■杉本武之プロフィール

1939年 碧南市に生まれる。

京都大学文学部卒業。

翻訳業を経て、小学校教師になるために愛知教育大学に入学。

25年間、西尾市の小中学校に勤務。

定年退職後、名古屋大学教育学部の大学院で学ぶ。

〈趣味〉読書と競馬

 

【15】『ラヴェット自伝』

◎英国成人教育史研究会

 小学校の教師を定年退職した年に、私は名古屋大学教育学部の大学院に入りました。

 それから2年間、母の介護をしたり、町内会長を務めながら、大学院で安彦忠彦教授の指導の下で勉強しました。そして、25年に亙る自分自身の小学校教員の経験も取り入れて「学級集団の研究」という修士論文を書き上げました。

 学級の構成人数はどの程度がいいのか。多すぎると、教師の目が全員に届かなくなり、いじめなどの問題が発生する。少なすぎると、教師の目が届き過ぎてしまう。指導過剰になり、子どもたちの自主性と社会性が育ちにくくなる。学級の適正な生徒数とともに、担任教師の指導力の問題も重大である。記録に残っている過去の優れた学級経営の実践例を紹介するとともに、指導がうまくいった時の私自身の学級経営の様子も記述して、何とか論文らしきものを完成しました。

 大学院を修了した後、碧南市の鷲塚小学校、新川小学校、日進小学校、西尾市の鶴城小学校、安城市の桜林小学校などで非常勤講師をしました。担任ではないので、教科指導も生徒指導も自由にできない不満はありましたが、子どもたちと接することの好きな私には楽しい日々でした。

 さて、大学院に同期で入った人たちが「英国成人教育史研究会」を結成して、新海英行先生(名古屋大学名誉教授)の指導の下で、ホッジェン著『英国と米国における労働者教育』(1925年刊)の原書講読会をしていました。ある時、「仲間に入らないか」と誘われ、毎月1回の勉強会に参加することになりました。

 この勉強会は、講読する本も変わり、メンバーも少し入れ替わりましたが、今でも続いています。高齢者が多い研究会ですが、15年も継続しているのです。私より1歳年上の新海先生の懇切丁寧な指導の賜物です。一昨年、そのホッジェンの著書の前半に当たる英国の部分を『英国労働者教育史』という表題で大学教育出版から発刊しました。優れた翻訳ということで、名古屋大学から表彰されました。賞金までいただき、感謝感激でした。

 そのホッジェンの著書の中で、チャーティスト運動の指導者ラヴェットのことが好意的に取り扱われており、私は、彼の生き方や考え方に強く引き付けられました。そして、彼が書いた『自伝』を読んでみたくなりました。そのことを話すと、仲間の一人が、親切にも全文をコピーしてくれました。

 読んでみると、生きるために苦闘していた青春時代の部分が特に面白く、チャーティスト運動の指導者になってからの部分は、彼が盛んに作成した演説文や宣言文などの文書が長々と引用されていて、私には余り面白くありませんでした。そこで、波瀾万丈の青春時代の部分を訳し、5年前の2012年12月、『ラヴェット自伝(青春編)』と題して私家版として発行しました。

 これでラヴェットの翻訳を打ち切るつもりでしたが、時間が経つにつれ、ラヴェットの生涯が分かるものを作りたいという思いが強くなりました。3 年前(2014年)に少し暇が出来たので、冬の寒い間、コタツに入りながら、後半部分をこつこつと訳していました。彼の教育観、宗教観、政治観、科学観などが詳しく述べられていました。難解な箇所も数多くありましたが、挫けてなるものかと、老骨に鞭打って頑張りました。

 後半部分を訳し終えると、この部分も使って、ラヴェットの生涯が分かるような本を作ることにしました。青春期、壮年期、晩年期の3部に分けよう。第1部の青春期は、前に訳して出版した『ラヴェット自伝(青春編)』を使うことにしよう。第2部の壮年期は、勉強会で訳して出版したホッジェン著『英国労働者教育史』の第5章を使おう。そして、第3部の晩年期は、訳したばかりの『ラヴェット自伝(晩年編)』を使うことにしよう。

 こうして『ウィリアム・ラヴェット──チャーティスト運動の誠実な指導者』が出来上がりました。近くの印刷所で印刷・製本してもらい、2年前(2015年)に私家版として発行しました。

 

◎『ラヴェット自伝』

 ウィリアム・ラヴェットは、19世紀半ばに英国で勃発した大規模な民衆運動(チャーティスト運動)の誠実な指導者でした。普通選挙権を求めて立ち上がった労働者階級を代表する形で、職人のラヴェットは、1838年に『人民憲章』を起草しました。公表され、広く配布されました。

