姪の就職2

 真三は感想を述べながら相手に注つぎ返した。小高いみかんの花咲く丘の上には、「草枕温泉てんすい」と銘打った「道の駅」風のログハウスの建物がある。みかんをイメージした大衆浴場があり、また隣接の売店では地元の特産品、野菜、くだもの等を売っている。大衆浴場より広い露天風呂から臨むみかん畑、光る有明海、そしてその向こうに見える島原半島の雲仙・普賢岳の俯瞰風景はまさに絶景である。阿蘇の外輪山と並ぶ熊本二大景勝地であると真三は秘かに楽しんでいる。

 真三は大学四年の夏、昭和四十一年(一九六六)就職が内定したので、一人旅に出た。当時、真三は京都の私学Dで学んでいた。日本が高度経済成長期に入る少し前のころだが、この年は山一證券の日銀特融が持ち上がるなど、大変な不況で就職戦線もきびしかった。いくつか会社の試験を受け面接まで行くが、決まらない。そこでエンジニアの道をあきらめ、地方の企業に変えることを決めた。内定先の企業の本社が九州にあったので、一人旅はその下見の意味もあった。

 この先の人生を考えると、なにか釈然としなかったが、くよくよしても仕方がない。このころ卒論と並行して学内公募論文で『創立者と自然科学』のテーマに取り組んでいた。大学の創立者は米国・ボストンで学んだAカレッジで理学士を授与されていた。入学以来、創立者はなぜ宗教学や文学、歴史学でなく、理学士なんだという疑問をもっていた。これは真三が理系の学生だったからだと本人は思っている。

 論文の仕上げに、創立者の生誕の地、群馬県・安中、国禁を犯して密航した北海道・函館、開校の協力者となった京都府顧問Yの出身地である福島県・会津、そして熊本洋学校の廃校で京都に移った熊本バンドの「奉教之碑」のある熊本市・花岡山の四カ所を訪れることを考えていた。

 開校して間のない当時のD大学にとって、海老名弾正ら熊本バンドの学生の移籍は、その基礎を固めるうえで大きな役割を果たした。それだけに、熊本バンドのことが一番気になっていた。

 ある日、漠然とした気持ちで九州に向けて夜行列車に乗り込んだ。当時、九州へは修学旅行で行っただけであった。記憶に残っていたのは、別府の地獄温泉、長崎の平和公園、そして阿蘇山だけであった。宿泊した熊本県の杖立温泉の名称だけは覚えていた。

 大学時代、下宿先の先輩が九州に来たら福岡の直方に寄れと命じられていたことを思い出し、まず直方へ向かった。石炭のボタ山に初めて連れて行ってもらった。都会では見られない風景がそこにはあった。

 筑豊の炭鉱者(やまもの)、石炭を運ぶ運搬船が浮かぶ遠賀川の川筋男といった言い方をする。炭鉱者も川筋男も柄悪く、品性も良くなく荒くれ男の意味合いが込められていた。いうなれば、筑豊の河内男といったイメージだ。大阪でも船場は上品だが、河内は品性が良くないと見られている。しかし、大阪の土性骨は河内の風土によってつくられている。真三が大阪へ出張した折、会った有力取引先の福岡出身の経営者は「わしは、川筋もんだった」と、自分を紹介したが、そこには力強い男気を感じてもらいたいという思いが込められていたように思った。西郷隆盛をはじめとする九州人全体のイメージに炭鉱者(やまもの)や川筋男の強さを見る思いがする。

 石炭といえば、るり子の出身地の荒尾に隣接する大牟田が三池炭鉱の本拠地として有名だ。昭和三五年(一九六〇)ごろからエネルギー政策の転換で、石炭企業が石炭から石油へ進出、エネルギー構造が大きく変わった。昭和三四年(一九五九)十二月、三池炭鉱は一千二百名の指名解雇を通告、三池争議に発展した。その四年後、死者四百五十八名、一酸化中毒患者八百三十九名という「三池三川炭鉱炭塵爆発事故」が起きた。日本の石炭エネルギーの終焉を象徴する炭鉱の大爆発事故は大争議に発展した不幸な出来事だった。

 真三は直方から博多に出て、鹿児島本線に乗り換え、特急列車の窓からなにげなく大牟田の駅名を見て、「次の駅で降りて、今日の宿としよう」と、まったく見知らぬ駅に降りるスリルを感じた。玉名駅だった。真三がるり子と結婚する十年ほど前のことである。夏の温泉旅館はシーズンオフで、泊り客はほとんどいない。しかし、サラリーマン人生が終わりのごろになって、あのとき玉名駅で降りたことに妙な因縁というか、奇縁を感じずにはいられない。

