■杉本武之プロフィール

1939年 碧南市に生まれる。

京都大学文学部卒業。

翻訳業を経て、小学校教師になるために愛知教育大学に入学。

25年間、西尾市の小中学校に勤務。

定年退職後、名古屋大学教育学部の大学院で学ぶ。

〈趣味〉読書と競馬

 

【26】ベートーヴェン『ピアノ協奏曲第5番「皇帝」』

◎私の音楽体験

 私は音楽を聴くのが大好きです。毎日3時間以上聴いています。しかし、私は楽譜が全然読めません。楽譜を見ながら正しく歌うことができません。碧南市の混声合唱団の一員としてベートーヴェンの『第九』の合唱を何回か歌いました。全て耳から覚えたのです。隣の人の歌声に合わせて歌っていたのです。

 私の音楽教育は貧弱なものでした。図工は好きでしたが、音楽は嫌いでした。

 終戦の翌年、つまり昭和21年の4月に私は小学校に入学しました。学校でどんな音楽の教育を受けたか覚えていません。大人も子供も食べて行くのに必死な時代でした。ちゃんとした音楽教育が行われていたとは思われません。教室にオルガンはあったのか。音楽室はあったのか。音楽の教科書はあったのか。思い出せません。

 小学校時代、私は、仲間と一緒に外で遊び回っていました。家のすぐ側に静かな美しい海がありました。泳いだり、魚を釣ったり、貝をとったりしていました。6年生の頃から、私は港の堤防の先に腰を下ろして、知多半島に夕日が沈んで行くのを見るのが好きになりました。波の音を聴いていると、心が落ち着きました。波の音が私の音楽鑑賞でした。

 中学校時代、私は、バスケットの練習に夢中でした。素敵な指導者に恵まれ、少しでも上達したいと必死でした。私たちのチームは県大会で準決勝まで進みました。

 そんな訳で、私は、小学生の時も、中学生の時も、音楽とは無縁でした。読書とも無縁でした。映画だけはよく観ていました。黒澤明の『七人の侍』に出会ったのは、中学3年の夏でした。大きくなったら映画監督になりたいと思いました。

 昭和30年の4月、私は高校生になりました。少しも希望していなかったのに、選択科目として音楽を強制的に押し付けられました。音楽の授業は苦しくて耐え難いものでした。まさに地獄の責め苦でした。しかし、1回だけ、至福の時間を過ごしたことがありました。

 ある日、音楽の先生が私たちを校長室に連れて行きました。LPレコードが開発された時期に当たっていました。大きなプレイヤーが校長室に置いてありました。私たちは校長室でベートーヴェンの『田園交響曲』を聴きました。美しい音でした。感動しました。

 高校卒業後、家で浪人生活を送りました。その頃には、家にもLPレコードが何枚かありました。銀行員をしていた長兄が購入したものです。受験勉強をしながら、トスカニーニが指揮したドヴォルザークの『新世界交響曲』などを夢中で聴きました。自宅浪人生の私は、映画の魅力とともに、文学や音楽の魅力にも取り付かれ始めていました。

 近くの寺に長兄の友人がいました。音楽好きで、たくさんレコードを持っていました。彼がベートーヴェンの『ピアノ協奏曲第5番「皇帝」』を貸してくれました。聴きながら「これだ。これこそ、私のための音楽だ」と思いました。何回も何回も繰り返して聴きました。返却する時、手渡すのが残念で仕方がありませんでした。

 あんなに感動したのに、誰がピアノを弾いていたのかすっかり忘れていました。思い出そうとしても無駄でした。ところが、ほんの先日、そのピアニストの名前が分かったのです。現代の人気作曲家・池辺晋一郎が書いた『ベートーヴェンの音符たち』( 音楽之友社)を読んでいて、次の箇所に出会いました。

 「僕は、この曲、大好きでした。夢中になっていたのは中学?高校生のころ、ケンプのLPを繰り返し、聴いた。ケンプは、バックハウスなどと並ぶドイツ正統派の巨匠である。LPといっても、あれは何と呼んだかな、少し小ぶりのレコードで、といっても、もっと小さなEP(45回転)とも違うサイズだった。A面に第1 楽章、B面に第2、3楽章。併録曲はない。この曲ひとつだけ」

 池辺晋一郎は私より4歳年下です。彼が中学3年か高校1年の時に繰り返し聴いたのと同じレコードを、浪人生の私も繰り返し聴いていたのです。ケンプの演奏だったのです。

◎『ピアノ協奏曲第5番「皇帝」』

 私は、高名な音楽評論家・吉田秀和の『私の音楽室』を長い間愛読してきました。今も時々読みます。その本の中で、彼はこう書いています。

 「さて、『第5交響曲』を分水嶺として、ベートーヴェン的世界は、大雑把に言って、それ以前の、この高みへの英雄的登攀と、高みでの悠々たる鳥瞰の時代と、最後に、いわゆる『後期のベートーヴェンの、前人未踏の国への下山の神秘な足取り』といったふうに、分類してみることもできるだろう」

