◎窪田空穂

   先月のこと、書斎の本棚を眺めていて、『窪田空穂歌文集』(講談社文芸文庫)を見つけました。20年ほど前に購入した文庫本ですが、買ったまま一度も読むこともなく本棚に放置されていました。近代日本を代表する歌人の一人である窪田空穂の代表的な短歌や散文が収録されています。窪田空穂という名前は知っていましたが、彼の作品は、短歌も歌論も随筆も、何一つ読んだことがありませんでした。

 最初に載っている短歌の部分は飛ばして、随筆から読み始めました。余り期待せずに読み出したのですが、たちまちその文章の魅力に取り付かれてしまいました。「解説」(高野公彦)に次のように書かれていますが、私も全く同感です。

 「空穂の文章は平易で読みやすい。多くの文章は、友人に向かって語る、といった感じで書かれている。しかし、感情の起伏や濃淡によって語り口におのずから強弱のアクセントがあり、平板ではないから、楽しく読むことができる。そして何よりも、図抜けた記憶力に驚嘆させられる。空穂の頭脳の中には、見聞体験した事柄や交流のあった人物の印象などが克明に記録されている。それらを、そっくり両手で掬うように生き生きと取り出して、文章に写す。取り出す際に空穂の柔軟な人生観が働き、時には容赦ない批評の眼が働く」

 私は夢中で読みました。そして、巻末に載っている「著書目録」で『窪田空穂随筆集』(岩波文庫)の存在を知ると、急いで市民図書館に行って借りて来ました。

 すべて魅力的な随筆ですが、ここでは「栗」という小品を紹介します。本当に短い作品なので全文を引用します。

◎「栗」

 ちょっとした事で、いくら時が経っても不思議に忘れずにいることがある。これはそうした事である。 私が小学生になるかならずにいた時であるから、今から五十年余りも昔のことである。私は信濃の松本平の農家の子供として、祖母と母の間に、甘えたり叱られたりして過ごしていた。春先のこと、私は虫歯を病み出した。当時の農村では、歯医者などという者は見たこともなかった。梅漬を噛まされたり、麦粉の酢で解いたものを頬に貼られたりしたが、痛みが去らないので、私はわあわあと泣いていた。もて余した祖母は、「連れて行って、嘉次さに呪なってもらわず」と母に言って、一町ほど離れているその家の薄暗い座敷へ私を連れ込んだ。その頃はまだ、頭にちょん髷を残している年寄が三、四人いたが、嘉次さはその一人であった。渋茶色の、頬のこけて細い、木像のような顔をしたその年寄、畳の上に一枚の白紙を置き、その上に私を、足を踏み揃えて立たせ、合掌して、口に呪文を唱えていたが、済むと、筆で、私の足の型をその白紙の上へ取った。型は顔に似ていた。嘉次さはその顔へ歯を描き添え、痛むという辺りへ太い木綿針を刺して、祖母に渡した。この座敷へ上がってそうした事をされる時には、私は泣くのを忘れていたことを覚えている。

 帰りしなに嘉次さの婆様は、「おとなしくいさっして」と言って、紙にひねった物をくれた。褒美だと思って持って来たが、ひろげて見ると、大きな生栗の三つ四つだったので、つまらなかった。珍しくもなく、痛む歯では食べもされないからである。

 歯の痛みを忘れた私は、裏口の方へ出、畑を越して裏門の所まで行った。袂にある栗に気が付くと、垣根の根元の土を掘って、そこへ埋めた。食べられない忌忌しさにそそのかされたのであろう。そしてそれきり忘れてしまった。

 そこに栗の若木の一尺ほどのもののあるのを見つけて、あれと心付いた時には、私は妙に嬉しかった。これは俺の木だ、俺の物だと思って、胸がおどる気がして祖母にも母にも話した。ずんずん伸びる木は、桃栗三年というその三年目頃には、花を持ち、毬となり、大きくなって毬は笑んで、茶色の艶々した栗の実を覗かせた。それを見る嬉しさは、静かな、しかし堪らないほどのもので、そしてその栗の実の一つを掌に載せた時の感触は、今でも思い出せるほどである。

 何でそんなに嬉しかったのかは、その時には分からなかった。それは後になって分かった。我が手によって、我をとおして、一つの物を生み出したという喜びである。これはよほど深い人間の本能で、幼い私は偶然にもそれを経験させられたのである。ちょっとした事で、忘れないということには、それ相応の理由があるものと見える。

 

