姪の就職2

 秋も深まっているせいかクルマを降りると空気が冷たく感じられる。冬は樹氷、霧氷を見物する金剛山登山客で賑う。冬、タクシーはスリップを怖がってこの辺りまでは来てくれない。夕方六時に銀行を出て、七時過ぎには自宅に着く。食堂で三女の珠美が母親の澤子を手伝って夕食の準備をしている。和服に着替えた片桐は、食卓の椅子に座り夕刊に目を通す。

 社会面を開くとトップ見出しでK信用組合の活字が飛び込んでくる。三億七千万円の大穴という小見出しもついている。

(大阪地検特捜部が中小企業等協同組合法で禁じられている無制限な株の売買を行ったとして、K信用組合の元常務理事の山田淳を同法違反の疑いで逮捕するとともに、同組合事務所、山田の自宅などを捜査した)と報じている。

 片桐は同情の感を禁じ得ない。

(おそらく山田常務も違法とわかりながら、上からの命令でやったのだろう。焦げついた債権の穴埋めで焦っていたのかもしれない。どうしてばれたのだろう。新聞はそのことについてなにも触れていない。内部告発があったのだろうか。そうとすれば誰だろう。それともライバルが陥れたのだろうか。あるいは犯罪の陰に女ありか)

 新聞を閉じながらも、“大穴”という太い活字がいつまでも脳裏に焼き付いていた。

 「お酒、つけますか」

 「うん。熱くしてくれ」

 片桐は昂揚する気持ちを一段と高めようと考えた。そうでもしないと、無謀と思える役目を引き受けてきたと妻の澤子に言えない。失敗すれば地獄に落とすことになる。負け戦さと承知しながら兵庫の湊川で足利兄弟の大軍と戦った楠木正成の心境に近いものがあった。

 楠木正成が後醍醐天皇に忠義を尽くしたように、片桐は藤田万吉をなんとしても守ろうと決意していた。片桐は楠木の正直にバカがつくと思うほどの誠実さに心が打たれ、いつしか楠木を敬愛し信者になっていた。

 鎌倉時代のはじめまで天皇中心の政治が行われていた。鎌倉幕府が天皇に従わない初めての幕府となった。天皇の政治に戻そうとするが、どうにもならない。後醍醐天皇も倒幕を企てるが、初めは失敗する。しかし、新田義貞、足利尊氏、楠木正成らが倒幕に加わり、天皇を中心とした政治、建武の中興となる。倒幕に活躍した者に対する論功行賞が重要な課題となった。

 片桐に言わせると、(楠木が一番多く褒賞をもらえる立場にいた。その財力によって幕府を作ろうと思ったらできたが、何も希望を述べなかった。ところが足利尊氏の方はがばっと獲りその財力で室町幕府を起こした。倒幕が目的だったのに、足利自身が幕府をつくることは断じて許せない。だから足利尊氏を蛇蝎のごとく嫌う)というのである。

 一旦、九州に追いやられた足利は勢力を拡大して京に攻め上ってきた。楠木は後醍醐天皇に対して比叡山に身を隠して、その間に足利軍を京の都に導き入れると、勝利の道があると進言する。天皇から相談を受けた新田義貞、北畠親房は足利軍を京に入れることは天皇の権威にかかわると水際で止めるべきだと述べた。

 楠木は死ぬ覚悟で湊川に赴く。桜井の里で息子の正行に家来のほとんどを連れて帰るように命じ、(足利が幕府を開くだろうが、これだけは耐えられない。その時はこの儂に代わって天皇のために働いてほしい)と託す。

 楠木正成の行動はバカがつくほど正直できれいすぎる。片桐はそうした楠木がたまらなく好きだ。楠木の偉大さは功労の割に恩賞が少なかったが、それに対して文句ひとつ言わなかった点だと片桐は敬意を感じている。自分は楠木の忠義の足元にも及ばないが、藤田万吉に忠義を尽くそうと決心することで勇気を奮い立たせた。

 これまで何回も危うい橋を渡ってきた。ところが、今度は気持ちがたかぶるほどに自滅するような予感が強まってくる。食事をしながらも恐怖感が背筋を走る。冷や汗がじっとりにじむのがわかる。食事のあと、居間に妻の澤子を呼んだ。

