■杉本武之プロフィール

1939年 碧南市に生まれる。

京都大学文学部卒業。

翻訳業を経て、小学校教師になるために愛知教育大学に入学。

25年間、西尾市の小中学校に勤務。

定年退職後、名古屋大学教育学部の大学院で学ぶ。

〈趣味〉読書と競馬

 

【42】日本映画(その3)

◎山中貞雄『丹下左膳余話・百万両の壺』

 『丹下左膳余話・百万両の壷』は片眼片腕の怪剣土・丹下左膳が主人公です。しかし、この映画の丹下左膳は大活躍しません。いざとなれば強いのでしょうが、とても近寄りがたい剣豪には見えません。いつも、雇われている矢場の女主人にやり込められています。

 これほど愉快な映画は滅多にありません。黒澤明の時代劇、例えば『用心棒』や『椿三十郎』などの手に汗握る痛快さとは異なり、ついクスクス笑い出してしまう可笑さに満ち溢れた楽しい映画です。 とにかく愉快です。心地よいのです。ほんわかとした気分になります。真夏の猛暑でもなく、真冬の極寒でもない、春風駘蕩の世界です。あらゆるものが、絶対的な厳しさでなく、相対的な緩やかさで把握され、とげとげしさとは無縁な、のんびりとした風景が展開します。凡庸な監督では到底生み出すことのできない素敵な時代劇です。

 この比類のない傑作を作り出したのは、昭和13年(1938)9月17日、29歳の若さで日中戦争の戦場で病死した山中貞雄です。日中戦争、続く太平洋戦争で、多くの若者が無残に殺されました。無数の無名人に混じって、映画監督の山中貞雄やプロ野球の不滅の名投手・沢村栄治といった有名人も死にました。残念無念で仕方がありません。

 山中貞雄のことを知らない人が多いと思います。簡単に紹介します。

―1909年、京都市に生まれる。1927年に京都市立第一商業学校を卒業すると、同じ学校の上級生だったマキノ雅弘に頼んでマキノ映画に入社した。翌年、時代劇スターの嵐寛寿郎が独立プロダクションを興すと、脚本家・助監督として参加し、まず脚本家として認められた。1932年に処女作『磯の源太・抱寝の長脇差』を発表した。映画評論家の岸松雄が絶賛したことで、山中貞雄は一躍脚光を浴びた。その後、『小判しぐれ』『盤嶽の一生』『鼠小僧次郎吉』『国定忠治』『丹下左膳余話・百万両の壺』『街の入墨者』『河内山宗俊』『森の石松』『人情紙風船』などを作った。彼の作ったものは全て時代劇で、娯楽性に富んだ商業映画であったが、単なる娯楽映画の枠を越え、見事な映画的技巧によって芸術的にも高い水準に達していた。1937年、遺作『人情紙風船』を作った後、軍隊に召集され、日中戦争の前線に一兵士として送り出され、1938年9月に中国の戦場(開封)で病死した。29歳だった。なお、現在、フィルムが残っているのは『丹下左膳余話・百万両の壺』『河内山宗俊』『人情紙風船』の3本だけ。

 林不忘の原作が大きく変えられ、映画は次のような物語になりました。原作者側から文句が出たので、原作とは別物だという意味で、題名に「丹下左膳余話」が入りました。

―柳生源三郎(沢村国太郎)は、江戸の大きな道場に婿養子に入った時に、藩主の兄から餞別に汚い壷を贈られた。妻の萩乃(花井蘭子)はその壺を屑屋に売り飛ばした。しかし、それは百万両の隠し場所の地図が塗り込められた壷だった。壺の秘密を知った源三郎は、「壺を探しに行く」と言っては、矢場に直行して、そこで働く若くて可愛い女と楽しく遊んでいる。矢場の女主人は三味線の名手・お藤(喜代三)。そこの用心棒が丹下左膳(大河内伝次郎)である。安吉という孤児も同居している。父が矢場で遊んで帰る途中に悪者に殺されたので、お藤が引き取ったのである。安吉は屑屋から貰った汚い壺の中で金魚を飼っている。紆余曲折を経て、百万両の壺は源三郎の手に戻るが、彼は壺を妻に渡すともう遊びに出られなくなるのを恐れて、その壷を矢場に置いて貰うことにする。

 山中貞雄より1つ年下の黒澤明は、山中についてこう語っています。

 「山中さんは、助監督の頃、本当におとなしくて、何かボーッとしていたようだけど、監督になったら、急に雄弁になってさ、すごい才能なんだヨ。本当に早く亡くなっちゃって、日本映画の大きな損失だね」

◎清水宏『小原庄助さん』

 今ではすっかり忘れ去られていますが、昭和10年代、小津安二郎や山中貞雄や溝口健二などと同列に評価されていた一人の映画監督がいました。清水宏です。私と同年代の人の中には、彼の戦後の作品である『蜂の巣の子供達』(昭和23年)や『しいのみ学園』(昭和30年)を覚えている人がいるかも知れません。

