■杉本武之プロフィール

1939年 碧南市に生まれる。

京都大学文学部卒業。

翻訳業を経て、小学校教師になるために愛知教育大学に入学。

25年間、西尾市の小中学校に勤務。

定年退職後、名古屋大学教育学部の大学院で学ぶ。

〈趣味〉読書と競馬

 

【13】競走馬『サイレンススズカ』

◎教員時代③

 鶴城中学校で特殊学級の担任を3年間してから、私は矢田小学校に移りました。どうしても1年生の担任をやってみたいと思い、1年目が終わろうとしていた時に、校長に頼んでみました。校長はこう言いました。「この1年間、よく見ていると、杉本さんは、生徒を自由に放ったらかしにしていることが多い。1年生を担任するとなると、そうした態度を改めてもらわなくちゃいけない。放任ではなく、細かく丁寧に指導しなくてはいけない。大変な仕事だよ。できるかな?」。私は真剣な表情をして「できます!」と答えました。校長はニコニコ笑って「杉本さんにできるかな……。まぁ、よく考えておくよ」と言いました。

 翌年、私は1年生を担任することになりました。給食、清掃、授業、登下校、全校集会、運動会、学芸会……。いやはや、目の回る忙しさ。しかし、この1年ほど、子どもたちを教え育てているという実感を抱いたことはありませんでした。やってよかったな、と今でも思っています。子どもたちが私の指導をどう思っていたかは知りません。

 矢田小学校に3年いて、中畑小学校に行きました。その学校で研究主任になりました。3年生を担任しながら、研究主任という仕事をしなければなりませんでした。

 毎年、市の教育委員会は研究指定校を決めます。すると、その学校は、2年間、テーマを決めて全校で研究をして、その成果を市内の先生たちに見てもらうための研究発表会を華々しく開催しなければなりません。研究指定校の研究主任になるということは、重大な使命を担うことなのです。いやな役を仰せ付かったな、と思いました。しかし、教務主任がすぐれた能力の人でした。おかげで私は楽しく研究に打ち込むことができました。

 2年間の研究の成果を発表した翌年、校務主任として西尾中学校に赴任しました。担任を外されてしまいました。3年生に国語を教えながら、主としてPTA 関係の仕事をしました。PTAに関する研究をしていて、よく深夜まで話し合いが続きました。

 2年後、教務主任として室場小学校に赴くことになりました。充実した5年間を過ごしました。新任の教師を指導すること、年間、月間、週間の学校行事を計画立案すること、それが私の主な任務でした。素晴らしい教員たちに恵まれ、楽しい日々を送りました。

 それから福地北部小学校に移りました。そこに教務主任として2年間いました。最後はどうしても学級担任で教員生活を終えたい。教師の道を選んだ時、私は、校長や教頭という管理職に就かずに、担任として常に子どもたちと接していこうと決心していました。教務主任などになり、ここ数年、担任から遠ざかっていました。もうあと2年で定年だ。ぐずぐずしてはおられない。私は、意を決して「校務主任や教務主任を外して、担任に戻して欲しい」と教育委員会に直訴しました。

 私は、普通学級の担任として八ッ面小学校に移りました。教室で生徒たちの前に立った時、何と嬉しかったことか!ああ、これこそ教師の幸福というものだ!

 再び担任として教壇に立つことができて幸せ一杯だった私に、平成10年(1998)11月1日、悲劇が襲いました。この日、東京競馬場で一頭の名馬が死んだのです。肉親の死、愛犬の死、親友の死に匹敵するほどの悲しい別れでした。心から愛していた稀代の快速馬・サイレンススズカが死んでしまったのです。

 

◎サイレンススズカ

 競馬の魅力に取りつかれて25年ほどになります。その間に数々の馬に出会ってきました。しかし、一番好きな馬は、何と言ってもサイレンススズカです。

 競走馬は、その脚質によって次のように分類されます。スタートから先頭に立ってレースを進める「逃げ」、先頭には立たないで上位に付けてレースをする「先行」、真ん中あたりから徐々にポジションを上げて行く「差し」、道中は後方に待機し、ゴールの直前で一気にスパートをかける「追い込み」、流れに応じてレースを運ぶ「自在」。

 サイレンススズカは典型的な「逃げ馬」だったと言われています。稀代の「逃げ馬」だったと言われています。しかし、よく考えてみると、この快速馬は、意図的に逃げないと勝てない、一般的な「逃げ馬」ではありませんでした。この馬が持っていたスピードが桁違いだったため、他の馬は、スタートから付いて行けず、道中はますます差を付けられ、最後にはさらに引き離されてしまう結果になったのです。結果的には「逃げ馬」として分類されるでしょうが、サイレンススズカは、逃げたのではなく、ただ普通に自分の走りをしていただけでした。他の馬が、この次元の違う走りに、初めから終わりまで、付いて行けなかっただけなのです。