 さて、『ピアノ協奏曲第5番「皇帝」』は、1809年に作曲されました。前年の1808年には『第5 交響曲』と『田園交響曲』が完成されており、まさにベートーヴェンの創作意欲が頂点に達していた時期の作品です。

 抒情的な『ピアノ協奏曲第4番』の方が好きだと言う人も多いし、私も大好きでよく聴きます。しかし、どちらかを選ばなければならないなら、私は躊躇することなく勇壮な『第5番「皇帝」』を選びます。浪人生活を支えてくれた曲だし、その後も何回も生きる勇気を与えてくれた作品です。感謝しています。

 多くの人と同じように、ベートーヴェンの生涯と音楽に対する私の興味関心は、ロマン・ロランの『ベートーヴェンの生涯』(岩波文庫)を読んで急速に深まりました。これは人を鼓舞する素晴らしい著作です。私は、大学2年の時に初めて読みました。

 「思想もしくは力によって勝った人々を、私は英雄とは呼ばない。私が英雄と呼ぶのは、心によって偉大であった人々だけである。彼らの中の最大の一人、その生涯を今ここに私が物語る人が言ったように、『私は善以外には卓越の証拠を認めない』。人格が偉大でないところに偉人は無い。偉大な芸術家も偉大な行為者も無い。あるのは、さもしい大衆のための空虚な偶像だけである。時はそれらを一括して滅ぼしてしまう。成功は我々にとって重大なことではない。真に偉大であることが重要なことであって、偉大らしく見えることは問題ではない。(中略)

 この雄々しい軍団の先頭に、私はまず第一に、強くて純粋なベートーヴェンを置こう。彼自身、その苦しみの中にあって祈念したことは、彼自身の実例が他の多くの不幸な人々を支える力となることであり、また『人は、自分と同じように不幸な人間が、自然のあらゆる障害にも拘らず、人間という名に値する一個の人間になるために全力を尽くしたことを知って、慰めを感じるがいい』ということであった」(片山敏彦訳)

 芥川龍之介の息子で作曲家であった芥川也寸志は『音楽を愛する人に』(旺文社文庫)の中で、『ピアノ協奏曲第5番「皇帝」』について書いています。

 「2楽章から3楽章に移る時のピアノの裏には、ホルンのみが持続音を吹く。これが長いので、ここを遅く弾くピアニストに出会うと、オーケストラのホルン奏者は死ぬ目に会う。ごまかすと、すぐばれる」

 そうだったのか、気が付かなかったな。

 

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【26】ベートーヴェン

『ピアノ協奏曲第5番「皇帝」』

◎私の音楽体験

 

 私は音楽を聴くのが大好きです。毎日3時間以上聴いています。しかし、私は楽譜が全然読めません。楽譜を見ながら正しく歌うことができません。碧南市の混声合唱団の一員としてベートーヴェンの『第九』の合唱を何回か歌いました。全て耳から覚えたのです。隣の人の歌声に合わせて歌っていたのです。

 私の音楽教育は貧弱なものでした。図工は好きでしたが、音楽は嫌いでした。

 終戦の翌年、つまり昭和21年の4月に私は小学校に入学しました。学校でどんな音楽の教育を受けたか覚えていません。大人も子供も食べて行くのに必死な時代でした。ちゃんとした音楽教育が行われていたとは思われません。教室にオルガンはあったのか。音楽室はあったのか。音楽の教科書はあったのか。思い出せません。

 小学校時代、私は、仲間と一緒に外で遊び回っていました。家のすぐ側に静かな美しい海がありました。泳いだり、魚を釣ったり、貝をとったりしていました。6年生の頃から、私は港の堤防の先に腰を下ろして、知多半島に夕日が沈んで行くのを見るのが好きになりました。波の音を聴いていると、心が落ち着きました。波の音が私の音楽鑑賞でした。

 中学校時代、私は、バスケットの練習に夢中でした。素敵な指導者に恵まれ、少しでも上達したいと必死でした。私たちのチームは県大会で準決勝まで進みました。

 そんな訳で、私は、小学生の時も、中学生の時も、音楽とは無縁でした。読書とも無縁でした。映画だけはよく観ていました。黒澤明の『七人の侍』に出会ったのは、中学3年の夏でした。大きくなったら映画監督になりたいと思いました。

 昭和30年の4月、私は高校生になりました。少しも希望していなかったのに、選択科目として音楽を強制的に押し付けられました。音楽の授業は苦しくて耐え難いものでした。まさに地獄の責め苦でした。しかし、1回だけ、至福の時間を過ごしたことがありました。

 ある日、音楽の先生が私たちを校長室に連れて行きました。LPレコードが開発された時期に当たっていました。大きなプレイヤーが校長室に置いてありました。私たちは校長室でベートーヴェンの『田園交響曲』を聴きました。美しい音でした。感動しました。