 彼は桁外れな、全くユニークな映画監督でした。彼の略歴は次のようです。

 ―1903年3月、静岡県天竜川沿いの山村に生まれる。北海道大学を中退して、松竹蒲田撮影所に入って助監督になる。1924年に監督になり、時代劇でも喜劇でもメロドラマでも何でも撮って職人的な腕前を認められた。1936年の『有りがとうさん』が一つの転機になる。オールロケによるこの作品は、映画的感覚の新鮮さにおいて画期的であった。以後、彼は即興的、実写的、風物詩的な作風に天才を発揮した。スター俳優を否定して、風景の中に子どもたちの動きだけで類い稀な詩情を表現する児童映画の名作を数多く作った。戦後、映画界のこせこせした生活が嫌になり、悠々自適の生活をしていた。子どもの好きな彼は、街の浮浪児たちを引き取って、自分で面倒を見ていた。そして、その子どもたちを全員出演させて『蜂の巣の子供達』を作った。好評であった。1966年6月、この大きな子どものような映画監督は京都で亡くなった。63歳であった。

 私の観た清水宏の映画は『有りがとうさん』『蜂の巣の子供達』『小原庄助さん』『しいのみ学園』の4本だけです。しかし、その中の『小原庄助さん』が抜群に面白かったのです。この1本で、清水宏は、私には忘れ難い映画監督になりました。

 この映画は昭和24年(1949)に作られました。10歳だった私は封切りの時に観ていません。今から5年ほど前にDVD を買って観ました。びっくりしました。無為自然の人生観を持った主人公(没落した元地主)が、実にゆったりと生活しているのです。映画は、この人の良い主人公の日常生活をユーモラスに淡々と描いていきます。彼はどこへ行くにも、のんびりとロバに乗っているのです。そして、酒が大好きなのです。

 こんなお話です。―村一番の地主だった杉本左平太(大河内伝次郎)は、本名より、あだ名の小原庄助さんの方でよく知られている。朝から風呂に入り、風呂から出ると酒を飲む。村の青年たちが彼の寄付で買った野球チームのユニフォームを持って礼にやって来る。村の婦人たちにミシンを買ってやり、自宅をその稽古場として提供する。とうとう彼は破産する。家財道具が競売される。妻のおのぶ(風見章子)は、彼女の兄の説得で実家に帰ってしまう。その晩、二人の泥棒が入るが、彼は柔道の技で豪快に投げ飛ばす。降参した泥棒たちと一緒に酒を飲み、「忍び込んでくる時期が悪かったね」と泥棒たちを慰める。翌朝、トランクひとつを持って駅に向かう。戻って来た奥さんが、申し訳なさそうに彼の後を追い、並んで歩く。

 「終」の替わりに「始」の字幕が出てきて、映画は終わります。

 

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【42】日本映画(その3)

◎山中貞雄『丹下左膳余話・百万両の壺』

 『丹下左膳余話・百万両の壷』は片眼片腕の怪剣土・丹下左膳が主人公です。しかし、この映画の丹下左膳は大活躍しません。いざとなれば強いのでしょうが、とても近寄りがたい剣豪には見えません。いつも、雇われている矢場の女主人にやり込められています。

 これほど愉快な映画は滅多にありません。黒澤明の時代劇、例えば『用心棒』や『椿三十郎』などの手に汗握る痛快さとは異なり、ついクスクス笑い出してしまう可笑さに満ち溢れた楽しい映画です。 とにかく愉快です。心地よいのです。ほんわかとした気分になります。真夏の猛暑でもなく、真冬の極寒でもない、春風駘蕩の世界です。あらゆるものが、絶対的な厳しさでなく、相対的な緩やかさで把握され、とげとげしさとは無縁な、のんびりとした風景が展開します。凡庸な監督では到底生み出すことのできない素敵な時代劇です。

 この比類のない傑作を作り出したのは、昭和13年(1938)9月17日、29歳の若さで日中戦争の戦場で病死した山中貞雄です。日中戦争、続く太平洋戦争で、多くの若者が無残に殺されました。無数の無名人に混じって、映画監督の山中貞雄やプロ野球の不滅の名投手・沢村栄治といった有名人も死にました。残念無念で仕方がありません。

 山中貞雄のことを知らない人が多いと思います。簡単に紹介します。

―1909年、京都市に生まれる。1927年に京都市立第一商業学校を卒業すると、同じ学校の上級生だったマキノ雅弘に頼んでマキノ映画に入社した。翌年、時代劇スターの嵐寛寿郎が独立プロダクションを興すと、脚本家・助監督として参加し、まず脚本家として認められた。1932年に処女作『磯の源太・抱寝の長脇差』を発表した。映画評論家の岸松雄が絶賛したことで、山中貞雄は一躍脚光を浴びた。その後、『小判しぐれ』『盤嶽の一生』『鼠小僧次郎吉』『国定忠治』『丹下左膳余話・百万両の壺』『街の入墨者』『河内山宗俊』『森の石松』『人情紙風船』などを作った。彼の作ったものは全て時代劇で、娯楽性に富んだ商業映画であったが、単なる娯楽映画の枠を越え、見事な映画的技巧によって芸術的にも高い水準に達していた。1937年、遺作『人情紙風船』を作った後、軍隊に召集され、日中戦争の前線に一兵士として送り出され、1938年9月に中国の戦場(開封)で病死した。29歳だった。なお、現在、フィルムが残っているのは『丹下左膳余話・百万両の壺』『河内山宗俊』『人情紙風船』の3本だけ。