「あれが炭鉱で働いていた人たちの社宅だったころよ」

 結婚後、帰省の折には、大牟田駅前のレンタカー営業所でクルマを借りた。るり子が車中で外を見ながら教えた。木造平屋の長屋風の社宅を眺めながら往時の炭鉱者の生活ぶりが浮かんだ。いまの三井グリーンランドやシティモールができるまでは炭鉱者の社宅の一群が廃墟となって広がっていた。それは死んだ街の風景であった。三池大争議に続き、大爆発の余韻が残る昭和四十年(一九六五)、るり子の親類の教諭はるり子の高校卒業と入れ替わるように荒尾のA校に赴任してきた。「数年前に爆発事故があり、生徒は大変荒れていると脅された」と熊本地理学会『熊本地理、1999・11』にその教諭は書き留めている。

「労組が第一と第二に分裂したので、家族や学校の生徒まで、いがみあっていたのを覚えているわ」

 るり子は真三の話を聞きながら思い出していた。

―彼女は小岱山(しょうたいさん)のふもとの梅農家から市街地のA高校へ進学してはじめて、炭鉱者の家の生徒と一緒になった。それまではまったく知らなかった。A高校に在学中に三池炭鉱で大きな事件や事故はなかったが、三池争議の余波は学内にも及んでいた。彼女が高校生の頃、学内でも炭鉱者の生徒は一大勢力を誇っていた。

 レンタカーの窓からのぞくと、半分土に埋もれた石炭貨車のレールがところどころに顔をのぞかせていた。全盛期には三池鉄道が社宅から三池港まで伸びていた。そのころ石炭輸送だけでなく、一般にも開放、地元民も運んだ。大牟田から荒尾にかけて四ツ山の商店街は石炭産業の隆盛とともに発展したが、いまでは建物も戦前のままのものも多く、気の毒なくらいすっかり寂びれている。

 往時をしのぶ大牟田市石炭産業科学館が有明海岸沿いに建てられている。いまでは当時の石炭産業の歴史をとどめている数少ない場所であろう。隣接していた第三セクターのネイブルランドは無残な撤退をしていた。地元の民放が第三セクターのずさんな運営ぶりの代表例として報じていた。

「水族館のクラゲだけだね、見られるものは?」

 見学していたのは真三夫婦と九十三歳の義母の三人だけで、料金は大人一人千八百円はいかにも割高感があった。地方でのミニテーマパークの運営の厳しさを見せつけていた。

 都市型のテーマパークをつくるなら、少なくとも三井グリーンランドを超えるか、同等のもでないと、人は三井グリーンランドに流れる。癒し系の温泉スポットが熊本や周辺県に無数にあるだけに、それらをも上回る規模と魅力のテーマパークで採算をとるのはかなり難しいことだろうと思われる。むしろ三井グリーンランドのそばに、ウルトラマンに絞ったレジャー施設は成功している。大牟田、荒尾一帯は三井財閥の影響が色濃く残っている。明治二十一年(一八八八)に、三井家が官営の三池炭鉱を手に入れたことから、今日の三井の城下町となったことにつながっている。熊本県の荒尾と福岡県の大牟田は県境で接しているが、どちらも県の中心街から外れている。両市は石炭の街として発展するが、開坑した当時は気のきいた宿泊施設もほとんどなかった。

 

 優雅な社交界を忍ばせるエキゾチックな三井港倶楽部の建物が現在、三井港の近くに残っている。明治四十一年(一九〇八)の建物だ。三井関係の人たちをはじめ、外国高級船員の宿泊や接待、また皇族や政界人の迎賓館として利用されてきた。現在はレストラン、結婚式場として一般に公開して使われている。

「山海を開発して世界に通ず」

 明治四十一年(一九〇八)、三池港の開港式に臨席した当時、大蔵大臣の井上馨の揮き毫の扁額が館内の壁にかかっている。明治維新後、薩長出身の政治家を中心に産業振興が進められた。長州出身の伊藤博文は、産業振興のため政府の事業として石炭産業に力を入れた。石炭産業民営化にあたり、長州の息のかかった三井物産に三池炭鉱を売り渡したと言われている。

 三井炭鉱を訪れた伊藤博文による揮毫「浦潤山輝」(石炭が生産され、港の船舶の出入りが盛ん)も三井港倶楽部に残っている。

「ここは囚人の墓があったところです」

 大牟田市内にあるるり子の実家の墓参りに行った折に、義兄が説明してくれた。

 

■岡田 清治プロフィール

1942年生まれ ジャーナリスト

(編集プロダクション・NET108代表)

