◎生田春月

 生田春月という大正時代の詩人について書きます。

 今から60年以上も前のことですが、大学生だった私は、京都の寺町の本屋で、題名に惹かれて『真実に生きる悩み』という角川文庫を買いました。定価は80円でした。これが生田春月という文学者との最初の出会いでした。

 25年後、再び生田春月に出会いました。今から30年ほど前のこと、日本のアウトサイダーたちのことを扱った『日本番外地の群像』(社会評論社)という本を家の近くの書店で買いました。その中に、妻だった生田花世が書いた「生田春月─思い出の春月」が掲載されていました。私は非常に興味深く読みました。

 3回目の出会いは、つい最近のことです。市の図書館で『作家が綴る心の手紙・死を想う』(二玄社)という本を見つけました。その中に、生田春月が投身自殺をする数時間前に船の中で書いた妻・花世に宛てた最後の手紙(遺書)が掲載されていました。私は興味を持って読みました。

 生田春月とはどんな人物だったのでしょうか。

 

〈生田春月の略歴〉

 明治25年(1892)3月12日、鳥取県米子市に生まれた。本名・清平。高等小学校に在学していた時、酒造業の家が破産。高等小学校中退。一家は朝鮮や日本各地を流浪し、彼も米屋の小僧や会社の給仕などをして働いた。貧困と労働の中にあって、短歌や詩を作ることに励み、東京の「葉書文学」などの雑誌に投稿していた。

 16歳の時に単身上京し、同郷の先輩である評論家・生田長江宅の玄関番となった。ドイツ語の修得のために独語専修学校の夜学に1年間通った。

 大正3年(1914)、雑誌「青鞜」に掲載された西崎花世の「恋愛及び生活難について」という文章を読んで感激した22歳の彼は、4歳年上の彼女と結婚した。大正6年に『霊魂の秋』、翌年に『感傷の春』を刊行。純情な魂の苦悶を詠った感傷的な詩風で世に迎えられ、詩人としての地位を確立した。

 主要な作品として、詩集『霊魂の秋』『感傷の春』『春月小曲集』『象徴の烏賊』、翻訳詩集『ゲエテ詩集』『ハイネ詩集』、自伝小説『相寄る魂』などがある。また、詩雑誌「詩と人生」を主宰した。

 昭和5年(1930)5月19日、瀬戸内海を航行中の旅客船から投身自殺を遂げた。享年38。遺体は、6月11日に小豆島坂手港で発見された。

 

◎『真実に生きる悩み』

 私が大学生の時に読んだ『真実に生きる悩み』の一部を引用します。

 「私は孤独な人間であって、あまり賑やかな人中に出て行くのは好ましくないので、大抵家に引きこもって、屋根裏のような感じのする狭い書斎で、静かに好きな本を読むとか、自分の書きたいことを書くとか、または、いろいろな小さな計画を立ててみるとか、そうしたことで、毎日の日を送っている。

 真実に生きることを、絶対的に考えて行けば行くほど、この世の中の生活は、殆ど全てが人間の心に害するところがある。究極、理想的な生活はこの世間生活を拒否すること、すなわち、古人がしたような出家遁世のほかにはない。また、自殺こそこの不合理を脱却する一番いい道ではないかとさえ思われる。真の生活は世間的生活の終わるところより始まるという真理を考える時、一切か無か、あれかこれか、非常に突き詰めた心をもってこの問題を考える時、いかなる人も必定この大暗礁に突き当たるのである。古来、純粋な思索をもって真正面にこの暗礁にぶつかって、ついにその信じるところに進んで行って自殺した人も多いし、出家遁世した人も少なくはないのである。

 私たちもまた、その最後の一線において、一死をも恐れないだけの覚悟で、どこまでも徹底的に歩いて行ってみたいと思う。生存することが否であると思えば、私は、死んでもいいのである」

 

◎妻への遺書

 生田春月は、瀬戸内海で投身自殺する数時間前に船中で妻に宛てて遺書を書きました。

 「今、別府行きの菫丸の船中にいる。四、五時間で僕の生命は断たれるだろう。さっき試みに物を海に投じてみたら、驚くべき速さで流れ去ってしまった。僕のこの肉体もあれと同じように流れ去るのだと思う。何となく爽快な気持がする。恐怖は殆ど感じない。発見されて救助される恥だけは恐ろしいが。

