■杉本武之プロフィール

1939年 碧南市に生まれる。

京都大学文学部卒業。

翻訳業を経て、小学校教師になるために愛知教育大学に入学。

25年間、西尾市の小中学校に勤務。

定年退職後、名古屋大学教育学部の大学院で学ぶ。

〈趣味〉読書と競馬

 

【47】日本映画(その8)

◎『不良少年』

 昭和36年(1961)は、私にとって大きな変動の年でした。

 その年の秋から、3年生の私は大学の授業を受けなくなったのです。授業に対する興味が急に無くなり、私は下宿に籠もって好きな本を読むことに専念するようになりました。

 何が原因だったのか今もってよく分かりませんが、とにかくフランス文学中心の授業を受ける気が無くなり、それから3年間、私は下宿で本ばかり読むようになりました。

 あれほどよく観ていた映画もあまり観なくなりました。

 その年、黒澤明は『用心棒』を作りました。小津安二郎は『小早川家の秋』を作りました。さすがにこの2本の映画は観に行きました。しかし、今井正の『あれが港の灯だ』も、木下惠介の『永遠の人』も観に行きませんでした。

 その年に観た数少ない日本映画の中で、羽仁進の『不良少年』と松山善三の『名もなく貧しく美しく』の2本が今なお強く印象に残っています。

 『不良少年』は、内容的にも技法的にも極めて衝撃的な映画でした。

 周知のように、この映画を監督した羽仁進の父親は有名な社会思想家の羽仁五郎であり、祖母は大正時代に「自由学園」を創立した高名な教育家の羽仁もと子でした。

 この映画は、特別少年院に入れられた非行少年たちの生態を、オール・ロケ、オール素人俳優によってドキュメンタリー・タッチで生き生きと描いています。

 羽仁進は、神奈川県横須賀市の久里浜少年院が編集した手記『飛べない翼』を基にしてシナリオを書きました。そして、実際に不良少年だった経験のある若者たちを集めて配役を決めました。しかし、彼らは「俺なら、そういう時にはこうしただろう、こう言っただろう」と口答えしました。そこで、彼らの経験を取り入れシナリオを直し、セリフなどを彼らに作らせました。その結果、これまで俳優が演じた不良少年ものの映画とはまるで違った実感のこもった映画になりました。出演者が全員、水を得た魚のようでした。

 主人公は身寄りのない不良少年の浅井です。

 

―銀座の繁華街を護送車が走っている。逮捕された浅井少年が乗っている。少年鑑別所で判定され、久里浜の少年院へ送られることになる。

 海に近い岬の上にある少年院。初めは洗濯班に入れられる。班長がタチの悪い奴だった。癪に障った浅井少年は班長に喧嘩を売った。教官会議の結果、浅井は木工班へ編入されることになった。今度の班長はなかなか良い奴であった。浅井は、この班でやっと気持ちが落ち着いてきた。

 このようにして1年が経って、浅井少年は少年院を出る日を迎えた。1年間、作業所で働いて貯めた賃金を受け取る。320円だった。浅井少年はそれだけの金をポケットに入れて、少年院の門を出て行く。映画は孤独な彼の後ろ姿を写して終わる。

◎『名もなく貧しく美しく』

 この心に染み入る名作を作った松山善三について、私は殆ど何も知りません。大女優の高峰秀子の夫だったこと、昭和36年に『名もなく貧しく美しく』という映画を監督したこと、この二つのことを知っているだけです。他にどんな映画の脚本を書いたのか、どんな映画を監督していたのか、そういうことは何一つとして知りません。調べれば分かることですが、私にはそれ以上のことを知りたいという気持ちはありません。

 これほど美しくも哀しい映画は滅多にないと思います。稲垣浩の『無法松の一生』、木下惠介の『野菊の如き君なりき』、市川崑の『おとうと』、山田洋次の『幸福の黄色いハンカチ』などと比べても、何ら遜色がありません。

 松山善三は、終戦後の混乱期に東京の有楽町で靴みがきをしていた聾唖者同士の夫婦の実話を基にして、感動的な映画を作り上げたのでした。

 これは、耳が聴こえない夫婦の物語です。手と手、指と指を組み合わせたり、目の動きや顔の表情や体全体の動作によって、自分の考えや細やかな感情を通じ合わせている二人の姿を観て、私たちの心は強く揺さぶられます。人間とはこんなにも愛情深くなり得るものかと感動してしまうのです。

 松山善三は、この作品だけで日本映画史に不滅の足跡を遺しました。夫婦を演じた小林桂樹と高峰秀子の演技も全く優れていました。また林光の音楽も最高でした。

 次のような美しくも哀しい物語です。

 