著書に『高野山開創千二百年 いっぱんさん行状記』『心の遺言』『あなたは社員の全能力を引き出せますか!』『リヨンで見た虹』など多数

※この物語に対する読者の方々のコメント、体験談を左記のFAXかメールでお寄せください。

今回は「就職」「日本のゆくえ」「結婚」「夫婦」「インド」「愛知県」についてです。物語が進行する中で織り込むことを試み、一緒に考えます。

FAX‥0569―34―7971

メール‥takamitsu@akai-shinbunten.net

 

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姪の就職2

 真三は感想を述べながら相手に注つぎ返した。小高いみかんの花咲く丘の上には、「草枕温泉てんすい」と銘打った「道の駅」風のログハウスの建物がある。みかんをイメージした大衆浴場があり、また隣接の売店では地元の特産品、野菜、くだもの等を売っている。大衆浴場より広い露天風呂から臨むみかん畑、光る有明海、そしてその向こうに見える島原半島の雲仙・普賢岳の俯瞰風景はまさに絶景である。阿蘇の外輪山と並ぶ熊本二大景勝地であると真三は秘かに楽しんでいる。

 真三は大学四年の夏、昭和四十一年(一九六六)就職が内定したので、一人旅に出た。当時、真三は京都の私学Dで学んでいた。日本が高度経済成長期に入る少し前のころだが、この年は山一證券の日銀特融が持ち上がるなど、大変な不況で就職戦線もきびしかった。いくつか会社の試験を受け面接まで行くが、決まらない。そこでエンジニアの道をあきらめ、地方の企業に変えることを決めた。内定先の企業の本社が九州にあったので、一人旅はその下見の意味もあった。

 この先の人生を考えると、なにか釈然としなかったが、くよくよしても仕方がない。このころ卒論と並行して学内公募論文で『創立者と自然科学』のテーマに取り組んでいた。大学の創立者は米国・ボストンで学んだAカレッジで理学士を授与されていた。入学以来、創立者はなぜ宗教学や文学、歴史学でなく、理学士なんだという疑問をもっていた。これは真三が理系の学生だったからだと本人は思っている。

 論文の仕上げに、創立者の生誕の地、群馬県・安中、国禁を犯して密航した北海道・函館、開校の協力者となった京都府顧問Yの出身地である福島県・会津、そして熊本洋学校の廃校で京都に移った熊本バンドの「奉教之碑」のある熊本市・花岡山の四カ所を訪れることを考えていた。

 開校して間のない当時のD大学にとって、海老名弾正ら熊本バンドの学生の移籍は、その基礎を固めるうえで大きな役割を果たした。それだけに、熊本バンドのことが一番気になっていた。

 ある日、漠然とした気持ちで九州に向けて夜行列車に乗り込んだ。当時、九州へは修学旅行で行っただけであった。記憶に残っていたのは、別府の地獄温泉、長崎の平和公園、そして阿蘇山だけであった。宿泊した熊本県の杖立温泉の名称だけは覚えていた。

 大学時代、下宿先の先輩が九州に来たら福岡の直方に寄れと命じられていたことを思い出し、まず直方へ向かった。石炭のボタ山に初めて連れて行ってもらった。都会では見られない風景がそこにはあった。

 筑豊の炭鉱者(やまもの)、石炭を運ぶ運搬船が浮かぶ遠賀川の川筋男といった言い方をする。炭鉱者も川筋男も柄悪く、品性も良くなく荒くれ男の意味合いが込められていた。いうなれば、筑豊の河内男といったイメージだ。大阪でも船場は上品だが、河内は品性が良くないと見られている。しかし、大阪の土性骨は河内の風土によってつくられている。真三が大阪へ出張した折、会った有力取引先の福岡出身の経営者は「わしは、川筋もんだった」と、自分を紹介したが、そこには力強い男気を感じてもらいたいという思いが込められていたように思った。西郷隆盛をはじめとする九州人全体のイメージに炭鉱者(やまもの)や川筋男の強さを見る思いがする。

 石炭といえば、るり子の出身地の荒尾に隣接する大牟田が三池炭鉱の本拠地として有名だ。昭和三五年(一九六〇)ごろからエネルギー政策の転換で、石炭企業が石炭から石油へ進出、エネルギー構造が大きく変わった。昭和三四年(一九五九)十二月、三池炭鉱は一千二百名の指名解雇を通告、三池争議に発展した。その四年後、死者四百五十八名、一酸化中毒患者八百三十九名という「三池三川炭鉱炭塵爆発事故」が起きた。日本の石炭エネルギーの終焉を象徴する炭鉱の大爆発事故は大争議に発展した不幸な出来事だった。

