■杉本武之プロフィール

1939年 碧南市に生まれる。

京都大学文学部卒業。

翻訳業を経て、小学校教師になるために愛知教育大学に入学。

25年間、西尾市の小中学校に勤務。

定年退職後、名古屋大学教育学部の大学院で学ぶ。

〈趣味〉読書と競馬

 

【19】溝口健二『近松物語』

◎溝口監督の映画との出会い

 先日、久しぶりに新藤兼人著『ある映画監督│溝口健二と日本映画│』(岩波新書)を読み直しました。

 この本は、昭和51年(1976)4月に出版されました。すぐに購入して、その日のうちに一気に読んでしまいました。本当に面白いと思いました。

 どのページからも、映画に打ち込む一人の監督の情熱、いや狂気が伝わってきました。

 その小柄な監督がいると、撮影現場に融和とか常識とかいう温和な空気は流れなくなりました。緊張感が漂い、息もできないほどでした。その斬るか斬られるかの戦いの場で、妥協を知らない監督は、全ての俳優やスタッフに対して無理難題を吹っかけ、自分の思い描いたシーンを何とかして撮ろうとしました。もはや自分のことしか頭にありません。

 この監督は一度スタジオに入ると、昼食時にも外に出ませんでした。徐々に醸し出されてきた雰囲気の中に浸っていたかったのです。セットから外へ出て小用をしなくなりました。いつも溲瓶が用意されていました。

 演技指導をしない監督でした。「俳優だから自分で考えて演じなさい。それでお金を貰っているのでしょう」。こう冷たく言って、俳優が身に纏っている偽装を剥ぎ取り丸裸の真実の人間になって行くまで絞りに絞りました。

 この情け容赦もない映画監督が、あの『西鶴一代女』『雨月物語』『山椒太夫』『近松物語』などの珠玉の名作を作り上げた世界の巨匠・溝口健二だったのです。

 溝口健二は明治31年(1898)5月16日、東京で生まれました。生涯で85本の映画を作りました。25歳の時に処女作『愛に甦る日』を作り、58歳の時に遺作『赤線地帯』を作りました。そして、昭和31年(1956)8月24日、京都府立病院で血液のガンである骨髄性白血病で死去しました。享年58。

 彼が死んだ時、私は17歳の高校生でした。年齢差が大きかったために、彼の作品を封切りの時に映画館で観たのはたった1本だけです。中学3年生の時に、学校から『山椒太夫』を観に連れて行ってもらいました。

 その頃、時々、市内の映画館で中学生を対象にした映画鑑賞会が開かれ、私たち中学生はそれを楽しみにしていました。木下恵介の『二十四の瞳』も学校から観に行きました。

 映画が好きだったので、私は、家族と共に、または一人でよく映画を観ていました。映画界全盛の時期で、市内に映画館が3つありました。

 中学生の私が『山椒太夫』や『二十四の瞳』を観た年、つまり昭和29 年は、1950年代の「日本映画の黄金時代」においても、特に光り輝いていた年でした。『山椒太夫』『二十四の瞳』が生み出されただけではありません。世界で映画史上最高の傑作と評価されている黒澤明の『七人の侍』が作られた記念すべき年でもありました。溝口健二の『近松物語』もこの年の作品です。

 私が大学生になり映画部に入った時には、もう溝口健二は生きていませんでした。

 彼が生涯に作った85本の映画のうち、私が観たのはわずか11本です。年代順に列挙します。『歌麿をめぐる五人の女』(昭和21年)『雪夫人絵図』(昭和25年)『お遊さま』(昭和26年)『武蔵野夫人』(昭和26年)『西鶴一代女』(昭和27年)『雨月物語』(昭和28年)『祇園囃子』(昭和28年)『山椒太夫』(昭和29年)『近松物語』(昭和29年)『新・平家物語』(昭和30年)『赤線地帯』(昭和31年)です。私が生まれる前に作られた『滝の白糸』『浪華悲恋』『祇園の姉妹』や、幼児時代に作られた『浪花女』『元禄忠臣蔵』などの作品は観ていません。

 私が観た溝口の作品の中からベスト5を選べば、好きな順に『近松物語』『山椒太夫』『祇園囃子』『雨月物語』『西鶴一代女』となります。

◎『近松物語』

 今まで観てきた数多くの日本映画の中で、最も芸術の香りを放っている作品は溝口健二の『近松物語』です。最も映画らしい痛快極まりない作品は黒澤明の『七人の侍』です。最も哀しさで胸を締め付けられる作品は木下恵介の『野菊の如き君なりき』です。最も人間味豊かな作品は小津安二郎の『秋刀魚の味』です。

 溝口健二は、昭和27年(1952)に井原西鶴の『好色一代女』を題材にして『西鶴一代女』を作りました。国内ではさほど評判になりませんでしたが、ベニス映画祭で絶賛を浴び監督賞を獲得しました。翌年、上田秋成の怪奇小説『雨月物語』の中の『浅茅が宿』と『蛇性の淫』の2話を基にして幻想的な名作『雨月物語』を作りました。この作品も世界中で称賛され、ベネチア映画祭銀獅子賞に輝きました。

