少し前のことになりますがユトリロ展に行ってきました。
モーリス・ユトリロ(Maurice Utrillo, 1883年12月26日-1955年11月5日)近代のフランスの画家。
ユトリロの生涯は、精神病院の入退院の繰り返しでした。その原因は飲酒。
8歳にして精神薄弱の病名を付けられ、育児放棄の母に代わって子育てしたのは祖母でした。
酒飲みの祖母の手によって幼いころから精神安定剤と称して酒を与えられた彼は、17、8歳のころにはすでにアルコール依存症の治療が必要な体になっていました。
母親は、成功していた画家だったのですが恋多き女性で経済的には安定、不安定を繰り返します。
まともな職に就くも長続きせず、画家として生きようと決まってからも病院にいるかアトリエにいるかの日々。
第一次世界大戦、画商との契約解除、貧困、恵まれない環境の中で認められ始めたのは皮肉にものちに「白の時代」といわれるアルコール依存症だったこの時期に描いた絵でした。
美大に通った経験はなく独学で画風を確立しました。
モンマルトルを愛しパリの同じような街並みを繰り返し描き、同時代エコール・ドゥ・パリで活躍したマリー・ローランサン、藤田嗣二、シャガールの仲間入りとされたのです。
母親を崇拝し、認められたかった彼の愛を利用して、彼の母親と恋人は、ユトリロの絵に評価がつき始めると彼を缶詰にして一カ月に12枚もの制作を課しました。
母親は贅沢し息子をますます籠城させます。
精神病院を退院すると飲酒、絵画制作、そしてまた入院。
彼を救ったのは信仰心でした。
温かみがなかった彼の絵に色彩があふれ、人物が登場し、次第に教会の絵が増えていきます。
最愛の母の死後、パリの名誉市民の称号を与えられますが、その年に急死してしまいます。
彼の絵は上手い上手くないのくくりで考えれば、後者の方に入ると思います。
デッサン、構図すべては彼独自あるいは母親からの助言かシスレーの影響を受けています。
なぜここまでユトリロの絵が人気があるのか?
彼の母親への愛情の渇望が、寂しさ、詩情あふれる風景画を生み出したのです。
私たちは世間がいいというとすぐに時流に乗って、食べに行ったり見たりしますよね。
その風潮をうまく利用したのはピカソでした。
彼は若いころ盛り場へ行ってピカソっていう若い画家はすごいらしい!と自分で噂を広めたのです。
今でいうとTwitterでしょうか?しかもパリでいうところがミソなんですね。
世界中から画家が集まる文化の拠点だったのですから。
そういった意味では大酒のみのユトリロも画商との出会い、人とのつながりで彼を助けた人があってこその30代の成功といえるのかもしれません。
しかしながらその先にあるものは人の心を打つ作品です。
私たち後輩の画家は、時代を超えて変わらない感動を与えるという使命を忘れずに、絵を描き続けなければならないと思っています。
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モーリス・ユトリロ(Maurice Utrillo, 1883年12月26日-1955年11月5日)近代のフランスの画家。
ユトリロの生涯は、精神病院の入退院の繰り返しでした。その原因は飲酒。
8歳にして精神薄弱の病名を付けられ、育児放棄の母に代わって子育てしたのは祖母でした。
酒飲みの祖母の手によって幼いころから精神安定剤と称して酒を与えられた彼は、17、8歳のころにはすでにアルコール依存症の治療が必要な体になっていました。
母親は、成功していた画家だったのですが恋多き女性で経済的には安定、不安定を繰り返します。
まともな職に就くも長続きせず、画家として生きようと決まってからも病院にいるかアトリエにいるかの日々。
第一次世界大戦、画商との契約解除、貧困、恵まれない環境の中で認められ始めたのは皮肉にものちに「白の時代」といわれるアルコール依存症だったこの時期に描いた絵でした。
美大に通った経験はなく独学で画風を確立しました。
モンマルトルを愛しパリの同じような街並みを繰り返し描き、同時代エコール・ドゥ・パリで活躍したマリー・ローランサン、藤田嗣二、シャガールの仲間入りとされたのです。
母親を崇拝し、認められたかった彼の愛を利用して、彼の母親と恋人は、ユトリロの絵に評価がつき始めると彼を缶詰にして一カ月に12枚もの制作を課しました。
母親は贅沢し息子をますます籠城させます。
精神病院を退院すると飲酒、絵画制作、そしてまた入院。
彼を救ったのは信仰心でした。
温かみがなかった彼の絵に色彩があふれ、人物が登場し、次第に教会の絵が増えていきます。
最愛の母の死後、パリの名誉市民の称号を与えられますが、その年に急死してしまいます。
彼の絵は上手い上手くないのくくりで考えれば、後者の方に入ると思います。
デッサン、構図すべては彼独自あるいは母親からの助言かシスレーの影響を受けています。
なぜここまでユトリロの絵が人気があるのか?
彼の母親への愛情の渇望が、寂しさ、詩情あふれる風景画を生み出したのです。
私たちは世間がいいというとすぐに時流に乗って、食べに行ったり見たりしますよね。
その風潮をうまく利用したのはピカソでした。
彼は若いころ盛り場へ行ってピカソっていう若い画家はすごいらしい!と自分で噂を広めたのです。
今でいうとTwitterでしょうか?しかもパリでいうところがミソなんですね。
世界中から画家が集まる文化の拠点だったのですから。
そういった意味では大酒のみのユトリロも画商との出会い、人とのつながりで彼を助けた人があってこその30代の成功といえるのかもしれません。
しかしながらその先にあるものは人の心を打つ作品です。
私たち後輩の画家は、時代を超えて変わらない感動を与えるという使命を忘れずに、絵を描き続けなければならないと思っています。