 「十一月一日付けで山城相互銀行の社長になる。恐らく家族に迷惑がかかるようなことになるかもしれん。儂としては断わることはできんのだ。しかし、家族までドロをかぶることはない」

 片桐の脳裏に十八年前の悪夢が甦ってくる。家業である林業の会社が倒産した。片桐も連帯保証人の一人であった。銀行の業務部長のときであった。銀行マンがそばについていて倒産するとはどういうことだと、親類の多くが怒りをあらわにした。やがて暴力団、債権者がこの千早赤阪村の屋敷に押し寄せてきた。まさに、幕府の大軍が楠木正成が立てこもる赤阪城へ攻めたように、血相を変えた多くの債権者が片桐の屋敷を取り囲んだ。なんとしても家を守らなければと、債権者より一足早く銀行から帰り着いた。妻と子供を押し入れに隠しいれた。

 真三がそこまで読んだときに、るり子は「お茶の代えをもってきました」と新しい湯のみにお茶を入れて真三の横の籐椅子に腰を下ろした。

―「政府はコロナウイルスの全面解除に踏み切りましたね」

「このままだと、日本の経済がもたないと判断したのだろう」

「確かに失業者も増えていますし、倒産件数も多いですね」

「コロナも経済も両立させるのは難しい問題だね」

「外国でも解除していますね」

「とくに貧しい国では経済が重要だと考えているのか、ほとんど対策を講じないまま解除している国もあるようだ」

「これから第二波、第三波がやってくるようだが、解除でそれが早まるかもしれませんね」

「現に東京の感染者数は増えていますね」

「いつも疑問に思うのだが、どの程度のPCR検査をして感染数を伝えないと、どの程度危険なのかわからない」

「そうですね」

「いまのように治療薬やワクチンがないまま年を越したら、オリンピックはできないだろう」

「そうですね。難しくなりそうですね」

「そうなると、不況風が一段と厳しくなる心配がある」

「どうなるんですか」

「誰にも予想はできないが、市民生活は厳しくなるだろう」

「年金生活者は収入を増やせないですから、切り詰めるしかないんですね」

「七十五歳以上の支給を言い出しているが、要は財政がもたないと言っているようなものだ」

「いずれ崩壊するのでしょうか」

「その時、世の中は様変わりするだろうな」

「就職率も思わしくないようですね」

「企業も先が読めないので、採用を控えているのだ」

「一方、コロナ倒産も増えているようですね」

「失業者が増えてきている。人にとっては就職=生命、だから必死なのだ。失業者が増えると社会不安になる。だから発展途上国をはじめアメリカでもコロナより失業者の増大に不安をおぼえ、経済を回そうとしている。そうなるとコロナ感染者は増え続ける」

「心配ですね」

 真三は残りのお茶を飲みほした後、小説の原稿に戻った。それを見てるり子はお盆に茶碗を載せて台所に引き下がった。

―原稿の続きに目を移した。

「片桐を殺せ!」

「片桐なんか死んでしまえ」

「金目のものはなんでも抑えてしまえ」

 部屋中に怒号が響く。片桐は目を閉じて奥の間に正座して事態の成り行きを見守る。債権者は土足のまま家の中になだれ込んできた。銀行マン風の男が、家財道具に次から次へ差し押さえの用紙を貼る。一見して暴力団員とわかる男が、片桐の目の前に歩み寄ってにらみつける。

(あの時の恐怖が再び襲いかかるかもしれない)

 翌日の朝、ドカーンという轟音で目を覚ました。樹齢三百年の杉の木が次々と切り倒されていく。債権の取り立ては無常である。容赦をしない。倒産とはかくも残酷なものかと、轟音を耳にしながら歯をかみしめた。人間が変わるのである。昨日までニコニコしていた顔が、この日は鬼に変貌している。わずかな借金でも貸した方は必死になる。押し入れの中で妻子は恐怖感に疲れ、折り重なって眠っていた。

 差し押さえモノもすぐには売却できない。売れたとしても格安の値段である。(このままではお互いに損をするだけだ。高く売るので待ってほしい。)と片桐は懸命に説得するが、はじめのうちは支払いを引き延ばす言い逃れだと受け付けない。そのうち、ようやく大口債権者の銀行から理解を示してきた。