 『人民憲章』には「成人男子普通選挙権」「無記名投票」「議員の財産資格制限の廃止」「平等選挙区制」などの6つの要求の実現が求められていました。現在では当たり前のことですが、当時の英国では、ごく一部の富裕階層しか投票権が与えられていなかったのです。

 ウィリアム・ラヴェット(1800 ?1877)は、貧しい漁業の町に生まれ、21歳の時に職を求めてロンドンに出た、ごく普通の貧しい労働者でした。しかし、彼は並外れた向上心の持ち主でした。1838年に公表された『人民憲章』の起草者として英国史に名前を残しましたが、ラヴェットは、社会運動の指導者としてだけでなく、家具職人としても、コーヒー・ハウスの経営者としても、子どもたちを親切に教えた教育者としても、とても魅力的な人物でした。私の大好きなタイプの人物です。

 私が訳した『自伝』から、彼が少年時代に経験した巨大なサメ騒動を読んでみましょう。

 びっくりするほど巨大なサメが、のんびり日なたぼっこをしながら、海上に浮かんでいた。町の漁師たちがそれを目撃し、浜辺に引き上げた。勿論、男の子たちにとっては又と無い機会であり、たちまち群がり集まった。漁師たちが忙しくサメの腹を割いたり、体内の大量の肝や油を取り出している間に、男の子たちは何か面白い遊びは無いものかと頭を働かせていた。

 梃用のキャプスタン棒を使って、サメの口が、開いたまま固定されていた。男の子たち(私もその中の一人だった)は、その口の内部に潜り込んで、黒色の剛毛の房飾りのような物を切り取っていた。それは口の一部に並んでいて、櫛の形をしていた。

 私たちが夢中になって切り取っていると、外にいた、いたずらな男の子たちが、もう一方で支えていたキャプスタン棒の下の方を足で蹴っ飛ばした。サメの顎が音を立てて閉まり、口の中にいた私たちは大の字に閉じ込められてしまった。大声で叫ぶと、すぐに救いの手が伸ばされ、サメの口が開けられた。助け出されはしたものの、油や粘液の中に転げ落ちた苦しみは、とても言葉では言い表せるものではなかった。何日もかかって、やっとこの恐怖を忘れることができたことを、今でもしっかり覚えている。

 

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【15】『ラヴェット自伝』

◎英国成人教育史研究会

 小学校の教師を定年退職した年に、私は名古屋大学教育学部の大学院に入りました。

 それから2年間、母の介護をしたり、町内会長を務めながら、大学院で安彦忠彦教授の指導の下で勉強しました。そして、25年に亙る自分自身の小学校教員の経験も取り入れて「学級集団の研究」という修士論文を書き上げました。

 学級の構成人数はどの程度がいいのか。多すぎると、教師の目が全員に届かなくなり、いじめなどの問題が発生する。少なすぎると、教師の目が届き過ぎてしまう。指導過剰になり、子どもたちの自主性と社会性が育ちにくくなる。学級の適正な生徒数とともに、担任教師の指導力の問題も重大である。記録に残っている過去の優れた学級経営の実践例を紹介するとともに、指導がうまくいった時の私自身の学級経営の様子も記述して、何とか論文らしきものを完成しました。

 大学院を修了した後、碧南市の鷲塚小学校、新川小学校、日進小学校、西尾市の鶴城小学校、安城市の桜林小学校などで非常勤講師をしました。担任ではないので、教科指導も生徒指導も自由にできない不満はありましたが、子どもたちと接することの好きな私には楽しい日々でした。

 さて、大学院に同期で入った人たちが「英国成人教育史研究会」を結成して、新海英行先生(名古屋大学名誉教授)の指導の下で、ホッジェン著『英国と米国における労働者教育』(1925年刊)の原書講読会をしていました。ある時、「仲間に入らないか」と誘われ、毎月1回の勉強会に参加することになりました。

 この勉強会は、講読する本も変わり、メンバーも少し入れ替わりましたが、今でも続いています。高齢者が多い研究会ですが、15年も継続しているのです。私より1歳年上の新海先生の懇切丁寧な指導の賜物です。一昨年、そのホッジェンの著書の前半に当たる英国の部分を『英国労働者教育史』という表題で大学教育出版から発刊しました。優れた翻訳ということで、名古屋大学から表彰されました。賞金までいただき、感謝感激でした。

