◎北御門二郎

  北御門二郎は、昭和の激動期に自分の良心に忠実に生きた人でした。

 トルストイの絶対的非暴力の思想に共鳴した彼は、戦争反対を表明するために徴兵を拒否しました。そして、彼は東大の英文学科を中退し、熊本の小さな農村で黙々と百姓仕事をして生活しました。農薬を使わない自然農法を続けました。30年ほど前に、NHK教育テレビの「イワンの国のものがたり」という番組で、彼の生活と生涯が取り上げられました。彼の生き方に私は深く感動しました。

 北御門二郎は、若い時に出会ったトルストイの絶対平和の思想に傾倒し、全生涯をトルストイの考え方に従って生きました。

 最も感嘆すべき行為は、何と言っても、あの厳格な軍国主義の時代に、銃殺刑を覚悟して徴兵忌避を敢行したことでした。両親はもとより、親族一同は、一族から非国民を出すのではないかと恐れ、兵役に就くことを勧めました。しかし、彼はトルストイから学んだ非暴力の信念を守り通しました。

 彼はまた、定評のあった中村白葉訳『アンナ・カレーニナ』と米川正夫訳『戦争と平和』の訳文の誤りを公然と数多く指摘しました。激怒した翻訳の大家・米川正夫から「それなら自分で訳してみたらどうだ」と反論されると、彼は本気になって取り組み、実に見事な翻訳をしました。それも、百姓仕事をしながら、一つの作品に何年もかけてトルストイの大作を次々と訳したのでした。

 昭和8年に京大事件が起きました。京大法学部教授・瀧川幸辰の思想と行動に赤化的傾向が見られると判断した文部省が彼に休職を要求したのに対して、法学部長以下36名の教官が辞表を提出した事件です。瀧川が中央大学で行った「トルストイの『復活』に於ける刑法思想」という講演の内容が国家否定の思想につながる、ということも教授罷免の理由の一つでした。

 事件の翌年、東大の2年生だった北御門は、京都の瀧川幸辰の家を訪問し、失意の瀧川一家と懇意になりました。昭和17年12月、瀧川の紹介で『貧乏物語』の著者・河上肇と知り合いました。この著名な経済学者は、若い時期にトルストイから大きな影響を受けていました。京大経済学部教授を辞職し日本共産党に入党した河上は、昭和8年に治安維持法違反で検挙され、5年間の獄中生活を送りました。そして、戦時下、言論を封じられて苦しい生活を強いられていました。終戦後間もなく栄養失調で亡くなりました。河上が死ぬまで、北御門は、機会があれば、干し柿・葛粉・芋の切り干し・新茶なを、熊本から京都の河上肇の家に小包で送っていました。

 信念の人・北御門二郎は、大正2年(1913)2月16日、熊本県球く磨ま郡湯前村で生まれました。父・俊雄は地主のかたわら呉服屋を営んでいて、生活はかなり裕福でした。地元の小学校に4年間通って、5年の時から熊本市の小学校に転校しました。母・ハマが教育に熱心で、田舎の小学校で勉強していたのでは将来の進学に不利と考えて、祖母の塩見スマがいた熊本市の学校に通わせたのです。成績の良かった彼は、その後、熊本中学校、第五高等学校という九州のエリート校に進学し、東大文学部に入学しました。

 

◎トルストイとの出会い

 五高の1年生の時、彼は、遊びに行った友人の家の畳の上に置いてあった『人は何で生きるか』と『イワンの馬鹿』を何気無く手に取り、借りて来て読みました。これがトルストイとの運命的な出会いでした。「読み終わった時私の心を襲った名状しがたい感動によって、私は自分が本格的な読書の世界に一歩を印したことを知った。つまり、読書の中に、ただ面白おかしいもののみを求めるべきではなく、深い思想と、それから生ずる感動とを求めるべきであることを知った」

 高校3年の終わり頃、別の友人が『アンナ・カレーニナ』を読んでいました。彼は、それに刺激されて読み始めました。「もはや一生トルストイと離れられないことを感じ、また是が非でも原書で読みたいと感じた」。『戦争と平和』を読んだのは、東大の英文学科に進んでからでした。読み終えて、強烈な感動を呼び起こされました。「この私はトルストイの全ての作品に感動すべく運命づけられているのだ」

 大学の英文学の授業に興味が持てず、彼は『アンナ・カレーニナ』を原書で読むことに熱中しました。そして、2年後、ロシア語を勉強するために満洲のハルピンに行く決意をしました。父親は『ハルピンくんだりでロシア語の勉強なんかして、将来それで食っていく自信があるのか』と詰問しました。彼は「私のロシア語は食うためのものではなくて、トルストイを読むためのものだ」と答えました。母親も心配しましたが、希望が叶えられなかったら自殺しかねないと考え、息子のために金を出してやりました。半年間、彼はエンマ夫人の世話になり、『アンナ・カレーニナ』と『戦争と平和』に読み耽りました。

