◎太宰治(その2)
私は久しぶりに太宰治に関連した読書に没頭しました。
小説は勿論のこと、彼に関する数々の伝記や回想録も読みました。長部日出雄『桜桃とキリスト・もう一つの太宰治伝』(文春文庫)、野原一夫『回想・太宰治』(新潮文庫)、杉森久英『苦悩の旗手・太宰治』(河出文庫)などと共に、妻だった津島美知子の『回想の太宰治』(人文書院)も読みました。
長く続いた太宰読書期間が終わった時、私は、美知子夫人のことが可哀想で仕方がありませんでした。彼女の悲しみと苦しみを思うと、胸がいっぱいになってしまったのです。
終戦後、太宰一家は疎開していた津軽の金木から東京の三鷹の家に戻って来ました。それからの3年間、太宰の行動は妻の美知子を苦しめました。太宰治のファンの太田静子に子供(太田治子)を産ませました。そして、最後には美容師の山崎富栄と玉川上水に投身自殺をしてしまいました。人気作家の心中事件─3人の子供たちと共に後に取り残された美知子夫人は、どんなに悩み苦しんだことでしょう。
なお、美知子夫人は平成9年2月1日、心臓発作で亡くなりました。85歳でした。
◎「桜桃」
死ぬ1カ月前、太宰治は、雑誌『世界』に最後の短編小説「桜桃」を発表しました。発達に障害のある長男に対する深い悩みが背景にある夫婦の話です。暗い話です。
─子供より親が大事、と思いたい。子供よりも、親のほうが弱いのだ。少なくとも、私の家庭においては、そうである。
外から見れば、平和な家庭である。夫婦はいたわり、尊敬し合い、夫は妻を打ったことなど無いし、「出ていけ」「出ていきます」と乱暴な口争いをしたことも一度も無い。父も母も負けずに子供を可愛がり、子供たちも父母に陽気によくなついている。
しかし、それは外見。夫婦は互いに相手の苦痛を知っているのだが、それに触らないように努めて、父が冗談を言えば、母も笑う。
子供が三人。7歳の長女も、今年の春に生まれた次女も、少し風邪を引き易いけれども、まずまあ人並。しかし、4歳の長男は、痩せこけていて、まだ立てない。言葉は、アアとかダアとか言うだけで一語も話せず、また人の言葉を聞き分けることもできない。這って歩いていて、ウンコもオシッコも教えない。それでいて、ごはんは実にたくさん食べる。けれども、いつも痩せて小さく、髪の毛も薄く、少しも成長しない。
父も母も、この長男について、深く話し合うことを避けている。白痴、唖、…それを一言でも口に出して言って、二人で肯定し合うのは、あまりに悲惨だからである。母は時々、この子を強く抱きしめる。父はしばしば発作的に、この子を抱いて川に飛び込み死んでしまいたいと思う。
ああ、ただ単に、発育が遅れているというだけのことであってくれたら!この長男が、急に成長し、父母の心配を憤り嘲笑するようになってくれたら!夫婦は親戚にも友人にも誰にも告げず、密かに心でそれを念じながら、表面は何も気にしていないみたいに、長男をからかって笑っている。
妻の口から出た「涙の谷」という一言が導火線になって、二人の間が険悪になった。
「これから仕事部屋の方へ出掛けたい」と言って、私はお金と原稿用紙と辞書を持って、ふわりと外に出た。もう、仕事どころではない。自殺のことばかり考えている。そして、酒を飲む場所へ直行した。「きょうは、夫婦喧嘩でね、陰にこもってやりきれねえんだ。飲もう。今夜は泊まるぜ。だんぜん泊まる」
桜桃が出た。私の家では、子供たちに、贅沢な物を食べさせない。子供たちに桜桃を食べさせたら、喜ぶだろう。父が持って帰ったら、喜ぶだろう。蔓を糸でつないで、首にかけると、桜桃は、珊瑚の首飾りのように見えるだろう。
しかし、父は、大皿に盛られた桜桃を、まずそうに食べては種を吐き、また食べては種を吐き、そうして心の中で虚勢みたいに呟く言葉は、子供よりも親が大事。
◎「時計」
太宰治が死んだのは昭和23年6月でした。それから30年後の昭和53年5月、妻の津島美知子は『回想の太宰治』(人文書院)を出版しました。
その中に「時計」という短い文章があります。こんな内容です。
─東京の三鷹の家には、時計と言ったら、私の腕時計しかなかった。結婚祝いに貰った置時計もすぐに壊れてしまっていた。私の妹に「この家には時計も無いんだから」と言われた。私の姉からは「二人とも貧乏性だ」と言われた。