 高校卒業後、家で浪人生活を送りました。その頃には、家にもLPレコードが何枚かありました。銀行員をしていた長兄が購入したものです。受験勉強をしながら、トスカニーニが指揮したドヴォルザークの『新世界交響曲』などを夢中で聴きました。自宅浪人生の私は、映画の魅力とともに、文学や音楽の魅力にも取り付かれ始めていました。

 近くの寺に長兄の友人がいました。音楽好きで、たくさんレコードを持っていました。彼がベートーヴェンの『ピアノ協奏曲第5番「皇帝」』を貸してくれました。聴きながら「これだ。これこそ、私のための音楽だ」と思いました。何回も何回も繰り返して聴きました。返却する時、手渡すのが残念で仕方がありませんでした。

 あんなに感動したのに、誰がピアノを弾いていたのかすっかり忘れていました。思い出そうとしても無駄でした。ところが、ほんの先日、そのピアニストの名前が分かったのです。現代の人気作曲家・池辺晋一郎が書いた『ベートーヴェンの音符たち』( 音楽之友社)を読んでいて、次の箇所に出会いました。

 「僕は、この曲、大好きでした。夢中になっていたのは中学?高校生のころ、ケンプのLPを繰り返し、聴いた。ケンプは、バックハウスなどと並ぶドイツ正統派の巨匠である。LPといっても、あれは何と呼んだかな、少し小ぶりのレコードで、といっても、もっと小さなEP(45回転)とも違うサイズだった。A面に第1 楽章、B面に第2、3楽章。併録曲はない。この曲ひとつだけ」

 池辺晋一郎は私より4歳年下です。彼が中学3年か高校1年の時に繰り返し聴いたのと同じレコードを、浪人生の私も繰り返し聴いていたのです。ケンプの演奏だったのです。

 

◎『ピアノ協奏曲第5番「皇帝」』

 私は、高名な音楽評論家・吉田秀和の『私の音楽室』を長い間愛読してきました。今も時々読みます。その本の中で、彼はこう書いています。

 「さて、『第5交響曲』を分水嶺として、ベートーヴェン的世界は、大雑把に言って、それ以前の、この高みへの英雄的登攀と、高みでの悠々たる鳥瞰の時代と、最後に、いわゆる『後期のベートーヴェンの、前人未踏の国への下山の神秘な足取り』といったふうに、分類してみることもできるだろう」

 さて、『ピアノ協奏曲第5番「皇帝」』は、1809年に作曲されました。前年の1808年には『第5 交響曲』と『田園交響曲』が完成されており、まさにベートーヴェンの創作意欲が頂点に達していた時期の作品です。

 抒情的な『ピアノ協奏曲第4番』の方が好きだと言う人も多いし、私も大好きでよく聴きます。しかし、どちらかを選ばなければならないなら、私は躊躇することなく勇壮な『第5番「皇帝」』を選びます。浪人生活を支えてくれた曲だし、その後も何回も生きる勇気を与えてくれた作品です。感謝しています。

 多くの人と同じように、ベートーヴェンの生涯と音楽に対する私の興味関心は、ロマン・ロランの『ベートーヴェンの生涯』(岩波文庫)を読んで急速に深まりました。これは人を鼓舞する素晴らしい著作です。私は、大学2年の時に初めて読みました。

 「思想もしくは力によって勝った人々を、私は英雄とは呼ばない。私が英雄と呼ぶのは、心によって偉大であった人々だけである。彼らの中の最大の一人、その生涯を今ここに私が物語る人が言ったように、『私は善以外には卓越の証拠を認めない』。人格が偉大でないところに偉人は無い。偉大な芸術家も偉大な行為者も無い。あるのは、さもしい大衆のための空虚な偶像だけである。時はそれらを一括して滅ぼしてしまう。成功は我々にとって重大なことではない。真に偉大であることが重要なことであって、偉大らしく見えることは問題ではない。(中略)

 この雄々しい軍団の先頭に、私はまず第一に、強くて純粋なベートーヴェンを置こう。彼自身、その苦しみの中にあって祈念したことは、彼自身の実例が他の多くの不幸な人々を支える力となることであり、また『人は、自分と同じように不幸な人間が、自然のあらゆる障害にも拘らず、人間という名に値する一個の人間になるために全力を尽くしたことを知って、慰めを感じるがいい』ということであった」(片山敏彦訳)

 芥川龍之介の息子で作曲家であった芥川也寸志は『音楽を愛する人に』(旺文社文庫)の中で、『ピアノ協奏曲第5番「皇帝」』について書いています。

 「2楽章から3楽章に移る時のピアノの裏には、ホルンのみが持続音を吹く。これが長いので、ここを遅く弾くピアニストに出会うと、オーケストラのホルン奏者は死ぬ目に会う。ごまかすと、すぐばれる」

 そうだったのか、気が付かなかったな。