―お寺の住職の息子の嫁・秋子(高峰秀子)は聾唖者であった。戦争末期の6月。秋子は、空襲で母と死に別れた男の子を拾い上げた。自分の子のように大切に養育していた。しかし、終戦後、夫と買い出しに出掛けている間に、その子は孤児収容所に入れられてしまった。その日、夫が発疹チフスで死んだ。すぐに離縁させられ、秋子は実家に戻った。母・たま(原泉)は優しく接したが、姉の信子(草笛光子)も弟の弘一(沼田曜一)も冷たく当たった。気持ちの優しい秋子は苦しい思いをして生きていた。

 聾唖学校の同窓会に出席した秋子は、受付をしていた片山道夫(小林桂樹)と出会う。

 道夫の強い希望で、二人は交際を続け、やがて結婚する。そして、赤ちゃんが生まれた。しかし、少し大きくなった赤ん坊は、二人が寝ている間に蒲団から起き出して土間に転落して死んでしまう。二人にはその物音が聴こえなかったのだ。

 不良仲間と付き合っていた弟が家を売り飛ばしたため、住むところが無くなった母が、秋子たちの家に転がり込んで来た。道夫は義母を温かく迎え入れた。やがて、二人に男の子が生まれた。一郎と名付けられたその子は健康優良児の審査会で3等賞を獲得した。二人の喜びは大きかった。しかし、成長するにつれて、一郎は障害者の両親を疎んじるようになっていった。秋子は子供をどう育てたらいいのか分からず、担任の教師と相談したが、適切な答えを言ってもらえなかった。秋子は絶望した。そんな時に、刑務所から出てきた弟が、内職のための秋子の大切なミシンを売り飛ばした。道夫の給料も横取りした。

 秋子は絶望のあまり、狂人のようになって家を飛び出した。置き手紙を読んで、道夫は追いかけて来た。前後の車両に乗り込んだ二人は、電車のガラス窓越しに手話で話し合った。秋子は夫の真心に打たれ、もう一度生きて行こうと決意する。

 ある日、空襲の時に拾って

一時育ててやった戦災孤児のアキラ(加山雄三)が、立派な自衛隊員の制服を着て訪ねて来た。それを知らされた秋子は、嬉しさのあまり車の行き交う大通りへ飛び出した。走って来たトラックに撥ねられて、秋子は死んだ。トラックのクラクションの音が聴こえなかったのだ。

 後に遺された夫の道夫と息子の一郎は、秋子の慈愛の深さを胸に畳み込んで、さらに強く生きて行こうと心に誓うのだった。

 

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【47】日本映画(その8)

◎『不良少年』

 昭和36年(1961)は、私にとって大きな変動の年でした。

 その年の秋から、3年生の私は大学の授業を受けなくなったのです。授業に対する興味が急に無くなり、私は下宿に籠もって好きな本を読むことに専念するようになりました。

 何が原因だったのか今もってよく分かりませんが、とにかくフランス文学中心の授業を受ける気が無くなり、それから3年間、私は下宿で本ばかり読むようになりました。

 あれほどよく観ていた映画もあまり観なくなりました。

 その年、黒澤明は『用心棒』を作りました。小津安二郎は『小早川家の秋』を作りました。さすがにこの2本の映画は観に行きました。しかし、今井正の『あれが港の灯だ』も、木下惠介の『永遠の人』も観に行きませんでした。

 その年に観た数少ない日本映画の中で、羽仁進の『不良少年』と松山善三の『名もなく貧しく美しく』の2本が今なお強く印象に残っています。

 『不良少年』は、内容的にも技法的にも極めて衝撃的な映画でした。

 周知のように、この映画を監督した羽仁進の父親は有名な社会思想家の羽仁五郎であり、祖母は大正時代に「自由学園」を創立した高名な教育家の羽仁もと子でした。

 この映画は、特別少年院に入れられた非行少年たちの生態を、オール・ロケ、オール素人俳優によってドキュメンタリー・タッチで生き生きと描いています。

 羽仁進は、神奈川県横須賀市の久里浜少年院が編集した手記『飛べない翼』を基にしてシナリオを書きました。そして、実際に不良少年だった経験のある若者たちを集めて配役を決めました。しかし、彼らは「俺なら、そういう時にはこうしただろう、こう言っただろう」と口答えしました。そこで、彼らの経験を取り入れシナリオを直し、セリフなどを彼らに作らせました。その結果、これまで俳優が演じた不良少年ものの映画とはまるで違った実感のこもった映画になりました。出演者が全員、水を得た魚のようでした。

 主人公は身寄りのない不良少年の浅井です。

 