 昭和13年(1938)に国家総動員法が公布され、日本中が軍国主義一色に染まりました。25歳の彼は、「権力者の命ずるままに人殺しになるよりも、いっそ死んだ方がまだましだ」と考えて、徴兵を拒否する行動に出ました。検査を受けなかったのです。そして、兵役には無関係となった彼は、大学を中退して、故郷の村で晴耕雨読の日々を送ることにしました。28歳の時に荒岳ヨモと結婚し、二人の間に4人の子供が生まれました。

 47歳の時、彼は中村白葉が訳した『アンナ・カレーニナ』の誤訳の数々を指摘し、具体的に列挙しました。「一通り目を通したところでは、誤訳ならびに改訳したくなる箇所が総計七百以上あります」

 続いて、彼は米川正夫が訳した『戦争と平和』の誤訳を数多く指摘しました。激怒した米川は「他人の訳が気に入らないなら、揚げ足を取っていないで、自分でいい仕事をやって見せればいいじゃないか」と反駁しました。それを受けて、北御門はトルストイの全作品の翻訳に取り組むことを決意しました。

 一人の作家に対して、これほど傾倒して身も心も捧げ尽くした人も稀でしょう。彼は、評論集『トルストイとの有縁』(武蔵野書店)の中で次のように書いています。

 「旧制熊本中学時代、何の疑いもなく軍事訓練に参加し、阿蘇での発火演習には仮想敵軍に向けて空砲をバン、バンと発射してきゃっきゃっ喜んでいた私も、数え年18歳、五高1年の時、『人は何で生きるのか』『イワンの馬鹿』などを始めとして次々にトルストイの著作に接するに及んで、兵役拒否の思想が徐々に芽生えていた。もちろん、それは最初の間、自らも殆ど意識しないほどの小さな芽生えであったが、私の精神の土壌は、その芽を大事に大事に育て、1933年五高を卒業して東大英文学科に入学した頃は、はっきり意識された確固不動のものとなっていた」

 私は、北御門二郎が何時亡くなったのか知りません。

 私は84歳になりました。そして、今、この世の中から悲惨な戦争が無くなり、いつまでも平和が続くことを切に祈念しています。

 

■杉本武之プロフィール

1939年 碧南市に生まれる。

京都大学文学部卒業。

翻訳業を経て、小学校教師になるために愛知教育大学に入学。

25年間、西尾市の小中学校に勤務。

定年退職後、名古屋大学教育学部の大学院で学ぶ。

〈趣味〉読書と競馬

 

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◎北御門二郎

 

 北御門二郎は、昭和の激動期に自分の良心に忠実に生きた人でした。

 トルストイの絶対的非暴力の思想に共鳴した彼は、戦争反対を表明するために徴兵を拒否しました。そして、彼は東大の英文学科を中退し、熊本の小さな農村で黙々と百姓仕事をして生活しました。農薬を使わない自然農法を続けました。30年ほど前に、NHK教育テレビの「イワンの国のものがたり」という番組で、彼の生活と生涯が取り上げられました。彼の生き方に私は深く感動しました。

 北御門二郎は、若い時に出会ったトルストイの絶対平和の思想に傾倒し、全生涯をトルストイの考え方に従って生きました。

 最も感嘆すべき行為は、何と言っても、あの厳格な軍国主義の時代に、銃殺刑を覚悟して徴兵忌避を敢行したことでした。両親はもとより、親族一同は、一族から非国民を出すのではないかと恐れ、兵役に就くことを勧めました。しかし、彼はトルストイから学んだ非暴力の信念を守り通しました。

 彼はまた、定評のあった中村白葉訳『アンナ・カレーニナ』と米川正夫訳『戦争と平和』の訳文の誤りを公然と数多く指摘しました。激怒した翻訳の大家・米川正夫から「それなら自分で訳してみたらどうだ」と反論されると、彼は本気になって取り組み、実に見事な翻訳をしました。それも、百姓仕事をしながら、一つの作品に何年もかけてトルストイの大作を次々と訳したのでした。

 昭和8年に京大事件が起きました。京大法学部教授・瀧川幸辰の思想と行動に赤化的傾向が見られると判断した文部省が彼に休職を要求したのに対して、法学部長以下36名の教官が辞表を提出した事件です。瀧川が中央大学で行った「トルストイの『復活』に於ける刑法思想」という講演の内容が国家否定の思想につながる、ということも教授罷免の理由の一つでした。