 林不忘の原作が大きく変えられ、映画は次のような物語になりました。原作者側から文句が出たので、原作とは別物だという意味で、題名に「丹下左膳余話」が入りました。

―柳生源三郎(沢村国太郎)は、江戸の大きな道場に婿養子に入った時に、藩主の兄から餞別に汚い壷を贈られた。妻の萩乃(花井蘭子)はその壺を屑屋に売り飛ばした。しかし、それは百万両の隠し場所の地図が塗り込められた壷だった。壺の秘密を知った源三郎は、「壺を探しに行く」と言っては、矢場に直行して、そこで働く若くて可愛い女と楽しく遊んでいる。矢場の女主人は三味線の名手・お藤(喜代三)。そこの用心棒が丹下左膳(大河内伝次郎)である。安吉という孤児も同居している。父が矢場で遊んで帰る途中に悪者に殺されたので、お藤が引き取ったのである。安吉は屑屋から貰った汚い壺の中で金魚を飼っている。紆余曲折を経て、百万両の壺は源三郎の手に戻るが、彼は壺を妻に渡すともう遊びに出られなくなるのを恐れて、その壷を矢場に置いて貰うことにする。

 山中貞雄より1つ年下の黒澤明は、山中についてこう語っています。

 「山中さんは、助監督の頃、本当におとなしくて、何かボーッとしていたようだけど、監督になったら、急に雄弁になってさ、すごい才能なんだヨ。本当に早く亡くなっちゃって、日本映画の大きな損失だね」

 

◎清水宏『小原庄助さん』

 今ではすっかり忘れ去られていますが、昭和10年代、小津安二郎や山中貞雄や溝口健二などと同列に評価されていた一人の映画監督がいました。清水宏です。私と同年代の人の中には、彼の戦後の作品である『蜂の巣の子供達』(昭和23年)や『しいのみ学園』(昭和30年)を覚えている人がいるかも知れません。

 彼は桁外れな、全くユニークな映画監督でした。彼の略歴は次のようです。

 ―1903年3月、静岡県天竜川沿いの山村に生まれる。北海道大学を中退して、松竹蒲田撮影所に入って助監督になる。1924年に監督になり、時代劇でも喜劇でもメロドラマでも何でも撮って職人的な腕前を認められた。1936年の『有りがとうさん』が一つの転機になる。オールロケによるこの作品は、映画的感覚の新鮮さにおいて画期的であった。以後、彼は即興的、実写的、風物詩的な作風に天才を発揮した。スター俳優を否定して、風景の中に子どもたちの動きだけで類い稀な詩情を表現する児童映画の名作を数多く作った。戦後、映画界のこせこせした生活が嫌になり、悠々自適の生活をしていた。子どもの好きな彼は、街の浮浪児たちを引き取って、自分で面倒を見ていた。そして、その子どもたちを全員出演させて『蜂の巣の子供達』を作った。好評であった。1966年6月、この大きな子どものような映画監督は京都で亡くなった。63歳であった。

 私の観た清水宏の映画は『有りがとうさん』『蜂の巣の子供達』『小原庄助さん』『しいのみ学園』の4本だけです。しかし、その中の『小原庄助さん』が抜群に面白かったのです。この1本で、清水宏は、私には忘れ難い映画監督になりました。

 この映画は昭和24年(1949)に作られました。10歳だった私は封切りの時に観ていません。今から5年ほど前にDVD を買って観ました。びっくりしました。無為自然の人生観を持った主人公(没落した元地主)が、実にゆったりと生活しているのです。映画は、この人の良い主人公の日常生活をユーモラスに淡々と描いていきます。彼はどこへ行くにも、のんびりとロバに乗っているのです。そして、酒が大好きなのです。

 こんなお話です。―村一番の地主だった杉本左平太(大河内伝次郎)は、本名より、あだ名の小原庄助さんの方でよく知られている。朝から風呂に入り、風呂から出ると酒を飲む。村の青年たちが彼の寄付で買った野球チームのユニフォームを持って礼にやって来る。村の婦人たちにミシンを買ってやり、自宅をその稽古場として提供する。とうとう彼は破産する。家財道具が競売される。妻のおのぶ(風見章子)は、彼女の兄の説得で実家に帰ってしまう。その晩、二人の泥棒が入るが、彼は柔道の技で豪快に投げ飛ばす。降参した泥棒たちと一緒に酒を飲み、「忍び込んでくる時期が悪かったね」と泥棒たちを慰める。翌朝、トランクひとつを持って駅に向かう。戻って来た奥さんが、申し訳なさそうに彼の後を追い、並んで歩く。

 「終」の替わりに「始」の字幕が出てきて、映画は終わります。