―銀座の繁華街を護送車が走っている。逮捕された浅井少年が乗っている。少年鑑別所で判定され、久里浜の少年院へ送られることになる。

 海に近い岬の上にある少年院。初めは洗濯班に入れられる。班長がタチの悪い奴だった。癪に障った浅井少年は班長に喧嘩を売った。教官会議の結果、浅井は木工班へ編入されることになった。今度の班長はなかなか良い奴であった。浅井は、この班でやっと気持ちが落ち着いてきた。

 このようにして1年が経って、浅井少年は少年院を出る日を迎えた。1年間、作業所で働いて貯めた賃金を受け取る。320円だった。浅井少年はそれだけの金をポケットに入れて、少年院の門を出て行く。映画は孤独な彼の後ろ姿を写して終わる。

 

 

◎『名もなく貧しく美しく』

 この心に染み入る名作を作った松山善三について、私は殆ど何も知りません。大女優の高峰秀子の夫だったこと、昭和36年に『名もなく貧しく美しく』という映画を監督したこと、この二つのことを知っているだけです。他にどんな映画の脚本を書いたのか、どんな映画を監督していたのか、そういうことは何一つとして知りません。調べれば分かることですが、私にはそれ以上のことを知りたいという気持ちはありません。

 これほど美しくも哀しい映画は滅多にないと思います。稲垣浩の『無法松の一生』、木下惠介の『野菊の如き君なりき』、市川崑の『おとうと』、山田洋次の『幸福の黄色いハンカチ』などと比べても、何ら遜色がありません。

 松山善三は、終戦後の混乱期に東京の有楽町で靴みがきをしていた聾唖者同士の夫婦の実話を基にして、感動的な映画を作り上げたのでした。

 これは、耳が聴こえない夫婦の物語です。手と手、指と指を組み合わせたり、目の動きや顔の表情や体全体の動作によって、自分の考えや細やかな感情を通じ合わせている二人の姿を観て、私たちの心は強く揺さぶられます。人間とはこんなにも愛情深くなり得るものかと感動してしまうのです。

 松山善三は、この作品だけで日本映画史に不滅の足跡を遺しました。夫婦を演じた小林桂樹と高峰秀子の演技も全く優れていました。また林光の音楽も最高でした。

 次のような美しくも哀しい物語です。

 

―お寺の住職の息子の嫁・秋子(高峰秀子)は聾唖者であった。戦争末期の6月。秋子は、空襲で母と死に別れた男の子を拾い上げた。自分の子のように大切に養育していた。しかし、終戦後、夫と買い出しに出掛けている間に、その子は孤児収容所に入れられてしまった。その日、夫が発疹チフスで死んだ。すぐに離縁させられ、秋子は実家に戻った。母・たま(原泉)は優しく接したが、姉の信子(草笛光子)も弟の弘一(沼田曜一)も冷たく当たった。気持ちの優しい秋子は苦しい思いをして生きていた。

 聾唖学校の同窓会に出席した秋子は、受付をしていた片山道夫(小林桂樹)と出会う。

 道夫の強い希望で、二人は交際を続け、やがて結婚する。そして、赤ちゃんが生まれた。しかし、少し大きくなった赤ん坊は、二人が寝ている間に蒲団から起き出して土間に転落して死んでしまう。二人にはその物音が聴こえなかったのだ。

 不良仲間と付き合っていた弟が家を売り飛ばしたため、住むところが無くなった母が、秋子たちの家に転がり込んで来た。道夫は義母を温かく迎え入れた。やがて、二人に男の子が生まれた。一郎と名付けられたその子は健康優良児の審査会で3等賞を獲得した。二人の喜びは大きかった。しかし、成長するにつれて、一郎は障害者の両親を疎んじるようになっていった。秋子は子供をどう育てたらいいのか分からず、担任の教師と相談したが、適切な答えを言ってもらえなかった。秋子は絶望した。そんな時に、刑務所から出てきた弟が、内職のための秋子の大切なミシンを売り飛ばした。道夫の給料も横取りした。

 秋子は絶望のあまり、狂人のようになって家を飛び出した。置き手紙を読んで、道夫は追いかけて来た。前後の車両に乗り込んだ二人は、電車のガラス窓越しに手話で話し合った。秋子は夫の真心に打たれ、もう一度生きて行こうと決意する。

 ある日、空襲の時に拾って

一時育ててやった戦災孤児のアキラ(加山雄三)が、立派な自衛隊員の制服を着て訪ねて来た。それを知らされた秋子は、嬉しさのあまり車の行き交う大通りへ飛び出した。走って来たトラックに撥ねられて、秋子は死んだ。トラックのクラクションの音が聴こえなかったのだ。

 後に遺された夫の道夫と息子の一郎は、秋子の慈愛の深さを胸に畳み込んで、さらに強く生きて行こうと心に誓うのだった。