 片桐は二度と澤子を恐怖のどん底に陥ることだけはしたくなかった。澤子はじっと片桐の目を見つめている。

「……」

「失敗したら路頭に迷うことになる。この事態から抜け出して成功する確率は一割かせいぜい二割しかない・・・・・・」

 片桐は(いまなら財産分与して妻子を守ることができる)と言おうとしたが止めた。そんなことはしたくない気持ちが沸々と沸いてきたし、もし澤子がついて来ないとなると成功の確率がゼロになるとおそれたからだ。最後の決断を澤子に委ねた。

 背丈一四〇センチで小柄な澤子は理知的な顔と澄んだ瞳を併せ持っていた。和歌山の橋本の医者の娘であった。地元の富田林女子中学校の校長の紹介で見合い結婚した。それも片桐らしい出会いだった。女の子がいるのは女学校が一番だ。そう思いつくや、地元の女学校の門をくぐった。初対面の校長に嫁の世話を頼んだ。

「そうだったのか。うちの学校の生徒では若過ぎる。それより、ちょうど頼まれている女人が居りますのや」

 そう言って人のよい校長は預かっている見合い写真を片桐に見せた。

(まあー、風貌も悪くないようだし、校長の紹介なら確かだろう)と、片桐は自分勝手に写真の女性との結婚を決め込んでいた。

 あれから三十三年間、よく尽くしてくれたと片桐は感謝の念を強くもった。三人の娘を育て、上二人はすでに結婚、三女の珠美は京都の女子大生だった。寮生活を送っていたが、週末には実家に戻っていた。

 男の子が生まれなかったのを悔やんだこともあったが、三人娘に囲まれそれなりに幸せな日々を送っていた。それだけに今回のことは申し訳ない気持ちで、なんとしても澤子を救ってやりたいという気持ちだった。

 片桐は黙って澤子を見つめていた。

 

■岡田 清治プロフィール

1942年生まれ ジャーナリスト

(編集プロダクション・NET108代表)

著書に『高野山開創千二百年 いっぱんさん行状記』『心の遺言』『あなたは社員の全能力を引き出せますか!』『リヨンで見た虹』など多数

※この物語に対する読者の方々のコメント、体験談を左記のFAXかメールでお寄せください。

今回は「就職」「日本のゆくえ」「結婚」「夫婦」「インド」「愛知県」についてです。物語が進行する中で織り込むことを試み、一緒に考えます。

FAX‥0569―34―7971

メール‥takamitsu@akai-shinbunten.net

 

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姪の就職2

  秋も深まっているせいかクルマを降りると空気が冷たく感じられる。冬は樹氷、霧氷を見物する金剛山登山客で賑う。冬、タクシーはスリップを怖がってこの辺りまでは来てくれない。夕方六時に銀行を出て、七時過ぎには自宅に着く。食堂で三女の珠美が母親の澤子を手伝って夕食の準備をしている。和服に着替えた片桐は、食卓の椅子に座り夕刊に目を通す。

 社会面を開くとトップ見出しでK信用組合の活字が飛び込んでくる。三億七千万円の大穴という小見出しもついている。

(大阪地検特捜部が中小企業等協同組合法で禁じられている無制限な株の売買を行ったとして、K信用組合の元常務理事の山田淳を同法違反の疑いで逮捕するとともに、同組合事務所、山田の自宅などを捜査した)と報じている。

 片桐は同情の感を禁じ得ない。

(おそらく山田常務も違法とわかりながら、上からの命令でやったのだろう。焦げついた債権の穴埋めで焦っていたのかもしれない。どうしてばれたのだろう。新聞はそのことについてなにも触れていない。内部告発があったのだろうか。そうとすれば誰だろう。それともライバルが陥れたのだろうか。あるいは犯罪の陰に女ありか)

 新聞を閉じながらも、“大穴”という太い活字がいつまでも脳裏に焼き付いていた。

 「お酒、つけますか」

 「うん。熱くしてくれ」

 片桐は昂揚する気持ちを一段と高めようと考えた。そうでもしないと、無謀と思える役目を引き受けてきたと妻の澤子に言えない。失敗すれば地獄に落とすことになる。負け戦さと承知しながら兵庫の湊川で足利兄弟の大軍と戦った楠木正成の心境に近いものがあった。

