■杉本武之プロフィール

1939年 碧南市に生まれる。

京都大学文学部卒業。

翻訳業を経て、小学校教師になるために愛知教育大学に入学。

25年間、西尾市の小中学校に勤務。

定年退職後、名古屋大学教育学部の大学院で学ぶ。

〈趣味〉読書と競馬

 

【20】木下惠介『野菊の如き君なりき』

◎木下監督の映画との出会い

 今から70年前からほぼ10年間、つまり1950年代、日本映画は黄金時代を迎えていました。才能に恵まれた映画監督たちが覇を競って優れた作品を作っていました。その豪華絢爛たるさまは、歌麿、写楽、北斎、広重などを輩出した江戸時代後半の浮世絵の黄金時代に匹敵するものでした。

 この日本映画の黄金時代において、特に『雨月物語』『近松物語』の溝口健二、『東京物語』『晩春』の小津安二郎、『七人の侍』『生きる』の黒澤明、『二十四の瞳』『日本の悲劇』の木下惠介が『四大巨匠』と呼ばれていました。また、『浮雲』『めし』の成瀬巳喜男を加えて『五大巨匠』と呼ぶこともありました。

 これらの巨匠たちと共に、『また逢う日まで』『にごりえ』の今井正、『炎上』『おとうと』の市川崑、『愛妻物語』『原爆の子』の新藤兼人なども活躍していました。

 『日本映画の黄金時代』の中で、著者の都築政昭は、巨匠・木下惠介の映画の特徴を次のように書きました。

 「世の中のさまざまな現象を、木下は鋭敏な感受性でとらえ、その感情をより純粋化、より増幅して、映画の中に表現し、芸術の域まで昇華させる。彼の映画の発想は『最初に感動ありき』で、ある本やある事件を知り、そこに生まれた感情──それは感動であったり、強い怒りであったりする。その感情をためて、それを吐き出したものが木下の映画である。感情がストーリーを作り、感情が表現を決定していく。だから庶民の感情にストレートに染み透っていくのである。木下の映画には難解であったり、意味がよく伝わらない映画は一つもない。

 木下ほど美しい、心が洗われるような映画を作る人はいない。『わが恋せし乙女』『二十四の瞳』そして『喜びも悲しみも幾歳月』など、幾多の苦難はあっても、恋人たちや師弟や夫婦の間に美しく通い合う魂があり、それがまるで虹のように七色に輝いて美しいのである」

 私は小さい時から木下の映画が大好きで、今までにほとんどの作品を観ています。戦時中に作られた『花咲く港』(1943年)と『陸軍』(1944年)も数年前にDVD で観ました。いい作品でした。中学生になってからは、封切られる度に映画館で観ました。

 忘れられない青春の思い出があります。それは、京都大学に入って宇治に下宿していた時のことです。宇治の映画館で木下の『惜春鳥』を観ました。どんな内容の映画だったのか少しも覚えていません。当たり前です。生まれて初めて、若くて美しい女性と一緒に映画を観たのです。

 その相手というのは、後年、日本女性史の研究家として活躍することになる加納(旧姓・細井)実紀代さんでした。同級生だった彼女も宇治に下宿していました。その美貌と利発さは格別で、男子学生の憧れの的でした。同じ電車で下校する時、勇気を出して、映画を観ようと誘ってみました。簡単に承諾してくれました。

 あの時の嬉しさ、今でも忘れることができません。隣が気になって、映画は上の空で観ていました。

 木下惠介は、大正元年(1912)12月5日、静岡県浜松市で生まれました。5歳の時、スペイン風邪に罹りました。両親の必死の看病で奇跡的に命を取り止めました。両親は「神さまから特別に貰った子」として彼を大事に育てました。木下は、父と母に対する強い敬愛を一生持ち続けました。「私は子供の時から、父と母が大好きであった。今でも父より偉い人間に会ったことはなく、母より立派な女には会ったことはない」。そして、彼は理想的な夫婦の姿を『喜びも悲しみも幾歳月』などで描き出しました。

 

◎『野菊の如き君なりき』

 1955年に製作された『野菊の如き君なりき』は、木下惠介の数ある名作の中でも屈指の名作です。私は『二十四の瞳』や『喜びも悲しみも幾歳月』よりも好きです。監督自身も『日本の悲劇』『笛吹川』と並んで最も好きな作品の一つに挙げています。

 『野菊の如き君なりき』の原作は、明治39年に43歳の歌人・伊藤左千夫が『ホトトギス』に発表した処女作『野菊の墓』です。小説は、こんなふうに始まります。

 「後の月(注・八月十五夜に対して、九月十三夜の月)という時分が来ると、どうも思わずにはいられない。(中略)もう十年余も過ぎ去った昔のことであるから、細かい事実は多くは覚えていないけれど、心持ちだけは今なお昨日のごとく、その時の事を考えてると、全く当時の心持ちに立ち返って、涙が留めなく湧くのである」