 大差の付いたレースとして有名なのは、1998年5月30日に中京競馬場で行われた「金鯱賞(GⅡ)」です。2着との差は10馬身、時間では1.8秒。サイレンススズカが勝ったのを見てからトイレに行って、戻ってきたら、ようやく2着の馬がゴールした、という笑い話が生まれたほどの圧勝でした。

 「金鯱賞」の後のG Ⅰレース「宝塚記念」にも勝ちました。そして、今でも伝説的な凄いレースとして名高い「毎日王冠(GⅡ)」が10月11日に東京競馬場で行われました。このレースには、その1ヵ月半後に行われた「ジャパンカップ(GⅠ)」で優勝するエルコンドルパサー、また、年末に行われた「有馬記念(GⅠ)」で優勝するグラスワンダーといった競馬史に残る名馬も出走しました。これだけの名馬が揃ったレースを見たいという13万人以上の観客が、早朝から東京競馬場に詰め掛けました。GⅡのレースとしては異例のことでした。我らの快速馬・サイレンススズカは、超一流の名馬たちに一度も接近を許すことなく完勝しました。

 それから3週間後。「天皇賞(秋)(GⅠ)」が行われた11月1日。この日がサイレンススズカの命日になりました。まだ多くの人の記憶に残っている悲しい出来事が突然起こりました。快調に飛ばしていたサイレンススズカが、4コーナー手前で突然走るのを止めました。騎手の武豊は、故障の発生したサイレンススズカをコースの外に持ち出しました。馬たちがその横をゴール目指して走って行きました。しかし、サイレンススズカは立ったままです。彼の膝の骨は粉々に砕けていたのです。左手根骨粉砕骨折。あれだけのスピード。あれだけの酷い膝の骨折。普通なら、その場に倒れ込み、騎手も大怪我をしていたでしょう。しかし、サイレンススズカは残りの3本脚で持ちこたえました。なぜか。『サイレンススズカ物語・地上で見た夢』の著者・安西美穂子は「サイレンススズカは、武豊を愛していたので、武の命を守った」と書きました。

 私は、緑色のメンコを被ったサイレンスズカの姿を決して忘れないでしょう。

 

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【13】競走馬『サイレンススズカ』

◎教員時代③

 鶴城中学校で特殊学級の担任を3年間してから、私は矢田小学校に移りました。どうしても1年生の担任をやってみたいと思い、1年目が終わろうとしていた時に、校長に頼んでみました。校長はこう言いました。「この1年間、よく見ていると、杉本さんは、生徒を自由に放ったらかしにしていることが多い。1年生を担任するとなると、そうした態度を改めてもらわなくちゃいけない。放任ではなく、細かく丁寧に指導しなくてはいけない。大変な仕事だよ。できるかな?」。私は真剣な表情をして「できます!」と答えました。校長はニコニコ笑って「杉本さんにできるかな……。まぁ、よく考えておくよ」と言いました。

 翌年、私は1年生を担任することになりました。給食、清掃、授業、登下校、全校集会、運動会、学芸会……。いやはや、目の回る忙しさ。しかし、この1年ほど、子どもたちを教え育てているという実感を抱いたことはありませんでした。やってよかったな、と今でも思っています。子どもたちが私の指導をどう思っていたかは知りません。

 矢田小学校に3年いて、中畑小学校に行きました。その学校で研究主任になりました。3年生を担任しながら、研究主任という仕事をしなければなりませんでした。

 毎年、市の教育委員会は研究指定校を決めます。すると、その学校は、2年間、テーマを決めて全校で研究をして、その成果を市内の先生たちに見てもらうための研究発表会を華々しく開催しなければなりません。研究指定校の研究主任になるということは、重大な使命を担うことなのです。いやな役を仰せ付かったな、と思いました。しかし、教務主任がすぐれた能力の人でした。おかげで私は楽しく研究に打ち込むことができました。

 2年間の研究の成果を発表した翌年、校務主任として西尾中学校に赴任しました。担任を外されてしまいました。3年生に国語を教えながら、主としてPTA 関係の仕事をしました。PTAに関する研究をしていて、よく深夜まで話し合いが続きました。

 2年後、教務主任として室場小学校に赴くことになりました。充実した5年間を過ごしました。新任の教師を指導すること、年間、月間、週間の学校行事を計画立案すること、それが私の主な任務でした。素晴らしい教員たちに恵まれ、楽しい日々を送りました。