 そのホッジェンの著書の中で、チャーティスト運動の指導者ラヴェットのことが好意的に取り扱われており、私は、彼の生き方や考え方に強く引き付けられました。そして、彼が書いた『自伝』を読んでみたくなりました。そのことを話すと、仲間の一人が、親切にも全文をコピーしてくれました。

 読んでみると、生きるために苦闘していた青春時代の部分が特に面白く、チャーティスト運動の指導者になってからの部分は、彼が盛んに作成した演説文や宣言文などの文書が長々と引用されていて、私には余り面白くありませんでした。そこで、波瀾万丈の青春時代の部分を訳し、5年前の2012年12月、『ラヴェット自伝(青春編)』と題して私家版として発行しました。

 これでラヴェットの翻訳を打ち切るつもりでしたが、時間が経つにつれ、ラヴェットの生涯が分かるものを作りたいという思いが強くなりました。3 年前(2014年)に少し暇が出来たので、冬の寒い間、コタツに入りながら、後半部分をこつこつと訳していました。彼の教育観、宗教観、政治観、科学観などが詳しく述べられていました。難解な箇所も数多くありましたが、挫けてなるものかと、老骨に鞭打って頑張りました。

 後半部分を訳し終えると、この部分も使って、ラヴェットの生涯が分かるような本を作ることにしました。青春期、壮年期、晩年期の3部に分けよう。第1部の青春期は、前に訳して出版した『ラヴェット自伝(青春編)』を使うことにしよう。第2部の壮年期は、勉強会で訳して出版したホッジェン著『英国労働者教育史』の第5章を使おう。そして、第3部の晩年期は、訳したばかりの『ラヴェット自伝(晩年編)』を使うことにしよう。

 こうして『ウィリアム・ラヴェット──チャーティスト運動の誠実な指導者』が出来上がりました。近くの印刷所で印刷・製本してもらい、2年前(2015年)に私家版として発行しました。

 

◎『ラヴェット自伝』

 ウィリアム・ラヴェットは、19世紀半ばに英国で勃発した大規模な民衆運動(チャーティスト運動)の誠実な指導者でした。普通選挙権を求めて立ち上がった労働者階級を代表する形で、職人のラヴェットは、1838年に『人民憲章』を起草しました。公表され、広く配布されました。

 『人民憲章』には「成人男子普通選挙権」「無記名投票」「議員の財産資格制限の廃止」「平等選挙区制」などの6つの要求の実現が求められていました。現在では当たり前のことですが、当時の英国では、ごく一部の富裕階層しか投票権が与えられていなかったのです。

 ウィリアム・ラヴェット(1800 ?1877)は、貧しい漁業の町に生まれ、21歳の時に職を求めてロンドンに出た、ごく普通の貧しい労働者でした。しかし、彼は並外れた向上心の持ち主でした。1838年に公表された『人民憲章』の起草者として英国史に名前を残しましたが、ラヴェットは、社会運動の指導者としてだけでなく、家具職人としても、コーヒー・ハウスの経営者としても、子どもたちを親切に教えた教育者としても、とても魅力的な人物でした。私の大好きなタイプの人物です。

 私が訳した『自伝』から、彼が少年時代に経験した巨大なサメ騒動を読んでみましょう。

 びっくりするほど巨大なサメが、のんびり日なたぼっこをしながら、海上に浮かんでいた。町の漁師たちがそれを目撃し、浜辺に引き上げた。勿論、男の子たちにとっては又と無い機会であり、たちまち群がり集まった。漁師たちが忙しくサメの腹を割いたり、体内の大量の肝や油を取り出している間に、男の子たちは何か面白い遊びは無いものかと頭を働かせていた。

 梃用のキャプスタン棒を使って、サメの口が、開いたまま固定されていた。男の子たち(私もその中の一人だった)は、その口の内部に潜り込んで、黒色の剛毛の房飾りのような物を切り取っていた。それは口の一部に並んでいて、櫛の形をしていた。

 私たちが夢中になって切り取っていると、外にいた、いたずらな男の子たちが、もう一方で支えていたキャプスタン棒の下の方を足で蹴っ飛ばした。サメの顎が音を立てて閉まり、口の中にいた私たちは大の字に閉じ込められてしまった。大声で叫ぶと、すぐに救いの手が伸ばされ、サメの口が開けられた。助け出されはしたものの、油や粘液の中に転げ落ちた苦しみは、とても言葉では言い表せるものではなかった。何日もかかって、やっとこの恐怖を忘れることができたことを、今でもしっかり覚えている。