◎夏目漱石
明治時代に大塚楠緒子という女流作家がいました。文豪・夏目漱石の生き方や創作活動に非常に大きな影響を与えた女性です。河内一郎『漱石のマドンナ』(朝日新聞出版)に基づいて、彼女に対する漱石の激しい恋情と深い苦悩を辿ってみます。
大塚楠緒子は、明治8年(1875)8月9日、東京市麹町区(現・千代田区)に、元土佐藩士で鹿児島裁判所所長や東京控訴院長などを歴任した大塚正男・伸子夫妻の長女として生まれた。(戸籍名・久寿雄。ペンネーム・楠緒子)
明治26年(18歳)、東京女子師範学校(現・お茶の水大学)を首席で卒業した。
楠緒子の父・正男は、帝国大学寄宿舎の舎監をしていた親友の清水彦五郎に、寄宿舎に住んでいる者で、娘の婿養子になるのにふさわしい男を誰か紹介してほしいと頼んだ。寄宿舎には、小屋保治(美学)、米山保三郎( 空間学)、夏目金之助(英文学)などが住んでいた。舎監の清水は、きまじめな秀才タイプの小屋保治を推薦した。
明治26年7月下旬、小屋保治は静岡県興津に行き、清見寺で大塚家の人たち(母親の伸子、楠緒子、弟の豊)と会った。
楠緒子は、すぐには返事をしなかった。哲学科出身で、文学的知識の乏しい小屋にやや失望した彼女は、返事を渋ったのである。父親はもう一度、舎監の清水に、別の文学部出身者を紹介してほしいと頼んだ。そこで、清水は、秀才の誉れの高い、英文科出身の夏目金之助を紹介した。小屋も夏目も、美しい楠緒子にすっかり魅了されてしまった。
楠緒子は長い間迷いに迷った。実直で学者肌の小屋保治。文学的才能はあるが神経質な夏目金之助。親の評価ははっきりしていた。母親の伸子は小屋を強く推した。父親の正男も小屋に傾いた。迷っていた楠緒子は、小屋と結婚することに決心した。
ところが、問題が一つ生じた。小屋の父親と長兄が反対したのである。小屋は群馬県の実家に父親や長兄を説得しに出掛けた。それを知ったライバルの夏目は、話し合いの結果が知りたくて、すぐに伊香保温泉に向かった。泊まった宿から小屋に手紙を出して、伊香保温泉に来るように頼んだ。伊香保にやって来た小屋は、父親や兄を説得できる見通しがついたと話した。それを聞いて、夏目は絶望した。
明治28年2月、小屋保治と大塚楠緒子は結納を交わした。3月16日、結婚披露宴が開かれた。40名以上の出席者の中に、恋に破れた夏目の姿もあった。
失意の夏目金之助は、明治28年3月、高等師範学校と東京専門学校を辞職し、愛媛県尋常中学校嘱託教員になることを承諾した。4月、松山中学校に赴任。12月、東京で貴族院書記官長・中根重一の長女・鏡子と見合いをした。翌年の4月、熊本の第五高等学校に赴任。そして、6月、鏡子と結婚した。
明治43年11月9日、大塚楠緒子が38歳で死去した。入院中だった夏目漱石は「あるほどの菊抛入れよ棺の中」という手向けの句を作った。
楠緒子と結婚した大塚保治は、ヨーロッパ留学後、東大教授になり、美学、美術史講座を担当し、日本における美学研究の基礎を築いた。1931年に死去した。享年63。
◎『草枕』
先日、漱石の『草枕』を久しぶりに読みました。永遠の女性・大塚楠緒子のことを知った後だったので、非常に興味深く読むことができました。
漱石は、明治38年1月に「吾輩は猫である」を『ホトトギス』に発表しました。1回だけの積もりが、好評だったので翌年7月まで連載されました。明治39年4月に「坊っちゃん」が『ホトトギス』に発表され、9月には「草枕」が『新小説』に発表されました。原稿用紙二百枚を超える「草枕」は、わずか10日ほどで書き上げられました。
「草枕」の有名な場面を選んで引用します。たくさん省略してあります。
〈冒頭の文章〉
山路を登りながら、こう考えた。
知に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい。住みにくさが高じると、安い所へ引き越したくなる。どこへ越しても住みにくいと悟ったとき、詩が生まれて、絵ができる。
越すことのならぬ世が住みにくければ、住みにくい所をどれほどか、くつろげて、つかの間の命を、つかの間でも住みよくせねばならぬ。ここに詩人という天職ができて、ここに画家という使命がくだる。あらゆる芸術の士は人の世をのどかにし、人の心を豊かにするがゆえに尊い。