 僕は、女性関係で死ぬのではない。それは付随的な事にすぎない。言ってみれば、文学者としての終わりを完うせんがために死ぬようなものだ。確かに、この上生きたなら、どんな恥辱の中にくたばるか分からないのだ。それも然し、男らしい事かも知れないとは思う。が、僕は元来、男らしい男ではない。だから、これが僕らしい最期で、僕としての完成なのだと思う。

 僕の生涯もいよいよここまで来たのだと考えると、実に不思議な朗らかな寂しさを感じる。今、神戸に船が着く。相客のいないうちにと急いで書く。

 さらば幸福に、力強く生きて下さい。僕はあなたの悪い夫であった。どうかこれまでの僕の弱点は許してもらいたい。今にして、僕はやはりあなたを愛している事を知った。さらば幸福に」

 

◎「思い出の春月」

 妻の生田花世は、夫の投身自殺の翌年、雑誌「文学時代」2月号に「生田春月─思い出の春月」を発表しました。彼が「大きなアカチャン」だったことが分かります。

 「家を持って、さて仕事に掛かろうとすると、彼はそれまで使っている辞書よりも大きい精密なものが欲しいと言った。私は自分の着物二枚と弟のを一枚、風呂敷に入れて、生まれて初めて質屋へとその紺の暖の簾をくぐり、七円五十銭の金を貸してもらって家に帰って、彼の掌にニコニコ笑って渡すと、『ウ…』と彼はうなった。そして礼は何も言ってくれはしなかった。いきなり飛び出してしまい、買ってくると、腹ばいになってA・B・Cをつけてから、いつまでも赤ん坊のようにその辞書をなめまわす無邪気さだった。さてさてこれは大きい我がままなアカチャンだ、と私はもうその時にはっきり思った。 数え切れない彼の奇行…周期的にやってくるヒポコンドリア…。下駄にかびの生えるくらい家にいるかと思えば、独楽のように回り始めると、とめどのない外出、…結婚2年にして、私は、自分は子育てをしているだけだと思い始めた。(中略)

 芸術は、詩は、反逆でなくてはならぬ。汚濁なる人生への抗議を死によって徹したこの人の純真は、恋愛詩人として、社会詩人として、その望みどおりに達成された」

 

■杉本武之プロフィール

1939年 碧南市に生まれる。

京都大学文学部卒業。

翻訳業を経て、小学校教師になるために愛知教育大学に入学。

25年間、西尾市の小中学校に勤務。

定年退職後、名古屋大学教育学部の大学院で学ぶ。

〈趣味〉読書と競馬

 

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◎生田春月

 生田春月という大正時代の詩人について書きます。

 今から60年以上も前のことですが、大学生だった私は、京都の寺町の本屋で、題名に惹かれて『真実に生きる悩み』という角川文庫を買いました。定価は80円でした。これが生田春月という文学者との最初の出会いでした。

 25年後、再び生田春月に出会いました。今から30年ほど前のこと、日本のアウトサイダーたちのことを扱った『日本番外地の群像』(社会評論社)という本を家の近くの書店で買いました。その中に、妻だった生田花世が書いた「生田春月─思い出の春月」が掲載されていました。私は非常に興味深く読みました。

 3回目の出会いは、つい最近のことです。市の図書館で『作家が綴る心の手紙・死を想う』(二玄社)という本を見つけました。その中に、生田春月が投身自殺をする数時間前に船の中で書いた妻・花世に宛てた最後の手紙(遺書)が掲載されていました。私は興味を持って読みました。

 生田春月とはどんな人物だったのでしょうか。

 

〈生田春月の略歴〉

 明治25年(1892)3月12日、鳥取県米子市に生まれた。本名・清平。高等小学校に在学していた時、酒造業の家が破産。高等小学校中退。一家は朝鮮や日本各地を流浪し、彼も米屋の小僧や会社の給仕などをして働いた。貧困と労働の中にあって、短歌や詩を作ることに励み、東京の「葉書文学」などの雑誌に投稿していた。

 16歳の時に単身上京し、同郷の先輩である評論家・生田長江宅の玄関番となった。ドイツ語の修得のために独語専修学校の夜学に1年間通った。

 大正3年(1914)、雑誌「青鞜」に掲載された西崎花世の「恋愛及び生活難について」という文章を読んで感激した22歳の彼は、4歳年上の彼女と結婚した。大正6年に『霊魂の秋』、翌年に『感傷の春』を刊行。純情な魂の苦悶を詠った感傷的な詩風で世に迎えられ、詩人としての地位を確立した。