太宰は、酒や食べ物以外にお金を使うこと、殊に家財道具類など買うことが大嫌いで、ラジオも無かった。毎日決まって書斎の太宰が時間を聞くのは夕方で、それは仕事を止めて散歩に出る合図でもあった。
わが家で初めて置時計を買ったのは、昭和16年6月に長女が生まれた直後で、これから授乳に必要になると思って、産褥から頼むと、太宰は承知して、散歩に出て行った。
どんな時計を買ってきてくれるかと期待していると、やがてご機嫌で帰って来て、私の枕元で懐から取り出したのは、手のひらに乗るほどの小さい安っぽいものだった。呆れる私に、太宰は「一番安いのをくれって言って買ったんだ。2円だ」と得意顔で言った。
その2円の置時計はよく止まるようになった。
昭和19年、食糧難で困っていた時、ニンジンやゴボウを世話してくれる人がいて、私は一人で買い出しに出掛けた。重い野菜の束を持ち帰るのは大変だった。遅くなって家に帰って来たが、途中で落としたか掏られたか、腕時計が無くなっているのに気がついた。
玄関の戸を開けて、迎えに出た太宰に、私は「時計を無くした」と泣いて言った。太宰は怒った顔で「時計を無くしたって!時計なんか買ってやらないから」と言った。
昭和20年の夏から、太宰の郷里で暮らすようになった。広い台所の正面の柱には大きな掛時計があった。
終戦後、太宰のところに闇商人がしげしげと出入りするようになった。ある時、太宰はその一人から中古の懐中時計を買った。その時計には鎖の下に丸いメダルが付いていた。
満州の新京の建国神社の社殿が浮彫になっていた。その建国神社のメダルへの嫌悪感もあって、私は太宰をなじった。太宰は「いいじゃないか、怒るねえ、まさに柳眉逆立つというところだね」と言って、私の攻撃から身をかわした。
太宰が死んで遺された時計はタンスにしまった。こんな時計一つ買わされたからといってあんなにむきになって、つっかかることはなかったのにと悔やまれた。
■杉本武之プロフィール
1939年 碧南市に生まれる。
京都大学文学部卒業。
翻訳業を経て、小学校教師になるために愛知教育大学に入学。
25年間、西尾市の小中学校に勤務。
定年退職後、名古屋大学教育学部の大学院で学ぶ。
〈趣味〉読書と競馬
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◎ 太宰治(その2)
私は久しぶりに太宰治に関連した読書に没頭しました。
小説は勿論のこと、彼に関する数々の伝記や回想録も読みました。長部日出雄『桜桃とキリスト・もう一つの太宰治伝』(文春文庫)、野原一夫『回想・太宰治』(新潮文庫)、杉森久英『苦悩の旗手・太宰治』(河出文庫)などと共に、妻だった津島美知子の『回想の太宰治』(人文書院)も読みました。
長く続いた太宰読書期間が終わった時、私は、美知子夫人のことが可哀想で仕方がありませんでした。彼女の悲しみと苦しみを思うと、胸がいっぱいになってしまったのです。
終戦後、太宰一家は疎開していた津軽の金木から東京の三鷹の家に戻って来ました。それからの3年間、太宰の行動は妻の美知子を苦しめました。太宰治のファンの太田静子に子供(太田治子)を産ませました。そして、最後には美容師の山崎富栄と玉川上水に投身自殺をしてしまいました。人気作家の心中事件─3人の子供たちと共に後に取り残された美知子夫人は、どんなに悩み苦しんだことでしょう。
なお、美知子夫人は平成9年2月1日、心臓発作で亡くなりました。85歳でした。
◎「桜桃」
死ぬ1カ月前、太宰治は、雑誌『世界』に最後の短編小説「桜桃」を発表しました。発達に障害のある長男に対する深い悩みが背景にある夫婦の話です。暗い話です。
─子供より親が大事、と思いたい。子供よりも、親のほうが弱いのだ。少なくとも、私の家庭においては、そうである。
外から見れば、平和な家庭である。夫婦はいたわり、尊敬し合い、夫は妻を打ったことなど無いし、「出ていけ」「出ていきます」と乱暴な口争いをしたことも一度も無い。父も母も負けずに子供を可愛がり、子供たちも父母に陽気によくなついている。
しかし、それは外見。夫婦は互いに相手の苦痛を知っているのだが、それに触らないように努めて、父が冗談を言えば、母も笑う。
父は家事を何もしない。外に仕事部屋があって、毎日出掛ける。一日に数枚しか書けない。酒が大好き。飲み過ぎると、げっそり痩せてしまって寝込む。