 楠木正成が後醍醐天皇に忠義を尽くしたように、片桐は藤田万吉をなんとしても守ろうと決意していた。片桐は楠木の正直にバカがつくと思うほどの誠実さに心が打たれ、いつしか楠木を敬愛し信者になっていた。

 鎌倉時代のはじめまで天皇中心の政治が行われていた。鎌倉幕府が天皇に従わない初めての幕府となった。天皇の政治に戻そうとするが、どうにもならない。後醍醐天皇も倒幕を企てるが、初めは失敗する。しかし、新田義貞、足利尊氏、楠木正成らが倒幕に加わり、天皇を中心とした政治、建武の中興となる。倒幕に活躍した者に対する論功行賞が重要な課題となった。

 片桐に言わせると、(楠木が一番多く褒賞をもらえる立場にいた。その財力によって幕府を作ろうと思ったらできたが、何も希望を述べなかった。ところが足利尊氏の方はがばっと獲りその財力で室町幕府を起こした。倒幕が目的だったのに、足利自身が幕府をつくることは断じて許せない。だから足利尊氏を蛇蝎のごとく嫌う)というのである。

 一旦、九州に追いやられた足利は勢力を拡大して京に攻め上ってきた。楠木は後醍醐天皇に対して比叡山に身を隠して、その間に足利軍を京の都に導き入れると、勝利の道があると進言する。天皇から相談を受けた新田義貞、北畠親房は足利軍を京に入れることは天皇の権威にかかわると水際で止めるべきだと述べた。

 楠木は死ぬ覚悟で湊川に赴く。桜井の里で息子の正行に家来のほとんどを連れて帰るように命じ、(足利が幕府を開くだろうが、これだけは耐えられない。その時はこの儂に代わって天皇のために働いてほしい)と託す。

 楠木正成の行動はバカがつくほど正直できれいすぎる。片桐はそうした楠木がたまらなく好きだ。楠木の偉大さは功労の割に恩賞が少なかったが、それに対して文句ひとつ言わなかった点だと片桐は敬意を感じている。自分は楠木の忠義の足元にも及ばないが、藤田万吉に忠義を尽くそうと決心することで勇気を奮い立たせた。

 これまで何回も危うい橋を渡ってきた。ところが、今度は気持ちがたかぶるほどに自滅するような予感が強まってくる。食事をしながらも恐怖感が背筋を走る。冷や汗がじっとりにじむのがわかる。食事のあと、居間に妻の澤子を呼んだ。

 「十一月一日付けで山城相互銀行の社長になる。恐らく家族に迷惑がかかるようなことになるかもしれん。儂としては断わることはできんのだ。しかし、家族までドロをかぶることはない」

 片桐の脳裏に十八年前の悪夢が甦ってくる。家業である林業の会社が倒産した。片桐も連帯保証人の一人であった。銀行の業務部長のときであった。銀行マンがそばについていて倒産するとはどういうことだと、親類の多くが怒りをあらわにした。やがて暴力団、債権者がこの千早赤阪村の屋敷に押し寄せてきた。まさに、幕府の大軍が楠木正成が立てこもる赤阪城へ攻めたように、血相を変えた多くの債権者が片桐の屋敷を取り囲んだ。なんとしても家を守らなければと、債権者より一足早く銀行から帰り着いた。妻と子供を押し入れに隠しいれた。