 西鶴と上田秋成に挑戦して成功を収めた溝口監督は、続いて近松門左衛門の作品に取り組みました。初め『堀川波鼓』 を希望しましたが、内容が地味すぎると言って会社側が渋りました。次に『大経師昔暦』を提案しました。今度は快諾されました。

 近松門左衛門の『大経師昔暦』と井原西鶴の『好色五人女』の第3話は、同じ実話を取り扱っています。大経師の御内儀・おさんと手代・茂兵衛の悲恋物語です。近松は『大経師昔暦』を書く時に、西鶴の『好色五人女』を参考にしました。溝口監督は、この両者の優れた部分を生かして自分の映画を作ろうとしました。前半の駆け落ちするまでの話は近松の方を、後半の逃避行は西鶴の方を中心にしました。

 おさんを演じたのは香川京子でした。2作前の『山椒太夫』で安寿の役を好演していました。茂兵衛を演じたのは長谷川一夫でした。大映の永田雅一社長の強い要望でした。溝口監督は、美男の長谷川一夫の茂兵衛では絢爛たる歌舞伎になってしまい、自分の求めるリアリズムに徹した迫真の人間描写ができなくなると危惧していました。

 しかし、私は、香川京子のおさん、長谷川一夫の茂兵衛でよかったと思います。この二人しか考えられません。例えば、田中絹代のおさん、森雅之の茂兵衛だったら、一体どうなっていたでしょう。あの香り立つロマンティシズムは無くなっていたでしょう。

 『日本映画の黄金時代』の中で、優れた映画研究家の都築政昭はこう書いています。

 「溝口には傑作といわれる作品は少なくないが、その力強く、戦慄させるような美の世界を描きながら、さまざまな傷のあることが多いが、この『近松物語』は、そうした破綻がまったくない完成度を持ち、強い磁力で観客を離さない名作である」

 映画芸術の極致である『近松物語』は、不運にも受賞とは縁がありませんでした。

 国内では、その年の『キネマ旬報』ベストテン選出で5位に甘んじました。1位が木下恵介『二十四の瞳』、2位が同監督『女の園』、3位が黒澤明『七人の侍』でした。

 また国外では、カンヌ映画祭に出品され、本命視されていました。ところが、大映社長の永田雅一が東京で「フランスの映画人は信用できない」と暴言を吐いたため、映画祭当局が激しく怒りました。結局、日本代表団は永田雅一がプロデュースした『近松物語』を正式参加作品から外してしまいました。不運な名作と言えるでしょう。

 

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【19】溝口健二『近松物語』

◎溝口監督の映画との出会い

 先日、久しぶりに新藤兼人著『ある映画監督│溝口健二と日本映画│』(岩波新書)を読み直しました。

 この本は、昭和51年(1976)4月に出版されました。すぐに購入して、その日のうちに一気に読んでしまいました。本当に面白いと思いました。

 どのページからも、映画に打ち込む一人の監督の情熱、いや狂気が伝わってきました。

 その小柄な監督がいると、撮影現場に融和とか常識とかいう温和な空気は流れなくなりました。緊張感が漂い、息もできないほどでした。その斬るか斬られるかの戦いの場で、妥協を知らない監督は、全ての俳優やスタッフに対して無理難題を吹っかけ、自分の思い描いたシーンを何とかして撮ろうとしました。もはや自分のことしか頭にありません。

 この監督は一度スタジオに入ると、昼食時にも外に出ませんでした。徐々に醸し出されてきた雰囲気の中に浸っていたかったのです。セットから外へ出て小用をしなくなりました。いつも溲瓶が用意されていました。

 演技指導をしない監督でした。「俳優だから自分で考えて演じなさい。それでお金を貰っているのでしょう」。こう冷たく言って、俳優が身に纏っている偽装を剥ぎ取り丸裸の真実の人間になって行くまで絞りに絞りました。

 この情け容赦もない映画監督が、あの『西鶴一代女』『雨月物語』『山椒太夫』『近松物語』などの珠玉の名作を作り上げた世界の巨匠・溝口健二だったのです。

 溝口健二は明治31年(1898)5月16日、東京で生まれました。生涯で85本の映画を作りました。25歳の時に処女作『愛に甦る日』を作り、58歳の時に遺作『赤線地帯』を作りました。そして、昭和31年(1956)8月24日、京都府立病院で血液のガンである骨髄性白血病で死去しました。享年58。

 彼が死んだ時、私は17歳の高校生でした。年齢差が大きかったために、彼の作品を封切りの時に映画館で観たのはたった1本だけです。中学3年生の時に、学校から『山椒太夫』を観に連れて行ってもらいました。

