「袋地をつくらない」「減歩方式でやろう」は、みんなで幸せになるための画期的な提案です。道のない袋地にされたらその土地は死んでしまいます。土地改良費を減歩によってまかなえば、借金をせずにすみます。みんなが幸せになれます。

 知多の農地には、多く「土地改良」という碑が残されています。それらの碑より、農民たちのやり遂げたという誇らしさが読み取れます。

 しかし、愛知用水運動はこうした日の当たる部分を生み出しただけではありません。日陰の部分をもつくり出しました。牧尾ダム建設で水没した王滝村の人々、愛知用水建設で犠牲になった人々です。どう弔い謝罪したらいいか。王滝村の人々と友情の交流関係を築き、犠牲となった人々には柴山青風作の陶器の観音像を贈り、佐布里池に愛知用水神社をつくり、弔いと謝罪をしました。そして同時に、この愛知用水をもっと良いものにしていきますと誓うのでした。愛知用水の施設を訪れると、「水とともに文化を育む"愛知用水"」の看板をよく見ます。この看板にはこの精神が込められているのです。文化を起し平和国家をつくる努力をしていきます、どうぞお許し下さいという意味です。みんなで幸せになる道は平和であることが第一です。

 この償いの気持ちから不老会運動が創造されました。たまたま名大医学部の勝沼精歳先生から解剖用遺体の不足を聞き、それならこの身を解剖用遺体として捧げようと自ら立候補し、浜島ら同志と相談して、献体運動として不老会を立ち上げたのでした。医学の発展は平和に役立つとの思いからです。

 

 以上久野の生涯を見てきましたが、彼の運動の原点が「みんなで幸せになろう」です。私はこの思想こそ哲学と思い、彼を大哲学者というのです。

 哲学者カントも仏教も、久野のことをこう評すると思います。哲学者とは、みんなの幸せのために働いた人のことをいうのですから。哲学とは、「みんなで幸せになろう」という共存の心を深めていく学問です。

 少しむずかしくなりますが、カントと仏教の言でもってこれを説明します。

 カントの哲学思想:汝の意志の格率がいついかなる時でも普遍的立法の原理に合致するように行為せよ。

 自分の幸せをみんなが幸せになる方向で考えるようにしよう。人間には利己主義に陥る傾向性(Neigung)があるが、利己主義に生きたら、社会は格差と貧困、掠奪の場になってしまう。これを克服して共存の心で生きるようにしよう!

※カントは共存の心を社会に実現していくのが哲学の課題と言っています。

仏教の哲学思想:煩悩は生きる力。だから大切。しかし煩悩丸出しで生きたら、社会は自己中心の社会になってしまう。争いの地獄の社会に。慈悲の心(共存の心)で助け合って生き、この社会を極楽の社会にしよう!

※ 仏教も、世の中の一切皆苦の地獄社会は共存の心がなくなった時に生じると言っています。カントと同じことを言っていることがよく分かります。

 

 以上で、久野庄太郎の人生が大哲学者としての人生であったことは了解していただけたと思います。そしてこの哲学がどれほど人間生活を善くしていく学問であるかも。

Copyright©2003-2017 Akai Newspaper dealer

プライバシーポリシー

あかい新聞店・常滑店

新聞■折込広告取扱■求人情報■ちたろまん■中部国際空港配送業務

電話:0569-35-2861

 

あかい新聞店・武豊店

電話:0569-72-0356

あかい新聞店・常滑店

新聞■折込広告取扱■求人情報■ちたろまん■中部国際空港配送業務

電話:0569-35-2861

あかい新聞店・武豊店

電話:0569-72-0356

 

Copyright©2003-2017 Akai Newspaper dealer

プライバシーポリシー

 「袋地をつくらない」「減歩方式でやろう」は、みんなで幸せになるための画期的な提案です。道のない袋地にされたらその土地は死んでしまいます。土地改良費を減歩によってまかなえば、借金をせずにすみます。みんなが幸せになれます。

 知多の農地には、多く「土地改良」という碑が残されています。それらの碑より、農民たちのやり遂げたという誇らしさが読み取れます。

 しかし、愛知用水運動はこうした日の当たる部分を生み出しただけではありません。日陰の部分をもつくり出しました。牧尾ダム建設で水没した王滝村の人々、愛知用水建設で犠牲になった人々です。どう弔い謝罪したらいいか。王滝村の人々と友情の交流関係を築き、犠牲となった人々には柴山青風作の陶器の観音像を贈り、佐布里池に愛知用水神社をつくり、弔いと謝罪をしました。そして同時に、この愛知用水をもっと良いものにしていきますと誓うのでした。愛知用水の施設を訪れると、「水とともに文化を育む"愛知用水"」の看板をよく見ます。この看板にはこの精神が込められているのです。文化を起し平和国家をつくる努力をしていきます、どうぞお許し下さいという意味です。みんなで幸せになる道は平和であることが第一です。

 この償いの気持ちから不老会運動が創造されました。たまたま名大医学部の勝沼精歳先生から解剖用遺体の不足を聞き、それならこの身を解剖用遺体として捧げようと自ら立候補し、浜島ら同志と相談して、献体運動として不老会を立ち上げたのでした。医学の発展は平和に役立つとの思いからです。

 

 以上久野の生涯を見てきましたが、彼の運動の原点が「みんなで幸せになろう」です。私はこの思想こそ哲学と思い、彼を大哲学者というのです。

 哲学者カントも仏教も、久野のことをこう評すると思います。哲学者とは、みんなの幸せのために働いた人のことをいうのですから。哲学とは、「みんなで幸せになろう」という共存の心を深めていく学問です。

 少しむずかしくなりますが、カントと仏教の言でもってこれを説明します。

 カントの哲学思想:汝の意志の格率がいついかなる時でも普遍的立法の原理に合致するように行為せよ。

自分の幸せをみんなが幸せになる方向で考えるようにしよう。人間には利己主義に陥る傾向性(Neigung)があるが、利己主義に生きたら、社会は格差と貧困、掠奪の場になってしまう。これを克服して共存の心で生きるようにしよう!

※カントは共存の心を社会に実現していくのが哲学の課題と言っています。

仏教の哲学思想:煩悩は生きる力。だから大切。しかし煩悩丸出しで生きたら、社会は自己中心の社会になってしまう。争いの地獄の社会に。慈悲の心(共存の心)で助け合って生き、この社会を極楽の社会にしよう!

※ 仏教も、世の中の一切皆苦の地獄社会は共存の心がなくなった時に生じると言っています。カントと同じことを言っていることがよく分かります。

 

 以上で、久野庄太郎の人生が大哲学者としての人生であったことは了解していただけたと思います。そしてこの哲学がどれほど人間生活を善くしていく学問であるかも。