 地方の旧家の次男で15歳の中学生の政夫が、母が病弱のため家の手伝いにやって来た2歳年上の従姉の民子との間に通わせた淡い初恋の悲しい物語です。

 木下は『野菊の墓』を読んだ時、これは自分のための小説だと思い、直ちにシナリオに取り掛かりました。伊藤左千夫がこの小説を書いたのは43歳の時でした。そして、木下惠介がこの悲恋物語の映画を作ったのも同じ43歳の時でした。

 映画は、小舟に座った老人の姿から始まります。老人の独白が静かに流れます。原作とは少し違っています。

 「秋が来ると、私はどうしても思い出します。なに分にも忘れることができません。もう60年も過ぎ去った昔の事ですから、細かい事は多くは覚えていませんけど、心持ちだけは今も尚、昨日の事のように……笑わないで下さい、老い先の短い年寄りには、昔の夢しか残っておりませんもの……」

 やがて画面は卵形フレームになります。「回想シーンが明治時代の話なので、昔の写真を見るような感じを出そうと、周囲をぼかした楕円形の画面をこしらえた」と、木下はその意図を述べています。この変形フーム採用の効果は、てきめんでした。

 「政夫さーん」「民さーん」。岸辺を走る少年の政夫、渡し舟から手を振る民子。

 政夫を演じたのが田中晋二、民子を演じたのが有田紀子。二人ともずぶの素人でした。

 有田紀子は学習院高等科1年に通っていましたが、学習院は彼女の映画出演を許しませんでした。彼女は退学の道を選びました。

 田中晋二は、1年前の『二十四の瞳』の時に応募しましたが、落選していました。木下は彼のことを思い出して政夫役に抜擢しました。

 美男美女とは言えないが、あどけなさの残る二人の新人を登用したことが、結果的には大成功でした。実に清純な美しい初恋の世界が現出したのです。また、政夫の母を演じた杉村春子、民子の祖母を演じた浦辺粂子の演技の素晴らしさは特筆に値するものでした。

 木下は、この美しくも悲しい恋愛物語を、彼の大好きな信州の地で撮影しました。原作の舞台は千葉県の松戸市の近郊と利根川の辺りですが、彼は秋深い信濃路を選びました。この場所変更も成功しました。「美しい風景があって、そこから自然に物語が生まれてくるような映画にしたい」という木下の意図にぴったりの場所だったのです。

 このような切なく胸を抉る映画は、もう二度と作られることはないでしょう。

 

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【20】木下惠介『野菊の如き君なりき』

◎木下監督の映画との出会い

 今から70年前からほぼ10年間、つまり1950年代、日本映画は黄金時代を迎えていました。才能に恵まれた映画監督たちが覇を競って優れた作品を作っていました。その豪華絢爛たるさまは、歌麿、写楽、北斎、広重などを輩出した江戸時代後半の浮世絵の黄金時代に匹敵するものでした。

 この日本映画の黄金時代において、特に『雨月物語』『近松物語』の溝口健二、『東京物語』『晩春』の小津安二郎、『七人の侍』『生きる』の黒澤明、『二十四の瞳』『日本の悲劇』の木下惠介が『四大巨匠』と呼ばれていました。また、『浮雲』『めし』の成瀬巳喜男を加えて『五大巨匠』と呼ぶこともありました。

 これらの巨匠たちと共に、『また逢う日まで』『にごりえ』の今井正、『炎上』『おとうと』の市川崑、『愛妻物語』『原爆の子』の新藤兼人なども活躍していました。

 『日本映画の黄金時代』の中で、著者の都築政昭は、巨匠・木下惠介の映画の特徴を次のように書きました。

 「世の中のさまざまな現象を、木下は鋭敏な感受性でとらえ、その感情をより純粋化、より増幅して、映画の中に表現し、芸術の域まで昇華させる。彼の映画の発想は『最初に感動ありき』で、ある本やある事件を知り、そこに生まれた感情──それは感動であったり、強い怒りであったりする。その感情をためて、それを吐き出したものが木下の映画である。感情がストーリーを作り、感情が表現を決定していく。だから庶民の感情にストレートに染み透っていくのである。木下の映画には難解であったり、意味がよく伝わらない映画は一つもない。

 木下ほど美しい、心が洗われるような映画を作る人はいない。『わが恋せし乙女』『二十四の瞳』そして『喜びも悲しみも幾歳月』など、幾多の苦難はあっても、恋人たちや師弟や夫婦の間に美しく通い合う魂があり、それがまるで虹のように七色に輝いて美しいのである」

 私は小さい時から木下の映画が大好きで、今までにほとんどの作品を観ています。戦時中に作られた『花咲く港』(1943年)と『陸軍』(1944年)も数年前にDVD で観ました。いい作品でした。中学生になってからは、封切られる度に映画館で観ました。

