ナポレオンが生まれた島くらいの知識しかなかった私ですが、こんな風にご縁ができてコルシカについていろんなことがわかってきました。

旅の間、印象的だったのはコルシカの人々がコルシカ人としての『誇り』を大切にしていることでした。

招待されたコンサートの曲はイタリア語でもなくフランス語でもなくコルシカ語で歌い継がれていましたし、最後の曲は決まってコルシカの島歌(国歌)を起立して聞いていました。コルシカにはフランスの国旗のほかに島旗があるんですがこれはムーア人(昔、自分たちを支配したムーア人の首)の横顔が描かれています。独立運動の首謀者であるパオリが設定したものですが島中に旗がはためき、土産物のお菓子やコーヒーなどほとんどのものにこれがついています。

歴史をひも解くと中世、長くジェノヴァ(イタリア)の支配が続いていたため南部の街はイタリアのトスカーナあたりの村と雰囲気が似ています。名字や地名もイタリア風のポロッティやマッテイなどiで終わるものが多いです。イタリアからの移民を多く送り込んだと言われています。

またコルシカ島にはいたるところに砦や物見台がありました。かつては海岸線に5kmごとに置かれていたそうです。

支配は過酷ではあったが地主はブドウの木と果物の木を植え付けることを義務付けられました。つまりイタリア本土へ運ぶワインと食料の供給地として位置づけを求められ作られたワインや果物を運ぶためのインフラ整備も進められ栄えた地域もありました。貧しいながらも平和な時代だったようです。

1700年代になるとパスカル・パオリ率いる独立運動が各地で勃発します。これを40年戦争といいます。1768年ジェノヴァはとうとうこれを抑えきれず、フランスに統治権を売り渡してしまいます。独立運動を率い、フランス軍との戦争に破れたパオリはイギリスに亡命します。

なんと独立運動の副官だったカルロ・ポナパルドはフランスにうまく取り入り、貴族の称号を与えられ裁判所の判事の職を得ます。

実はこの人はナポレオンの父親です。ナポレオンはこの3か月後にコルシカアジャクシオで生まれることになるのです。

ナポレオンは父の財力で陸軍青年学校を出て軍人として生きてゆくことになります。

1789年フランス革命が起き、初期の指導者の1人であったミラボーという人物は「自由のために戦ったコルシカ人は法律上なんの罪もおかしていない」と主張してパオリたちコルシカ人亡命者に対する恩赦を主張。

1790年その後70才を過ぎたパオリは再びコルシカの地を踏み英雄として迎えられます。

その後コルシカは1796年将軍として出世したナポレオンによって解放され、フランス領自治を与えられ現在に至ります。

歴史に翻弄され、利用され、複数の国の支配を受け続けたコルシカ。完全支配とか植民地とかひどいことにならなかったのは過酷な自然が邪魔をして攻め入れなかった結果、民族も伝統も細々と生き残ってこれたのだと思います。

もしコルシカが資源豊かで平坦で交通網が整っていたら全く別の結果が待っていたでしょう。

人間便利になりすぎると、あらゆるもののスピードが速くなり、失うものも大きいような気がします。

今度戦争になったら、私たち人類はあっという間にいなくなってしまうでしょうから。

もともとのんびり自給自足のおおらかな島民気質は生きているような気がしました。

私がアクシデントが起きて焦っていると、一人の女性が「ピアノ ピアノ」と声をかけてきました。

イタリア語で「ゆっくり ゆっくり」という意味だそうです。

彼女は「日本人はきちんとしすぎるわ。予定は狂うものだしアクシデントは起きるものなのよ」と。落ち着きなさいとかいう言い方ではなく「ピアノピアノ」の言葉の響きに救われた旅でした。

 

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ナポレオンが生まれた島くらいの知識しかなかった私ですが、こんな風にご縁ができてコルシカについていろんなことがわかってきました。

旅の間、印象的だったのはコルシカの人々がコルシカ人としての『誇り』を大切にしていることでした。

招待されたコンサートの曲はイタリア語でもなくフランス語でもなくコルシカ語で歌い継がれていましたし、最後の曲は決まってコルシカの島歌(国歌)を起立して聞いていました。コルシカにはフランスの国旗のほかに島旗があるんですがこれはムーア人(昔、自分たちを支配したムーア人の首)の横顔が描かれています。独立運動の首謀者であるパオリが設定したものですが島中に旗がはためき、土産物のお菓子やコーヒーなどほとんどのものにこれがついています。

歴史をひも解くと中世、長くジェノヴァ(イタリア)の支配が続いていたため南部の街はイタリアのトスカーナあたりの村と雰囲気が似ています。名字や地名もイタリア風のポロッティやマッテイなどiで終わるものが多いです。イタリアからの移民を多く送り込んだと言われています。

またコルシカ島にはいたるところに砦や物見台がありました。かつては海岸線に5kmごとに置かれていたそうです。

支配は過酷ではあったが地主はブドウの木と果物の木を植え付けることを義務付けられました。つまりイタリア本土へ運ぶワインと食料の供給地として位置づけを求められ作られたワインや果物を運ぶためのインフラ整備も進められ栄えた地域もありました。貧しいながらも平和な時代だったようです。

1700年代になるとパスカル・パオリ率いる独立運動が各地で勃発します。これを40年戦争といいます。1768年ジェノヴァはとうとうこれを抑えきれず、フランスに統治権を売り渡してしまいます。独立運動を率い、フランス軍との戦争に破れたパオリはイギリスに亡命します。

なんと独立運動の副官だったカルロ・ポナパルドはフランスにうまく取り入り、貴族の称号を与えられ裁判所の判事の職を得ます。

実はこの人はナポレオンの父親です。ナポレオンはこの3か月後にコルシカアジャクシオで生まれることになるのです。

ナポレオンは父の財力で陸軍青年学校を出て軍人として生きてゆくことになります。

1789年フランス革命が起き、初期の指導者の1人であったミラボーという人物は「自由のために戦ったコルシカ人は法律上なんの罪もおかしていない」と主張してパオリたちコルシカ人亡命者に対する恩赦を主張。

1790年その後70才を過ぎたパオリは再びコルシカの地を踏み英雄として迎えられます。

その後コルシカは1796年将軍として出世したナポレオンによって解放され、フランス領自治を与えられ現在に至ります。

歴史に翻弄され、利用され、複数の国の支配を受け続けたコルシカ。完全支配とか植民地とかひどいことにならなかったのは過酷な自然が邪魔をして攻め入れなかった結果、民族も伝統も細々と生き残ってこれたのだと思います。

もしコルシカが資源豊かで平坦で交通網が整っていたら全く別の結果が待っていたでしょう。

人間便利になりすぎると、あらゆるもののスピードが速くなり、失うものも大きいような気がします。

今度戦争になったら、私たち人類はあっという間にいなくなってしまうでしょうから。

もともとのんびり自給自足のおおらかな島民気質は生きているような気がしました。

私がアクシデントが起きて焦っていると、一人の女性が「ピアノ ピアノ」と声をかけてきました。

イタリア語で「ゆっくり ゆっくり」という意味だそうです。

彼女は「日本人はきちんとしすぎるわ。予定は狂うものだしアクシデントは起きるものなのよ」と。落ち着きなさいとかいう言い方ではなく「ピアノピアノ」の言葉の響きに救われた旅でした。