 事件の翌年、東大の2年生だった北御門は、京都の瀧川幸辰の家を訪問し、失意の瀧川一家と懇意になりました。昭和17年12月、瀧川の紹介で『貧乏物語』の著者・河上肇と知り合いました。この著名な経済学者は、若い時期にトルストイから大きな影響を受けていました。京大経済学部教授を辞職し日本共産党に入党した河上は、昭和8年に治安維持法違反で検挙され、5年間の獄中生活を送りました。そして、戦時下、言論を封じられて苦しい生活を強いられていました。終戦後間もなく栄養失調で亡くなりました。河上が死ぬまで、北御門は、機会があれば、干し柿・葛粉・芋の切り干し・新茶なを、熊本から京都の河上肇の家に小包で送っていました。

 信念の人・北御門二郎は、大正2年(1913)2月16日、熊本県球く磨ま郡湯前村で生まれました。父・俊雄は地主のかたわら呉服屋を営んでいて、生活はかなり裕福でした。地元の小学校に4年間通って、5年の時から熊本市の小学校に転校しました。母・ハマが教育に熱心で、田舎の小学校で勉強していたのでは将来の進学に不利と考えて、祖母の塩見スマがいた熊本市の学校に通わせたのです。成績の良かった彼は、その後、熊本中学校、第五高等学校という九州のエリート校に進学し、東大文学部に入学しました。

 

 

◎トルストイとの出会い

 五高の1年生の時、彼は、遊びに行った友人の家の畳の上に置いてあった『人は何で生きるか』と『イワンの馬鹿』を何気無く手に取り、借りて来て読みました。これがトルストイとの運命的な出会いでした。「読み終わった時私の心を襲った名状しがたい感動によって、私は自分が本格的な読書の世界に一歩を印したことを知った。つまり、読書の中に、ただ面白おかしいもののみを求めるべきではなく、深い思想と、それから生ずる感動とを求めるべきであることを知った」

 高校3年の終わり頃、別の友人が『アンナ・カレーニナ』を読んでいました。彼は、それに刺激されて読み始めました。「もはや一生トルストイと離れられないことを感じ、また是が非でも原書で読みたいと感じた」。『戦争と平和』を読んだのは、東大の英文学科に進んでからでした。読み終えて、強烈な感動を呼び起こされました。「この私はトルストイの全ての作品に感動すべく運命づけられているのだ」

 大学の英文学の授業に興味が持てず、彼は『アンナ・カレーニナ』を原書で読むことに熱中しました。そして、2年後、ロシア語を勉強するために満洲のハルピンに行く決意をしました。父親は『ハルピンくんだりでロシア語の勉強なんかして、将来それで食っていく自信があるのか』と詰問しました。彼は「私のロシア語は食うためのものではなくて、トルストイを読むためのものだ」と答えました。母親も心配しましたが、希望が叶えられなかったら自殺しかねないと考え、息子のために金を出してやりました。半年間、彼はエンマ夫人の世話になり、『アンナ・カレーニナ』と『戦争と平和』に読み耽りました。

 昭和13年(1938)に国家総動員法が公布され、日本中が軍国主義一色に染まりました。25歳の彼は、「権力者の命ずるままに人殺しになるよりも、いっそ死んだ方がまだましだ」と考えて、徴兵を拒否する行動に出ました。検査を受けなかったのです。そして、兵役には無関係となった彼は、大学を中退して、故郷の村で晴耕雨読の日々を送ることにしました。28歳の時に荒岳ヨモと結婚し、二人の間に4人の子供が生まれました。

 47歳の時、彼は中村白葉が訳した『アンナ・カレーニナ』の誤訳の数々を指摘し、具体的に列挙しました。「一通り目を通したところでは、誤訳ならびに改訳したくなる箇所が総計七百以上あります」

 続いて、彼は米川正夫が訳した『戦争と平和』の誤訳を数多く指摘しました。激怒した米川は「他人の訳が気に入らないなら、揚げ足を取っていないで、自分でいい仕事をやって見せればいいじゃないか」と反駁しました。それを受けて、北御門はトルストイの全作品の翻訳に取り組むことを決意しました。

 一人の作家に対して、これほど傾倒して身も心も捧げ尽くした人も稀でしょう。彼は、評論集『トルストイとの有縁』(武蔵野書店)の中で次のように書いています。

 「旧制熊本中学時代、何の疑いもなく軍事訓練に参加し、阿蘇での発火演習には仮想敵軍に向けて空砲をバン、バンと発射してきゃっきゃっ喜んでいた私も、数え年18歳、五高1年の時、『人は何で生きるのか』『イワンの馬鹿』などを始めとして次々にトルストイの著作に接するに及んで、兵役拒否の思想が徐々に芽生えていた。もちろん、それは最初の間、自らも殆ど意識しないほどの小さな芽生えであったが、私の精神の土壌は、その芽を大事に大事に育て、1933年五高を卒業して東大英文学科に入学した頃は、はっきり意識された確固不動のものとなっていた」

 私は、北御門二郎が何時亡くなったのか知りません。

 私は84歳になりました。そして、今、この世の中から悲惨な戦争が無くなり、いつまでも平和が続くことを切に祈念しています。