 忘れられない青春の思い出があります。それは、京都大学に入って宇治に下宿していた時のことです。宇治の映画館で木下の『惜春鳥』を観ました。どんな内容の映画だったのか少しも覚えていません。当たり前です。生まれて初めて、若くて美しい女性と一緒に映画を観たのです。

 その相手というのは、後年、日本女性史の研究家として活躍することになる加納(旧姓・細井)実紀代さんでした。同級生だった彼女も宇治に下宿していました。その美貌と利発さは格別で、男子学生の憧れの的でした。同じ電車で下校する時、勇気を出して、映画を観ようと誘ってみました。簡単に承諾してくれました。

 あの時の嬉しさ、今でも忘れることができません。隣が気になって、映画は上の空で観ていました。

 木下惠介は、大正元年(1912)12月5日、静岡県浜松市で生まれました。5歳の時、スペイン風邪に罹りました。両親の必死の看病で奇跡的に命を取り止めました。両親は「神さまから特別に貰った子」として彼を大事に育てました。木下は、父と母に対する強い敬愛を一生持ち続けました。「私は子供の時から、父と母が大好きであった。今でも父より偉い人間に会ったことはなく、母より立派な女には会ったことはない」。そして、彼は理想的な夫婦の姿を『喜びも悲しみも幾歳月』などで描き出しました。

 

◎『野菊の如き君なりき』

 1955年に製作された『野菊の如き君なりき』は、木下惠介の数ある名作の中でも屈指の名作です。私は『二十四の瞳』や『喜びも悲しみも幾歳月』よりも好きです。監督自身も『日本の悲劇』『笛吹川』と並んで最も好きな作品の一つに挙げています。

 『野菊の如き君なりき』の原作は、明治39年に43歳の歌人・伊藤左千夫が『ホトトギス』に発表した処女作『野菊の墓』です。小説は、こんなふうに始まります。

 「後の月(注・八月十五夜に対して、九月十三夜の月)という時分が来ると、どうも思わずにはいられない。(中略)もう十年余も過ぎ去った昔のことであるから、細かい事実は多くは覚えていないけれど、心持ちだけは今なお昨日のごとく、その時の事を考えてると、全く当時の心持ちに立ち返って、涙が留めなく湧くのである」

 地方の旧家の次男で15歳の中学生の政夫が、母が病弱のため家の手伝いにやって来た2歳年上の従姉の民子との間に通わせた淡い初恋の悲しい物語です。

 木下は『野菊の墓』を読んだ時、これは自分のための小説だと思い、直ちにシナリオに取り掛かりました。伊藤左千夫がこの小説を書いたのは43歳の時でした。そして、木下惠介がこの悲恋物語の映画を作ったのも同じ43歳の時でした。

 映画は、小舟に座った老人の姿から始まります。老人の独白が静かに流れます。原作とは少し違っています。

 「秋が来ると、私はどうしても思い出します。なに分にも忘れることができません。もう60年も過ぎ去った昔の事ですから、細かい事は多くは覚えていませんけど、心持ちだけは今も尚、昨日の事のように……笑わないで下さい、老い先の短い年寄りには、昔の夢しか残っておりませんもの……」

 やがて画面は卵形フレームになります。「回想シーンが明治時代の話なので、昔の写真を見るような感じを出そうと、周囲をぼかした楕円形の画面をこしらえた」と、木下はその意図を述べています。この変形フーム採用の効果は、てきめんでした。

 「政夫さーん」「民さーん」。岸辺を走る少年の政夫、渡し舟から手を振る民子。

 政夫を演じたのが田中晋二、民子を演じたのが有田紀子。二人ともずぶの素人でした。

 有田紀子は学習院高等科1年に通っていましたが、学習院は彼女の映画出演を許しませんでした。彼女は退学の道を選びました。

 田中晋二は、1年前の『二十四の瞳』の時に応募しましたが、落選していました。木下は彼のことを思い出して政夫役に抜擢しました。

 美男美女とは言えないが、あどけなさの残る二人の新人を登用したことが、結果的には大成功でした。実に清純な美しい初恋の世界が現出したのです。また、政夫の母を演じた杉村春子、民子の祖母を演じた浦辺粂子の演技の素晴らしさは特筆に値するものでした。

 木下は、この美しくも悲しい恋愛物語を、彼の大好きな信州の地で撮影しました。原作の舞台は千葉県の松戸市の近郊と利根川の辺りですが、彼は秋深い信濃路を選びました。この場所変更も成功しました。「美しい風景があって、そこから自然に物語が生まれてくるような映画にしたい」という木下の意図にぴったりの場所だったのです。

 このような切なく胸を抉る映画は、もう二度と作られることはないでしょう。