 その頃、時々、市内の映画館で中学生を対象にした映画鑑賞会が開かれ、私たち中学生はそれを楽しみにしていました。木下恵介の『二十四の瞳』も学校から観に行きました。

 映画が好きだったので、私は、家族と共に、または一人でよく映画を観ていました。映画界全盛の時期で、市内に映画館が3つありました。

 中学生の私が『山椒太夫』や『二十四の瞳』を観た年、つまり昭和29 年は、1950年代の「日本映画の黄金時代」においても、特に光り輝いていた年でした。『山椒太夫』『二十四の瞳』が生み出されただけではありません。世界で映画史上最高の傑作と評価されている黒澤明の『七人の侍』が作られた記念すべき年でもありました。溝口健二の『近松物語』もこの年の作品です。

 私が大学生になり映画部に入った時には、もう溝口健二は生きていませんでした。

 彼が生涯に作った85本の映画のうち、私が観たのはわずか11本です。年代順に列挙します。『歌麿をめぐる五人の女』(昭和21年)『雪夫人絵図』(昭和25年)『お遊さま』(昭和26年)『武蔵野夫人』(昭和26年)『西鶴一代女』(昭和27年)『雨月物語』(昭和28年)『祇園囃子』(昭和28年)『山椒太夫』(昭和29年)『近松物語』(昭和29年)『新・平家物語』(昭和30年)『赤線地帯』(昭和31年)です。私が生まれる前に作られた『滝の白糸』『浪華悲恋』『祇園の姉妹』や、幼児時代に作られた『浪花女』『元禄忠臣蔵』などの作品は観ていません。

 私が観た溝口の作品の中からベスト5を選べば、好きな順に『近松物語』『山椒太夫』『祇園囃子』『雨月物語』『西鶴一代女』となります。

 

 

◎『近松物語』

 今まで観てきた数多くの日本映画の中で、最も芸術の香りを放っている作品は溝口健二の『近松物語』です。最も映画らしい痛快極まりない作品は黒澤明の『七人の侍』です。最も哀しさで胸を締め付けられる作品は木下恵介の『野菊の如き君なりき』です。最も人間味豊かな作品は小津安二郎の『秋刀魚の味』です。

 溝口健二は、昭和27年(1952)に井原西鶴の『好色一代女』を題材にして『西鶴一代女』を作りました。国内ではさほど評判になりませんでしたが、ベニス映画祭で絶賛を浴び監督賞を獲得しました。翌年、上田秋成の怪奇小説『雨月物語』の中の『浅茅が宿』と『蛇性の淫』の2話を基にして幻想的な名作『雨月物語』を作りました。この作品も世界中で称賛され、ベネチア映画祭銀獅子賞に輝きました。

 西鶴と上田秋成に挑戦して成功を収めた溝口監督は、続いて近松門左衛門の作品に取り組みました。初め『堀川波鼓』 を希望しましたが、内容が地味すぎると言って会社側が渋りました。次に『大経師昔暦』を提案しました。今度は快諾されました。

 近松門左衛門の『大経師昔暦』と井原西鶴の『好色五人女』の第3話は、同じ実話を取り扱っています。大経師の御内儀・おさんと手代・茂兵衛の悲恋物語です。近松は『大経師昔暦』を書く時に、西鶴の『好色五人女』を参考にしました。溝口監督は、この両者の優れた部分を生かして自分の映画を作ろうとしました。前半の駆け落ちするまでの話は近松の方を、後半の逃避行は西鶴の方を中心にしました。

 おさんを演じたのは香川京子でした。2作前の『山椒太夫』で安寿の役を好演していました。茂兵衛を演じたのは長谷川一夫でした。大映の永田雅一社長の強い要望でした。溝口監督は、美男の長谷川一夫の茂兵衛では絢爛たる歌舞伎になってしまい、自分の求めるリアリズムに徹した迫真の人間描写ができなくなると危惧していました。

 しかし、私は、香川京子のおさん、長谷川一夫の茂兵衛でよかったと思います。この二人しか考えられません。例えば、田中絹代のおさん、森雅之の茂兵衛だったら、一体どうなっていたでしょう。あの香り立つロマンティシズムは無くなっていたでしょう。

 『日本映画の黄金時代』の中で、優れた映画研究家の都築政昭はこう書いています。

 「溝口には傑作といわれる作品は少なくないが、その力強く、戦慄させるような美の世界を描きながら、さまざまな傷のあることが多いが、この『近松物語』は、そうした破綻がまったくない完成度を持ち、強い磁力で観客を離さない名作である」

 映画芸術の極致である『近松物語』は、不運にも受賞とは縁がありませんでした。

 国内では、その年の『キネマ旬報』ベストテン選出で5位に甘んじました。1位が木下恵介『二十四の瞳』、2位が同監督『女の園』、3位が黒澤明『七人の侍』でした。

 また国外では、カンヌ映画祭に出品され、本命視されていました。ところが、大映社長の永田雅一が東京で「フランスの映画人は信用できない」と暴言を吐いたため、映画祭当局が激しく怒りました。結局、日本代表団は永田雅一がプロデュースした『近松物語』を正式参加作品から外してしまいました。不運な名作と言えるでしょう。