 それから福地北部小学校に移りました。そこに教務主任として2年間いました。最後はどうしても学級担任で教員生活を終えたい。教師の道を選んだ時、私は、校長や教頭という管理職に就かずに、担任として常に子どもたちと接していこうと決心していました。教務主任などになり、ここ数年、担任から遠ざかっていました。もうあと2年で定年だ。ぐずぐずしてはおられない。私は、意を決して「校務主任や教務主任を外して、担任に戻して欲しい」と教育委員会に直訴しました。

 私は、普通学級の担任として八ッ面小学校に移りました。教室で生徒たちの前に立った時、何と嬉しかったことか!ああ、これこそ教師の幸福というものだ!

 再び担任として教壇に立つことができて幸せ一杯だった私に、平成10年(1998)11月1日、悲劇が襲いました。この日、東京競馬場で一頭の名馬が死んだのです。肉親の死、愛犬の死、親友の死に匹敵するほどの悲しい別れでした。心から愛していた稀代の快速馬・サイレンススズカが死んでしまったのです。

 

◎サイレンススズカ

 競馬の魅力に取りつかれて25年ほどになります。その間に数々の馬に出会ってきました。しかし、一番好きな馬は、何と言ってもサイレンススズカです。

 競走馬は、その脚質によって次のように分類されます。スタートから先頭に立ってレースを進める「逃げ」、先頭には立たないで上位に付けてレースをする「先行」、真ん中あたりから徐々にポジションを上げて行く「差し」、道中は後方に待機し、ゴールの直前で一気にスパートをかける「追い込み」、流れに応じてレースを運ぶ「自在」。

 サイレンススズカは典型的な「逃げ馬」だったと言われています。稀代の「逃げ馬」だったと言われています。しかし、よく考えてみると、この快速馬は、意図的に逃げないと勝てない、一般的な「逃げ馬」ではありませんでした。この馬が持っていたスピードが桁違いだったため、他の馬は、スタートから付いて行けず、道中はますます差を付けられ、最後にはさらに引き離されてしまう結果になったのです。結果的には「逃げ馬」として分類されるでしょうが、サイレンススズカは、逃げたのではなく、ただ普通に自分の走りをしていただけでした。他の馬が、この次元の違う走りに、初めから終わりまで、付いて行けなかっただけなのです。

 大差の付いたレースとして有名なのは、1998年5月30日に中京競馬場で行われた「金鯱賞(GⅡ)」です。2着との差は10馬身、時間では1.8秒。サイレンススズカが勝ったのを見てからトイレに行って、戻ってきたら、ようやく2着の馬がゴールした、という笑い話が生まれたほどの圧勝でした。

 「金鯱賞」の後のG Ⅰレース「宝塚記念」にも勝ちました。そして、今でも伝説的な凄いレースとして名高い「毎日王冠(GⅡ)」が10月11日に東京競馬場で行われました。このレースには、その1ヵ月半後に行われた「ジャパンカップ(GⅠ)」で優勝するエルコンドルパサー、また、年末に行われた「有馬記念(GⅠ)」で優勝するグラスワンダーといった競馬史に残る名馬も出走しました。これだけの名馬が揃ったレースを見たいという13万人以上の観客が、早朝から東京競馬場に詰め掛けました。GⅡのレースとしては異例のことでした。我らの快速馬・サイレンススズカは、超一流の名馬たちに一度も接近を許すことなく完勝しました。

 それから3週間後。「天皇賞(秋)(GⅠ)」が行われた11月1日。この日がサイレンススズカの命日になりました。まだ多くの人の記憶に残っている悲しい出来事が突然起こりました。快調に飛ばしていたサイレンススズカが、4コーナー手前で突然走るのを止めました。騎手の武豊は、故障の発生したサイレンススズカをコースの外に持ち出しました。馬たちがその横をゴール目指して走って行きました。しかし、サイレンススズカは立ったままです。彼の膝の骨は粉々に砕けていたのです。左手根骨粉砕骨折。あれだけのスピード。あれだけの酷い膝の骨折。普通なら、その場に倒れ込み、騎手も大怪我をしていたでしょう。しかし、サイレンススズカは残りの3本脚で持ちこたえました。なぜか。『サイレンススズカ物語・地上で見た夢』の著者・安西美穂子は「サイレンススズカは、武豊を愛していたので、武の命を守った」と書きました。

 私は、緑色のメンコを被ったサイレンスズカの姿を決して忘れないでしょう。