◎窪田空穂の略年譜

・明治10年(1877)6月8日、長野県東筑摩郡和田村(現松本市)に生まれる。本名・通治(つうじ)。父

・庄次郎は勤勉な篤農家であった。

・明治23年、松本高等小学校を卒業。親には内緒で松本中学校を受験し合格。

・明治28年、松本中学校卒業。親に内緒で東京専門学校(現早稲田大学)の補欠試験を受けて合格し入学。しかし、翌年、退学し、大阪の米穀仲買業の店で働く。

・明治32年、秋、故郷の小学校の代用教員となる。小学校教員の太田水穂と交わり、短歌を作り始める。翌年、上京して東京専門学校の編入試験を受け、第2学年に再入学。

・明治37年、東京専門学校卒業。電報新聞社に入社。

・大正9年(1920)4月、早稲田大学文学部国文科の専任講師となる。6年後、教授となる。

・昭和23年(1948)3月、定年退職、名誉教授となる。

・昭和33年11月、文化功労者となる。

・昭和42年(1967)4月12日午後8時、心臓衰弱のため死去。享年90。

 

◎長歌「捕虜の死」

 空穂の次男・茂二郎(大正7年生まれ)は、中国大陸に出征していましたが、戦争が終わっても帰還しませんでした。空穂は、息子の安否を気遣っていました。昭和22年5月、一緒に収容されていて日本に帰って来た戦友から、茂二郎が前年の2月にシベリアの捕虜収容所で病死したことを聞かされました。71歳の空穂は、直ちに哀切極まりない長歌を作りました。ごく一部を引用します。

 「シベリアの涯なき曠野、イルクーツクチェレンホーボの、バイカル湖越えたるあなた、炭山を近く望みて、あわれなる宿舎むらがる。(中略)鉄条網めぐらす内に、在満の我が兵五千、捕虜として入れられにける。厳冬のチェレンホーボは、氷点下五六十度か、言絶ゆる恐ろしき寒威い、人間の感覚を断ち、(中略)死を期して祖国を出でし、国防の兵なる彼等、その死のいかにありとも、今更に嘆くとはせじ。(中略)家畜にも劣るさまもて、殺されて死にゆけるなり。嘆かずであり得むやは。この中に吾子まじれり、むごきかな、あはれむごきかな、かはゆき吾子」

 

■杉本武之プロフィール

1939年 碧南市に生まれる。

京都大学文学部卒業。

翻訳業を経て、小学校教師になるために愛知教育大学に入学。

25年間、西尾市の小中学校に勤務。

定年退職後、名古屋大学教育学部の大学院で学ぶ。

〈趣味〉読書と競馬

 

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◎窪田空穂

 先月のこと、書斎の本棚を眺めていて、『窪田空穂歌文集』(講談社文芸文庫)を見つけました。20年ほど前に購入した文庫本ですが、買ったまま一度も読むこともなく本棚に放置されていました。近代日本を代表する歌人の一人である窪田空穂の代表的な短歌や散文が収録されています。窪田空穂という名前は知っていましたが、彼の作品は、短歌も歌論も随筆も、何一つ読んだことがありませんでした。

 最初に載っている短歌の部分は飛ばして、随筆から読み始めました。余り期待せずに読み出したのですが、たちまちその文章の魅力に取り付かれてしまいました。「解説」(高野公彦)に次のように書かれていますが、私も全く同感です。

 「空穂の文章は平易で読みやすい。多くの文章は、友人に向かって語る、といった感じで書かれている。しかし、感情の起伏や濃淡によって語り口におのずから強弱のアクセントがあり、平板ではないから、楽しく読むことができる。そして何よりも、図抜けた記憶力に驚嘆させられる。空穂の頭脳の中には、見聞体験した事柄や交流のあった人物の印象などが克明に記録されている。それらを、そっくり両手で掬うように生き生きと取り出して、文章に写す。取り出す際に空穂の柔軟な人生観が働き、時には容赦ない批評の眼が働く」

