先回の末尾に、「『良寛物語』は、…哲学者 新美南吉論にとって重要な位置を占める童話です」と書きましたが、今回は、なぜそうなのかの理由を書きます。

 『ごん狐』をはじめ、『良寛物語』が書かれる以前の作品には、仲よくなろうとしてなれない関係、つまり心のすれ違いの悲しい物語がいっぱい書かれています。『ごん狐』はその最高傑作と言っていいでしょう。ごん狐は意地悪をした兵十の母親思いを知って、反省し、償いの行為として柿や栗を盗んで兵十に届けに行くのですが、この時に、兵十に鉄砲で撃たれて死んでしまうという物語です。兵十はこの柿や栗のお陰で泥棒呼ばわりされていたのでした。何とも言えない不条理な世界です。

 この不条理な世界理解は南吉の現実理解であったのでしょう。何とかこの状況を越えて世界をみんなが仲よくなれる世界にしたい。こんな思いで南吉は作品を書いたように思えます。しかしその解決の道はまだ見えてなかったのでした。

 解決の道は東京外国語学校(現東京外国語大学)在学の時代に見えてきます。その頃の日記を読むとそう思えます。左翼の学生河崎からプロレタリア文学の影響を受けたからかもしれませんが南吉は以下のように自省を日記に記します。

 

  須井一の「綿」や「幼き合唱」や「木のない村」を読み、

  …自分の代用教員時代を思出し、そののらくらとしてみみづの様に

  自己を把握せず過ごした期間を…恥ずかしく思った。…子供達への

  愛に溺れただけではなかったのか。

*南吉は東京外国語学校入学前の一浪の時、岩滑尋常小学校の代用教員でした。この時に『ごん狐』は書かれました。

 

  そして、その3年後、プロレタリア文学と言って遜色のない『塀』という童話を書きます。しかし南吉はプロレタリア文学への道を進みませんでした。理由は分かりません。理由はどこにも書かれていませんので、しかし『塀』には農民運動の中心に祭り上げられた共産党員の青木さんが農民達に裏切られていく姿が描かれています。これこそは郷里岩滑の現実。

 これではいけない。この方法では人々を仲よくさせることはできない。こう考えたように思えます。再び南吉は仲よくなれる共存の思想を求めて彷徨するのでした。こんな中で南吉は良寛と出会うのです。出版社から、『良寛物語』を書いてくれないかとの依頼があって良寛思想を研究するという形で出会うことになりました。

 南吉は相馬御風や西郡久吾や津田青楓などから猛烈に学び、1941年に『良寛物語―手毬と鉢の子―』を書き上げます。

 しかし良寛は不思議なお坊さんです。世界(社会)を善くしようと一生懸命勉強しその力が発揮できるはずの名主の職を弟に譲り、また師から自分の後継者になってくれと頼まれた名門円通寺住職の職を兄弟子に譲って自分は子供と毬で遊んだり托鉢の乞食僧として過ごしたのですから。それなのに良寛は偉いと言われています。なぜでしょうか。だれもが抱く疑問です。南吉も抱いたのでした。しかし学習する中で南吉は良寛の偉さ、凄さ、素晴らしさが解かったのでした。南吉は『良寛物語』の冒頭の「この本のはじめに」で以下のように書いています。

 

  良寛さんは乞食のような生き方をしていた。

  それなのに良寛さんは偉いと言われているのは中々分からない。

  この本を読んで考えてもらいたい。

 

 

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 先回の末尾に、「『良寛物語』は、…哲学者 新美南吉論にとって重要な位置を占める童話です」と書きましたが、今回は、なぜそうなのかの理由を書きます。

 『ごん狐』をはじめ、『良寛物語』が書かれる以前の作品には、仲よくなろうとしてなれない関係、つまり心のすれ違いの悲しい物語がいっぱい書かれています。『ごん狐』はその最高傑作と言っていいでしょう。ごん狐は意地悪をした兵十の母親思いを知って、反省し、償いの行為として柿や栗を盗んで兵十に届けに行くのですが、この時に、兵十に鉄砲で撃たれて死んでしまうという物語です。兵十はこの柿や栗のお陰で泥棒呼ばわりされていたのでした。何とも言えない不条理な世界です。

 この不条理な世界理解は南吉の現実理解であったのでしょう。何とかこの状況を越えて世界をみんなが仲よくなれる世界にしたい。こんな思いで南吉は作品を書いたように思えます。しかしその解決の道はまだ見えてなかったのでした。

 解決の道は東京外国語学校(現東京外国語大学)在学の時代に見えてきます。その頃の日記を読むとそう思えます。左翼の学生河崎からプロレタリア文学の影響を受けたからかもしれませんが南吉は以下のように自省を日記に記します。

 

  須井一の「綿」や「幼き合唱」や

  「木のない村」を読み、

  …自分の代用教員時代を思出し、

  そののらくらとしてみみづの様に

  自己を把握せず過ごした期間を…

  恥ずかしく思った。…子供達への

  愛に溺れただけではなかったのか。

*南吉は東京外国語学校入学前の一浪の時、岩滑尋常小学校の代用教員でした。この時に『ごん狐』は書かれました。

 

  そして、その3年後、プロレタリア文学と言って遜色のない『塀』という童話を書きます。しかし南吉はプロレタリア文学への道を進みませんでした。理由は分かりません。理由はどこにも書かれていませんので、しかし『塀』には農民運動の中心に祭り上げられた共産党員の青木さんが農民達に裏切られていく姿が描かれています。これこそは郷里岩滑の現実。

 これではいけない。この方法では人々を仲よくさせることはできない。こう考えたように思えます。再び南吉は仲よくなれる共存の思想を求めて彷徨するのでした。こんな中で南吉は良寛と出会うのです。出版社から、『良寛物語』を書いてくれないかとの依頼があって良寛思想を研究するという形で出会うことになりました。

 南吉は相馬御風や西郡久吾や津田青楓などから猛烈に学び、1941年に『良寛物語―手毬と鉢の子―』を書き上げます。

 しかし良寛は不思議なお坊さんです。世界(社会)を善くしようと一生懸命勉強しその力が発揮できるはずの名主の職を弟に譲り、また師から自分の後継者になってくれと頼まれた名門円通寺住職の職を兄弟子に譲って自分は子供と毬で遊んだり托鉢の乞食僧として過ごしたのですから。それなのに良寛は偉いと言われています。なぜでしょうか。だれもが抱く疑問です。南吉も抱いたのでした。しかし学習する中で南吉は良寛の偉さ、凄さ、素晴らしさが解かったのでした。南吉は『良寛物語』の冒頭の「この本のはじめに」で以下のように書いています。

 

  良寛さんは乞食のような生き方をしていた。

  それなのに良寛さんは

  偉いと言われているのは中々分からない。

  この本を読んで考えてもらいたい。