子供が三人。7歳の長女も、今年の春に生まれた次女も、少し風邪を引き易いけれども、まずまあ人並。しかし、4歳の長男は、痩せこけていて、まだ立てない。言葉は、アアとかダアとか言うだけで一語も話せず、また人の言葉を聞き分けることもできない。這って歩いていて、ウンコもオシッコも教えない。それでいて、ごはんは実にたくさん食べる。けれども、いつも痩せて小さく、髪の毛も薄く、少しも成長しない。
父も母も、この長男について、深く話し合うことを避けている。白痴、唖、…それを一言でも口に出して言って、二人で肯定し合うのは、あまりに悲惨だからである。母は時々、この子を強く抱きしめる。父はしばしば発作的に、この子を抱いて川に飛び込み死んでしまいたいと思う。
ああ、ただ単に、発育が遅れているというだけのことであってくれたら!この長男が、急に成長し、父母の心配を憤り嘲笑するようになってくれたら!夫婦は親戚にも友人にも誰にも告げず、密かに心でそれを念じながら、表面は何も気にしていないみたいに、長男をからかって笑っている。
妻の口から出た「涙の谷」という一言が導火線になって、二人の間が険悪になった。
「これから仕事部屋の方へ出掛けたい」と言って、私はお金と原稿用紙と辞書を持って、ふわりと外に出た。もう、仕事どころではない。自殺のことばかり考えている。そして、酒を飲む場所へ直行した。「きょうは、夫婦喧嘩でね、陰にこもってやりきれねえんだ。飲もう。今夜は泊まるぜ。だんぜん泊まる」
桜桃が出た。私の家では、子供たちに、贅沢な物を食べさせない。子供たちに桜桃を食べさせたら、喜ぶだろう。父が持って帰ったら、喜ぶだろう。蔓を糸でつないで、首にかけると、桜桃は、珊瑚の首飾りのように見えるだろう。
しかし、父は、大皿に盛られた桜桃を、まずそうに食べては種を吐き、また食べては種を吐き、そうして心の中で虚勢みたいに呟く言葉は、子供よりも親が大事。
◎「時計」
太宰治が死んだのは昭和23年6月でした。それから30年後の昭和53年5月、妻の津島美知子は『回想の太宰治』(人文書院)を出版しました。
その中に「時計」という短い文章があります。こんな内容です。
─東京の三鷹の家には、時計と言ったら、私の腕時計しかなかった。結婚祝いに貰った置時計もすぐに壊れてしまっていた。私の妹に「この家には時計も無いんだから」と言われた。私の姉からは「二人とも貧乏性だ」と言われた。
太宰は、酒や食べ物以外にお金を使うこと、殊に家財道具類など買うことが大嫌いで、ラジオも無かった。毎日決まって書斎の太宰が時間を聞くのは夕方で、それは仕事を止めて散歩に出る合図でもあった。
わが家で初めて置時計を買ったのは、昭和16年6月に長女が生まれた直後で、これから授乳に必要になると思って、産褥から頼むと、太宰は承知して、散歩に出て行った。
どんな時計を買ってきてくれるかと期待していると、やがてご機嫌で帰って来て、私の枕元で懐から取り出したのは、手のひらに乗るほどの小さい安っぽいものだった。呆れる私に、太宰は「一番安いのをくれって言って買ったんだ。2円だ」と得意顔で言った。
その2円の置時計はよく止まるようになった。
昭和19年、食糧難で困っていた時、ニンジンやゴボウを世話してくれる人がいて、私は一人で買い出しに出掛けた。重い野菜の束を持ち帰るのは大変だった。遅くなって家に帰って来たが、途中で落としたか掏られたか、腕時計が無くなっているのに気がついた。
玄関の戸を開けて、迎えに出た太宰に、私は「時計を無くした」と泣いて言った。太宰は怒った顔で「時計を無くしたって!時計なんか買ってやらないから」と言った。
昭和20年の夏から、太宰の郷里で暮らすようになった。広い台所の正面の柱には大きな掛時計があった。
終戦後、太宰のところに闇商人がしげしげと出入りするようになった。ある時、太宰はその一人から中古の懐中時計を買った。その時計には鎖の下に丸いメダルが付いていた。
満州の新京の建国神社の社殿が浮彫になっていた。その建国神社のメダルへの嫌悪感もあって、私は太宰をなじった。太宰は「いいじゃないか、怒るねえ、まさに柳眉逆立つというところだね」と言って、私の攻撃から身をかわした。
太宰が死んで遺された時計はタンスにしまった。こんな時計一つ買わされたからといってあんなにむきになって、つっかかることはなかったのにと悔やまれた。