 主要な作品として、詩集『霊魂の秋』『感傷の春』『春月小曲集』『象徴の烏賊』、翻訳詩集『ゲエテ詩集』『ハイネ詩集』、自伝小説『相寄る魂』などがある。また、詩雑誌「詩と人生」を主宰した。

 昭和5年(1930)5月19日、瀬戸内海を航行中の旅客船から投身自殺を遂げた。享年38。遺体は、6月11日に小豆島坂手港で発見された。

 

◎『真実に生きる悩み』

 私が大学生の時に読んだ『真実に生きる悩み』の一部を引用します。

 「私は孤独な人間であって、あまり賑やかな人中に出て行くのは好ましくないので、大抵家に引きこもって、屋根裏のような感じのする狭い書斎で、静かに好きな本を読むとか、自分の書きたいことを書くとか、または、いろいろな小さな計画を立ててみるとか、そうしたことで、毎日の日を送っている。

 真実に生きることを、絶対的に考えて行けば行くほど、この世の中の生活は、殆ど全てが人間の心に害するところがある。究極、理想的な生活はこの世間生活を拒否すること、すなわち、古人がしたような出家遁世のほかにはない。また、自殺こそこの不合理を脱却する一番いい道ではないかとさえ思われる。真の生活は世間的生活の終わるところより始まるという真理を考える時、一切か無か、あれかこれか、非常に突き詰めた心をもってこの問題を考える時、いかなる人も必定この大暗礁に突き当たるのである。古来、純粋な思索をもって真正面にこの暗礁にぶつかって、ついにその信じるところに進んで行って自殺した人も多いし、出家遁世した人も少なくはないのである。

 私たちもまた、その最後の一線において、一死をも恐れないだけの覚悟で、どこまでも徹底的に歩いて行ってみたいと思う。生存することが否であると思えば、私は、死んでもいいのである」

 

◎妻への遺書

 生田春月は、瀬戸内海で投身自殺する数時間前に船中で妻に宛てて遺書を書きました。

 「今、別府行きの菫丸の船中にいる。四、五時間で僕の生命は断たれるだろう。さっき試みに物を海に投じてみたら、驚くべき速さで流れ去ってしまった。僕のこの肉体もあれと同じように流れ去るのだと思う。何となく爽快な気持がする。恐怖は殆ど感じない。発見されて救助される恥だけは恐ろしいが。

 僕は、女性関係で死ぬのではない。それは付随的な事にすぎない。言ってみれば、文学者としての終わりを完うせんがために死ぬようなものだ。確かに、この上生きたなら、どんな恥辱の中にくたばるか分からないのだ。それも然し、男らしい事かも知れないとは思う。が、僕は元来、男らしい男ではない。だから、これが僕らしい最期で、僕としての完成なのだと思う。

 僕の生涯もいよいよここまで来たのだと考えると、実に不思議な朗らかな寂しさを感じる。今、神戸に船が着く。相客のいないうちにと急いで書く。

 さらば幸福に、力強く生きて下さい。僕はあなたの悪い夫であった。どうかこれまでの僕の弱点は許してもらいたい。今にして、僕はやはりあなたを愛している事を知った。さらば幸福に」

 

◎「思い出の春月」

 妻の生田花世は、夫の投身自殺の翌年、雑誌「文学時代」2月号に「生田春月─思い出の春月」を発表しました。彼が「大きなアカチャン」だったことが分かります。

 「家を持って、さて仕事に掛かろうとすると、彼はそれまで使っている辞書よりも大きい精密なものが欲しいと言った。私は自分の着物二枚と弟のを一枚、風呂敷に入れて、生まれて初めて質屋へとその紺の暖の簾をくぐり、七円五十銭の金を貸してもらって家に帰って、彼の掌にニコニコ笑って渡すと、『ウ…』と彼はうなった。そして礼は何も言ってくれはしなかった。いきなり飛び出してしまい、買ってくると、腹ばいになってA・B・Cをつけてから、いつまでも赤ん坊のようにその辞書をなめまわす無邪気さだった。さてさてこれは大きい我がままなアカチャンだ、と私はもうその時にはっきり思った。 数え切れない彼の奇行…周期的にやってくるヒポコンドリア…。下駄にかびの生えるくらい家にいるかと思えば、独楽のように回り始めると、とめどのない外出、…結婚2年にして、私は、自分は子育てをしているだけだと思い始めた。(中略)

 芸術は、詩は、反逆でなくてはならぬ。汚濁なる人生への抗議を死によって徹したこの人の純真は、恋愛詩人として、社会詩人として、その望みどおりに達成された」