世に住むこと二十年にして、住むに甲斐ある世と知った。二十五年にして明暗は表裏のごとく、日の当たる所にはきっと影がさすと悟った。三十の今日はこう思っている。─喜びの深きとき憂いいよいよ深く、楽しみの大いなるほど苦しみも大きい。これを切り離そうとすると身が持てぬ。片付けようとすれば世が立たぬ。恋はうれしい。うれしい恋が積もれば、恋をせぬ昔がかえって恋しかろ。
〈茶店の場面〉
「おい」と声をかけたが、返事がない。
「おい」とまた声をかける。返事がないから、無断でずっと入って、床几の上へ腰を下ろした。しばらくすると、奥の方から足音がして、煤けた障子がさらりと開く。中から一人の婆さんが出る。
「おばさん、ここをちょっと借りたよ」
「はい、これは、いっこう存じませんで」
〈風呂場の場面〉
寒い。手拭を下げて、湯壷へ下る。
余は湯船の縁に仰向けの頭を支えて、透き通る湯の中の軽き体を、できるだけ抵抗力なきあたりへ漂わしてみた。ふわり、ふわりと魂がくらげのように浮いている。世の中もこんな気になれば楽なものだ。
突然、風呂場の戸がさらりと開いた。誰か来たなと、身を浮かしたまま、視線だけを入り口に注ぐ。余は、女とふたり、この風呂場の中にあることをさとった。女の影は余が前に早くも現れた。もうろうと、黒きかと思わるるほどの髪をぼかして、真っ白な姿がしだいに浮き上がってくる。輪郭はしだいに白く浮き上がる。
渦巻く煙をつんざいて、白い姿は階段を飛び上がる。ホホホホと鋭く笑う女の声が、廊下に響いて、静かなる風呂場をしだいに向こうへ遠のく。
余はがぶりと湯を飲んだまま湯船の中につっ立つ。驚いた波が、胸へ当たる。縁を越す湯の音がさあさあと鳴る。
■杉本武之プロフィール
1939年 碧南市に生まれる。
京都大学文学部卒業。
翻訳業を経て、小学校教師になるために愛知教育大学に入学。
25年間、西尾市の小中学校に勤務。
定年退職後、名古屋大学教育学部の大学院で学ぶ。
〈趣味〉読書と競馬
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・老春の戯言 No.008食品中毒 ・私の出会った作品87 ・この指とまれ330 ・長澤晶子のSPEED★COOKING!
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◎夏目漱石
明治時代に大塚楠緒子という女流作家がいました。文豪・夏目漱石の生き方や創作活動に非常に大きな影響を与えた女性です。河内一郎『漱石のマドンナ』(朝日新聞出版)に基づいて、彼女に対する漱石の激しい恋情と深い苦悩を辿ってみます。
大塚楠緒子は、明治8年(1875)8月9日、東京市麹町区(現・千代田区)に、元土佐藩士で鹿児島裁判所所長や東京控訴院長などを歴任した大塚正男・伸子夫妻の長女として生まれた。(戸籍名・久寿雄。ペンネーム・楠緒子)
明治26年(18歳)、東京女子師範学校(現・お茶の水大学)を首席で卒業した。
楠緒子の父・正男は、帝国大学寄宿舎の舎監をしていた親友の清水彦五郎に、寄宿舎に住んでいる者で、娘の婿養子になるのにふさわしい男を誰か紹介してほしいと頼んだ。寄宿舎には、小屋保治(美学)、米山保三郎( 空間学)、夏目金之助(英文学)などが住んでいた。舎監の清水は、きまじめな秀才タイプの小屋保治を推薦した。
明治26年7月下旬、小屋保治は静岡県興津に行き、清見寺で大塚家の人たち(母親の伸子、楠緒子、弟の豊)と会った。
楠緒子は、すぐには返事をしなかった。哲学科出身で、文学的知識の乏しい小屋にやや失望した彼女は、返事を渋ったのである。父親はもう一度、舎監の清水に、別の文学部出身者を紹介してほしいと頼んだ。そこで、清水は、秀才の誉れの高い、英文科出身の夏目金之助を紹介した。小屋も夏目も、美しい楠緒子にすっかり魅了されてしまった。
楠緒子は長い間迷いに迷った。実直で学者肌の小屋保治。文学的才能はあるが神経質な夏目金之助。親の評価ははっきりしていた。母親の伸子は小屋を強く推した。父親の正男も小屋に傾いた。迷っていた楠緒子は、小屋と結婚することに決心した。
