを進める

平成十年(四十歳) 竹内正美Pのもと、碧南市市制50周年ミュージカル『オーバー・ザ・レインボー』を作曲。(写真⑤)

平成十一年(四十一歳)『生まれたから』(名古屋市市民芸術祭『ソング·フォー·ジャパン』テーマ曲)を作曲。作詞は竹内正美P。

平成十二年(四十二歳)ピアノ曲『浅縹紫陽花譜』を作曲。(写真⑥)

平成十三年(四十三歳)「宗家 藤間流」七世 藤間勘十郎より「勘萃」の名を賜ったので、もう一回サイコロを振る。(写真⑦)サイコロを振っている間にToshi(X JAPAN)の弦楽オーケストラを編曲。

平成十五年(四十五歳)ピアノ曲集『抒情洋琴曲集』第弐巻を紡ぐ。

平成十六年(四十六歳)『ITS世界会議』前夜祭の音楽を手掛ける。

平成十七年(四十七歳)室内楽『月の光が降り注ぐ逸話』、歌曲『いつまでも聞こえている歌』を作曲。

平成十八年(四十八歳)朗読劇『絵姿女房』、『地獄変』などの音楽を作曲。

 そうそう、「琴修会」と「ライリッシュ オカリナ連盟」の 顧問に就任したのもこの年のことでございました(平成三十年まで)。平成十九年(四十九歳) 講演『以心伝心・以身伝心』にて養老孟司氏(東京大学名誉教授)と共演。

五十代へコマを進める

平成二十年(五十歳)『藤間勘萃の四方山ばなし』を講演(名古屋~大阪~横浜~新潟~岡山)。

平成二十一年(五十一歳) 『藤間勘萃の古今東西 音げしき』を講演(熊本~名古屋~大阪~金沢~横浜~新潟~岡山~丸亀~秋田)。

平成二十二年(五十二歳) 関西二期会オペラ『アメーリア舞踏会へ行く』にて管弦楽を編曲。

平成二十三年(五十三歳)『秋天の興』(古川美術館開館20周年記念)にて久田舜一郎(大倉流十五世宗家)と共演したり、関西二期会オペラ「コジ・ファン・トゥッテ」の室内楽を編曲したり。

平成二十五年(五十五歳)『孫たちへのバトン』(豊田市、豊田市教育委員会主催)の音楽を手掛け、合唱曲『おじいちゃん、おばあちゃん、ありがとう』を作曲。作詞は竹内正美P。(写真⑧)

 

 江戸のころ、芝居小屋や大道芸と並んで芸の場だった門付け芸(江戸時代のライブ?)を平成の世でやってみました。バッハを弾き唄ったり、踊ったり。(写真⑨、写真⑩)

 

ここで一回おやすみ 柳家喬太郎「文七元結」、古今亭志ん生「おかめ団子」、金原亭馬生「笠碁」、古今亭志ん生「芝浜」…落語が好きで好きで、そりゃもう毎日聴いておるのでございますよ。それが、まさか勘萃も落語をするようになろうとは。大学に務めていた頃は「先生」と呼ばれることの多かった勘萃も、今では「師匠」と呼んで下さる方々が多ございます。この「師匠」というのは、落語の中で「お、師匠っ、そんなに粧し込んで、いったい何処へお出かけかい?」と、道ばたで出くわした旦那衆に冷やかされる幇間(太鼓持ち)になったようで、何とも良い心持ちがするもんです。(写真⑪)

 

平成二十六年(五十六歳)「Toyota ART HALLOWEEN」にて、パーカッション、獅子舞い、パントマイム、コンテンポラリー・ダンス、三味線、拍子木、彫刻作品とのコラボ「松のサンバ叟」を上演。「師匠っ、一生ぶんの芸を見せてもらったよ!」と大喜びする竹内正美Pに、これで少しばかりの恩返し。(写真⑫)

平成二十七年(五十七歳)北海道から沖縄までをお父つぁん、おっ母さん、娘の家族三人(今では婿さまも加わって四人に)で巡業する野外劇団楽市楽座「バード・フラワー」名古屋公演に客演。木でこしらえた池の上でゆっくり回るお盆みたいな舞台に、千代紙に包まれた色とりどりの投げ銭が飛ぶ。芝居、歌い奏でられる音楽、踊り、衣裳、大道具、小道具…すべてを手掛ける楽市楽座に勘萃は恋い焦がれるばかりだよ。(写真⑬、写真⑭)

 

 ほぼ中学生によるブラス楽団「アンサンブル・フレンンズ」を指揮するようになったのもこの年のことで、名古屋市民会館大ホール、名古屋「広小路夏まつり」、「Kids☆HALLOWEEN」なんぞで賑やかしを。何しろ日本舞踊家が「吹けや踊れや!」と扇子でもって指揮をするのだから仕様がないやね。(写真⑮、写真⑯、写真⑰)

 

平成二十八年(五十八歳)伊藤直樹プロデューサーのもと、オペラ歌手、京がたり、ベリーダンサー、ヴィオラ名人に助けられながらデビュー以来の夢だった徹夜の演奏会『夜もすがらバッハ』を上演。(写真⑱、写真⑲、写真⑳、写真㉑、写真㉒)

 

 

平成二十九年(五十九歳)前年の『夜もすがらバッハ』につづく『暮れがたバッハ』にて京がたり「ひぃさま❀藤間勘萃」を上演。ところで、京がたり「ひぃさま❀藤間勘萃」は、生粋の京おんなが紡ぎ語る京都の四季折々に、勘萃が音楽を添えるという芸。朗読と音楽が組合わさることは数あれど、どちらも自作自演という構えは珍しいはず。(写真㉓)

還暦を迎えて振り出しへ戻る

平成三十年( 六十歳)Y♡SE寄席コンseason2 〜3にて京がたり「ひぃさま❀藤間勘萃」を上演したり、関西二期会オペラ「ヘンゼルとグレーテル」の管弦楽編曲をしたり、合唱曲「弥陀観音 大勢至」を作曲したりの年でございました。(写真㉔)

令和元年(六十一歳)「おとほぎ」(あいちオカリナフェスタのテーマ曲)を作曲初演。

令和二年(六十二歳)奇なる疫病が流行り、世間さま共ども一回おやすみ

上がり 皆さまと興じてまいりました勘萃の『芸の道を歩くすごろく』も、どうやら上がりに辿り着いたようでございます…が、いえいえ、人生のすごろくは、まだまだ続くのでございす、あらよっと。

 

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間勘萃

( ふじま かんすい )

1958年に名古屋で生まれる。

 日本舞踊で江戸を踊り(宗家 藤間流名執)、西洋琵琶でバッハを弾き唄い、また、作/編曲家としてオペラから演歌までを手掛ける…そんなふうで、三足の草鞋は満遍なく擦り減っておるのでございます。

 

1980

 中部日本ギター協会『協会賞』

1982

 名古屋音楽大学 音楽学部 作曲学科卒業

1984

 日本ギタリスト会議『最優秀新人賞』

1984~2003・2008

  日本福祉大学講師

2006~2018

  琴修会、ライリッシュ・オカリナ連盟

 音楽顧問