 真三がそこまで読んだときに、るり子は「お茶の代えをもってきました」と新しい湯のみにお茶を入れて真三の横の籐椅子に腰を下ろした。

―「政府はコロナウイルスの全面解除に踏み切りましたね」

「このままだと、日本の経済がもたないと判断したのだろう」

「確かに失業者も増えていますし、倒産件数も多いですね」

「コロナも経済も両立させるのは難しい問題だね」

「外国でも解除していますね」

「とくに貧しい国では経済が重要だと考えているのか、ほとんど対策を講じないまま解除している国もあるようだ」

「これから第二波、第三波がやってくるようだが、解除でそれが早まるかもしれませんね」

「現に東京の感染者数は増えていますね」

「いつも疑問に思うのだが、どの程度のPCR検査をして感染数を伝えないと、どの程度危険なのかわからない」

「そうですね」

「いまのように治療薬やワクチンがないまま年を越したら、オリンピックはできないだろう」

「そうですね。難しくなりそうですね」

「そうなると、不況風が一段と厳しくなる心配がある」

「どうなるんですか」

「誰にも予想はできないが、市民生活は厳しくなるだろう」

「年金生活者は収入を増やせないですから、切り詰めるしかないんですね」

「七十五歳以上の支給を言い出しているが、要は財政がもたないと言っているようなものだ」

「いずれ崩壊するのでしょうか」

「その時、世の中は様変わりするだろうな」

「就職率も思わしくないようですね」

「企業も先が読めないので、採用を控えているのだ」

「一方、コロナ倒産も増えているようですね」

「失業者が増えてきている。人にとっては就職=生命、だから必死なのだ。失業者が増えると社会不安になる。だから発展途上国をはじめアメリカでもコロナより失業者の増大に不安をおぼえ、経済を回そうとしている。そうなるとコロナ感染者は増え続ける」

「心配ですね」

 真三は残りのお茶を飲みほした後、小説の原稿に戻った。それを見てるり子はお盆に茶碗を載せて台所に引き下がった。

―原稿の続きに目を移した。

「片桐を殺せ!」

「片桐なんか死んでしまえ」

「金目のものはなんでも抑えてしまえ」

 部屋中に怒号が響く。片桐は目を閉じて奥の間に正座して事態の成り行きを見守る。債権者は土足のまま家の中になだれ込んできた。銀行マン風の男が、家財道具に次から次へ差し押さえの用紙を貼る。一見して暴力団員とわかる男が、片桐の目の前に歩み寄ってにらみつける。

(あの時の恐怖が再び襲いかかるかもしれない)

 翌日の朝、ドカーンという轟音で目を覚ました。樹齢三百年の杉の木が次々と切り倒されていく。債権の取り立ては無常である。容赦をしない。倒産とはかくも残酷なものかと、轟音を耳にしながら歯をかみしめた。人間が変わるのである。昨日までニコニコしていた顔が、この日は鬼に変貌している。わずかな借金でも貸した方は必死になる。押し入れの中で妻子は恐怖感に疲れ、折り重なって眠っていた。

 差し押さえモノもすぐには売却できない。売れたとしても格安の値段である。(このままではお互いに損をするだけだ。高く売るので待ってほしい。)と片桐は懸命に説得するが、はじめのうちは支払いを引き延ばす言い逃れだと受け付けない。そのうち、ようやく大口債権者の銀行から理解を示してきた。

 片桐は二度と澤子を恐怖のどん底に陥ることだけはしたくなかった。澤子はじっと片桐の目を見つめている。

「……」

「失敗したら路頭に迷うことになる。この事態から抜け出して成功する確率は一割かせいぜい二割しかない・・・・・・」

 片桐は(いまなら財産分与して妻子を守ることができる)と言おうとしたが止めた。そんなことはしたくない気持ちが沸々と沸いてきたし、もし澤子がついて来ないとなると成功の確率がゼロになるとおそれたからだ。最後の決断を澤子に委ねた。

 背丈一四〇センチで小柄な澤子は理知的な顔と澄んだ瞳を併せ持っていた。和歌山の橋本の医者の娘であった。地元の富田林女子中学校の校長の紹介で見合い結婚した。それも片桐らしい出会いだった。女の子がいるのは女学校が一番だ。そう思いつくや、地元の女学校の門をくぐった。初対面の校長に嫁の世話を頼んだ。

「そうだったのか。うちの学校の生徒では若過ぎる。それより、ちょうど頼まれている女人が居りますのや」

 そう言って人のよい校長は預かっている見合い写真を片桐に見せた。

(まあー、風貌も悪くないようだし、校長の紹介なら確かだろう)と、片桐は自分勝手に写真の女性との結婚を決め込んでいた。

 あれから三十三年間、よく尽くしてくれたと片桐は感謝の念を強くもった。三人の娘を育て、上二人はすでに結婚、三女の珠美は京都の女子大生だった。寮生活を送っていたが、週末には実家に戻っていた。

 男の子が生まれなかったのを悔やんだこともあったが、三人娘に囲まれそれなりに幸せな日々を送っていた。それだけに今回のことは申し訳ない気持ちで、なんとしても澤子を救ってやりたいという気持ちだった。

 片桐は黙って澤子を見つめていた。