 真三は直方から博多に出て、鹿児島本線に乗り換え、特急列車の窓からなにげなく大牟田の駅名を見て、「次の駅で降りて、今日の宿としよう」と、まったく見知らぬ駅に降りるスリルを感じた。玉名駅だった。真三がるり子と結婚する十年ほど前のことである。夏の温泉旅館はシーズンオフで、泊り客はほとんどいない。しかし、サラリーマン人生が終わりのごろになって、あのとき玉名駅で降りたことに妙な因縁というか、奇縁を感じずにはいられない。

「あれが炭鉱で働いていた人たちの社宅だったころよ」

 結婚後、帰省の折には、大牟田駅前のレンタカー営業所でクルマを借りた。るり子が車中で外を見ながら教えた。木造平屋の長屋風の社宅を眺めながら往時の炭鉱者の生活ぶりが浮かんだ。いまの三井グリーンランドやシティモールができるまでは炭鉱者の社宅の一群が廃墟となって広がっていた。それは死んだ街の風景であった。三池大争議に続き、大爆発の余韻が残る昭和四十年(一九六五)、るり子の親類の教諭はるり子の高校卒業と入れ替わるように荒尾のA校に赴任してきた。「数年前に爆発事故があり、生徒は大変荒れていると脅された」と熊本地理学会『熊本地理、1999・11』にその教諭は書き留めている。

「労組が第一と第二に分裂したので、家族や学校の生徒まで、いがみあっていたのを覚えているわ」

 るり子は真三の話を聞きながら思い出していた。

―彼女は小岱山(しょうたいさん)のふもとの梅農家から市街地のA高校へ進学してはじめて、炭鉱者の家の生徒と一緒になった。それまではまったく知らなかった。A高校に在学中に三池炭鉱で大きな事件や事故はなかったが、三池争議の余波は学内にも及んでいた。彼女が高校生の頃、学内でも炭鉱者の生徒は一大勢力を誇っていた。

レンタカーの窓からのぞくと、半分土に埋もれた石炭貨車のレールがところどころに顔をのぞかせていた。全盛期には三池鉄道が社宅から三池港まで伸びていた。そのころ石炭輸送だけでなく、一般にも開放、地元民も運んだ。大牟田から荒尾にかけて四ツ山の商店街は石炭産業の隆盛とともに発展したが、いまでは建物も戦前のままのものも多く、気の毒なくらいすっかり寂びれている。

 往時をしのぶ大牟田市石炭産業科学館が有明海岸沿いに建てられている。いまでは当時の石炭産業の歴史をとどめている数少ない場所であろう。隣接していた第三セクターのネイブルランドは無残な撤退をしていた。地元の民放が第三セクターのずさんな運営ぶりの代表例として報じていた。

「水族館のクラゲだけだね、見られるものは?」

 見学していたのは真三夫婦と九十三歳の義母の三人だけで、料金は大人一人千八百円はいかにも割高感があった。地方でのミニテーマパークの運営の厳しさを見せつけていた。

 都市型のテーマパークをつくるなら、少なくとも三井グリーンランドを超えるか、同等のもでないと、人は三井グリーンランドに流れる。癒し系の温泉スポットが熊本や周辺県に無数にあるだけに、それらをも上回る規模と魅力のテーマパークで採算をとるのはかなり難しいことだろうと思われる。むしろ三井グリーンランドのそばに、ウルトラマンに絞ったレジャー施設は成功している。大牟田、荒尾一帯は三井財閥の影響が色濃く残っている。明治二十一年(一八八八)に、三井家が官営の三池炭鉱を手に入れたことから、今日の三井の城下町となったことにつながっている。熊本県の荒尾と福岡県の大牟田は県境で接しているが、どちらも県の中心街から外れている。両市は石炭の街として発展するが、開坑した当時は気のきいた宿泊施設もほとんどなかった。

 

 優雅な社交界を忍ばせるエキゾチックな三井港倶楽部の建物が現在、三井港の近くに残っている。明治四十一年(一九〇八)の建物だ。三井関係の人たちをはじめ、外国高級船員の宿泊や接待、また皇族や政界人の迎賓館として利用されてきた。現在はレストラン、結婚式場として一般に公開して使われている。

「山海を開発して世界に通ず」

 明治四十一年(一九〇八)、三池港の開港式に臨席した当時、大蔵大臣の井上馨の揮き毫の扁額が館内の壁にかかっている。明治維新後、薩長出身の政治家を中心に産業振興が進められた。長州出身の伊藤博文は、産業振興のため政府の事業として石炭産業に力を入れた。石炭産業民営化にあたり、長州の息のかかった三井物産に三池炭鉱を売り渡したと言われている。

 三井炭鉱を訪れた伊藤博文による揮毫「浦潤山輝」(石炭が生産され、港の船舶の出入りが盛ん)も三井港倶楽部に残っている。

「ここは囚人の墓があったところです」

 大牟田市内にあるるり子の実家の墓参りに行った折に、義兄が説明してくれた。