 私は夢中で読みました。そして、巻末に載っている「著書目録」で『窪田空穂随筆集』(岩波文庫)の存在を知ると、急いで市民図書館に行って借りて来ました。

 すべて魅力的な随筆ですが、ここでは「栗」という小品を紹介します。本当に短い作品なので全文を引用します。

◎「栗」

 ちょっとした事で、いくら時が経っても不思議に忘れずにいることがある。これはそうした事である。 私が小学生になるかならずにいた時であるから、今から五十年余りも昔のことである。私は信濃の松本平の農家の子供として、祖母と母の間に、甘えたり叱られたりして過ごしていた。春先のこと、私は虫歯を病み出した。当時の農村では、歯医者などという者は見たこともなかった。梅漬を噛まされたり、麦粉の酢で解いたものを頬に貼られたりしたが、痛みが去らないので、私はわあわあと泣いていた。もて余した祖母は、「連れて行って、嘉次さに呪なってもらわず」と母に言って、一町ほど離れているその家の薄暗い座敷へ私を連れ込んだ。その頃はまだ、頭にちょん髷を残している年寄が三、四人いたが、嘉次さはその一人であった。渋茶色の、頬のこけて細い、木像のような顔をしたその年寄、畳の上に一枚の白紙を置き、その上に私を、足を踏み揃えて立たせ、合掌して、口に呪文を唱えていたが、済むと、筆で、私の足の型をその白紙の上へ取った。型は顔に似ていた。嘉次さはその顔へ歯を描き添え、痛むという辺りへ太い木綿針を刺して、祖母に渡した。この座敷へ上がってそうした事をされる時には、私は泣くのを忘れていたことを覚えている。

 帰りしなに嘉次さの婆様は、「おとなしくいさっして」と言って、紙にひねった物をくれた。褒美だと思って持って来たが、ひろげて見ると、大きな生栗の三つ四つだったので、つまらなかった。珍しくもなく、痛む歯では食べもされないからである。

 歯の痛みを忘れた私は、裏口の方へ出、畑を越して裏門の所まで行った。袂にある栗に気が付くと、垣根の根元の土を掘って、そこへ埋めた。食べられない忌忌しさにそそのかされたのであろう。そしてそれきり忘れてしまった。

 そこに栗の若木の一尺ほどのもののあるのを見つけて、あれと心付いた時には、私は妙に嬉しかった。これは俺の木だ、俺の物だと思って、胸がおどる気がして祖母にも母にも話した。ずんずん伸びる木は、桃栗三年というその三年目頃には、花を持ち、毬となり、大きくなって毬は笑んで、茶色の艶々した栗の実を覗かせた。それを見る嬉しさは、静かな、しかし堪らないほどのもので、そしてその栗の実の一つを掌に載せた時の感触は、今でも思い出せるほどである。

 何でそんなに嬉しかったのかは、その時には分からなかった。それは後になって分かった。我が手によって、我をとおして、一つの物を生み出したという喜びである。これはよほど深い人間の本能で、幼い私は偶然にもそれを経験させられたのである。ちょっとした事で、忘れないということには、それ相応の理由があるものと見える。

 

◎窪田空穂の略年譜

・明治10年(1877)6月8日、長野県東筑摩郡和田村(現松本市)に生まれる。本名・通治(つうじ)。父

・庄次郎は勤勉な篤農家であった。

・明治23年、松本高等小学校を卒業。親には内緒で松本中学校を受験し合格。

・明治28年、松本中学校卒業。親に内緒で東京専門学校(現早稲田大学)の補欠試験を受けて合格し入学。しかし、翌年、退学し、大阪の米穀仲買業の店で働く。

・明治32年、秋、故郷の小学校の代用教員となる。小学校教員の太田水穂と交わり、短歌を作り始める。翌年、上京して東京専門学校の編入試験を受け、第2学年に再入学。

・明治37年、東京専門学校卒業。電報新聞社に入社。

・大正9年(1920)4月、早稲田大学文学部国文科の専任講師となる。6年後、教授となる。

・昭和23年(1948)3月、定年退職、名誉教授となる。

・昭和33年11月、文化功労者となる。

・昭和42年(1967)4月12日午後8時、心臓衰弱のため死去。享年90。

 

◎長歌「捕虜の死」

 空穂の次男・茂二郎(大正7年生まれ)は、中国大陸に出征していましたが、戦争が終わっても帰還しませんでした。空穂は、息子の安否を気遣っていました。昭和22年5月、一緒に収容されていて日本に帰って来た戦友から、茂二郎が前年の2月にシベリアの捕虜収容所で病死したことを聞かされました。71歳の空穂は、直ちに哀切極まりない長歌を作りました。ごく一部を引用します。

 「シベリアの涯なき曠野、イルクーツクチェレンホーボの、バイカル湖越えたるあなた、炭山を近く望みて、あわれなる宿舎むらがる。(中略)鉄条網めぐらす内に、在満の我が兵五千、捕虜として入れられにける。厳冬のチェレンホーボは、氷点下五六十度か、言絶ゆる恐ろしき寒威い、人間の感覚を断ち、(中略)死を期して祖国を出でし、国防の兵なる彼等、その死のいかにありとも、今更に嘆くとはせじ。(中略)家畜にも劣るさまもて、殺されて死にゆけるなり。嘆かずであり得むやは。この中に吾子まじれり、むごきかな、あはれむごきかな、かはゆき吾子」