ところが、問題が一つ生じた。小屋の父親と長兄が反対したのである。小屋は群馬県の実家に父親や長兄を説得しに出掛けた。それを知ったライバルの夏目は、話し合いの結果が知りたくて、すぐに伊香保温泉に向かった。泊まった宿から小屋に手紙を出して、伊香保温泉に来るように頼んだ。伊香保にやって来た小屋は、父親や兄を説得できる見通しがついたと話した。それを聞いて、夏目は絶望した。
明治28年2月、小屋保治と大塚楠緒子は結納を交わした。3月16日、結婚披露宴が開かれた。40名以上の出席者の中に、恋に破れた夏目の姿もあった。
失意の夏目金之助は、明治28年3月、高等師範学校と東京専門学校を辞職し、愛媛県尋常中学校嘱託教員になることを承諾した。4月、松山中学校に赴任。12月、東京で貴族院書記官長・中根重一の長女・鏡子と見合いをした。翌年の4月、熊本の第五高等学校に赴任。そして、6月、鏡子と結婚した。
明治43年11月9日、大塚楠緒子が38歳で死去した。入院中だった夏目漱石は「あるほどの菊抛入れよ棺の中」という手向けの句を作った。
楠緒子と結婚した大塚保治は、ヨーロッパ留学後、東大教授になり、美学、美術史講座を担当し、日本における美学研究の基礎を築いた。1931年に死去した。享年63。
◎『草枕』
先日、漱石の『草枕』を久しぶりに読みました。永遠の女性・大塚楠緒子のことを知った後だったので、非常に興味深く読むことができました。
漱石は、明治38年1月に「吾輩は猫である」を『ホトトギス』に発表しました。1回だけの積もりが、好評だったので翌年7月まで連載されました。明治39年4月に「坊っちゃん」が『ホトトギス』に発表され、9月には「草枕」が『新小説』に発表されました。原稿用紙二百枚を超える「草枕」は、わずか10日ほどで書き上げられました。
「草枕」の有名な場面を選んで引用します。たくさん省略してあります。
〈冒頭の文章〉
山路を登りながら、こう考えた。
知に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい。住みにくさが高じると、安い所へ引き越したくなる。どこへ越しても住みにくいと悟ったとき、詩が生まれて、絵ができる。
越すことのならぬ世が住みにくければ、住みにくい所をどれほどか、くつろげて、つかの間の命を、つかの間でも住みよくせねばならぬ。ここに詩人という天職ができて、ここに画家という使命がくだる。あらゆる芸術の士は人の世をのどかにし、人の心を豊かにするがゆえに尊い。
世に住むこと二十年にして、住むに甲斐ある世と知った。二十五年にして明暗は表裏のごとく、日の当たる所にはきっと影がさすと悟った。三十の今日はこう思っている。─喜びの深きとき憂いいよいよ深く、楽しみの大いなるほど苦しみも大きい。これを切り離そうとすると身が持てぬ。片付けようとすれば世が立たぬ。恋はうれしい。うれしい恋が積もれば、恋をせぬ昔がかえって恋しかろ。
〈茶店の場面〉
「おい」と声をかけたが、返事がない。
「おい」とまた声をかける。返事がないから、無断でずっと入って、床几の上へ腰を下ろした。しばらくすると、奥の方から足音がして、煤けた障子がさらりと開く。中から一人の婆さんが出る。
「おばさん、ここをちょっと借りたよ」
「はい、これは、いっこう存じませんで」
〈風呂場の場面〉
寒い。手拭を下げて、湯壷へ下る。
余は湯船の縁に仰向けの頭を支えて、透き通る湯の中の軽き体を、できるだけ抵抗力なきあたりへ漂わしてみた。ふわり、ふわりと魂がくらげのように浮いている。世の中もこんな気になれば楽なものだ。
突然、風呂場の戸がさらりと開いた。誰か来たなと、身を浮かしたまま、視線だけを入り口に注ぐ。余は、女とふたり、この風呂場の中にあることをさとった。女の影は余が前に早くも現れた。もうろうと、黒きかと思わるるほどの髪をぼかして、真っ白な姿がしだいに浮き上がってくる。輪郭はしだいに白く浮き上がる。
渦巻く煙をつんざいて、白い姿は階段を飛び上がる。ホホホホと鋭く笑う女の声が、廊下に響いて、静かなる風呂場をしだいに向こうへ遠のく。
余はがぶりと湯を飲んだまま湯船の中につっ立つ。驚いた波が、胸へ当たる。縁を越す湯の音がさあさあと鳴る。