◎小林一茶(その2)

  江戸時代後期の俳諧師・小林一茶は、文化10年(1813)、長かった江戸住まいを終え、故郷の柏原の実家に戻って定住し、やがて結婚しました。52歳の高齢でした。

 2年ごとに子供が生まれましたが、どの子も短命でした。長男・千太郎は生まれて29日後に亡くなりました。長女・さとは1年2カ月生きました。次男・石太郎はたった96日間の命でした。三男の金太郎も1年9カ月生きただけでした。

 ただ一茶が亡くなってから生まれた次女のやたは、46年間生きて、明治6年に亡くなりました。一茶の血統は途絶えることなく現在まで続いています。

 子煩悩だった一茶は、どの子の死にも深く悲しみました。代表作『おがら春』の中で、彼は長女・さとのことを愛情深く描きました。読んだ人も多いと思いますが、今から一緒に読んでみましょう。

 

◎長女・さとの生育と死

 長女・さとは、文政元年(1818)5月4日に誕生しました。『おらが春』は、その翌年に書かれた句文集です。一茶はさとの成長と死について次のように書いています。

 ─去年の5月に生まれた娘の名は「さと」。聡明な子になるようにと願って「さと」という名を付けた。今年、誕生日を祝った頃から、手を打って笑ったり、おつむてんてんをするようになった。

 他の子供が風車を持っているのを見て欲しがるので与えると、すぐにしゃぶって捨ててしまった。その後で、茶碗を投げ捨てた。それにも飽きると、今度は障子の薄紙をむしり始めた。「よくした、よくした」とほめると、本当にそうだと思ってきゃらきゃらと笑って、ほとんどの薄紙をむしり取ってしまった。人が来て、「わんわんは何処」と聞くと、娘は犬を指さす。「かあかあは何処」と聞くと、娘は烏を指さす。その様子がとても可愛らしい。

 私が仏壇の前に座ってお祈りをしていると、どこに居ても急いで這って来て、小さな手を合わせて、「なむあみだぶつ」と唱える。感心なことである。

 することなすことが可愛らしくて、老い始めた私には大きな慰めになっている。

 一日中じっとしていないで動き回っているので、朝は遅くまでぐっすりと眠っている。その間に、母親は飯を炊いたり、掃除をしたりする。泣き声を合図に、母親は手早く抱き起こして、裏の畑でおしっこをさせる。それから、乳房をあてがえば、娘はすわすわと吸う。母親は、にこにこ笑う娘の顔を見るだけで、あらゆる苦労を忘れて喜んでいる様子である。

 「楽しみ極まりて、愁い起こる」。これは浮世の常であるが、まだ半分も楽しみを味わっていない幼い娘が、突然、乱暴な天然痘の神に取りつかれてしまった。顔面に発疹が生じて、可愛らしく咲き始めたばかりの花が泥まじりの雨でしおれてしまったようになった。側で見ていると、とても苦しそうだった。やがて発疹の水ぶくれも乾いて、かさぶたが取れた。しかし、体はますます弱ってきて、ついに6月21日の朝、亡くなった。母親は、娘の死に顔にすがりついて、声を上げて泣いた。こうなったら、あきらめるしかないと思うのだが、なかなかあきらめ切れるものではない。

 「露の世は露の世ながらさりながら 一茶」

 

◎一茶と良寛

 一茶と良寛は、江戸時代後期、同時代に生きました。良寛の方が5歳年上でした。二人の間に直接の交流は無かったようです。しかし、一茶は、良寛の父親の以南とはかなり親しかったのではないかと推測されています。俳諧師の二人は、「殺生」という題で句を贈答しています。一茶が「やれ打つな蠅が手をすり足をする」と詠んだのに対して、以南は「そこ踏むなゆふべ蛍の居たあたり」と答えました。

 良寛の父・以南は全国的にかなり知られた俳諧師で、一茶と同じ程度に評価されていました。ところが、寛政7年(1795)7月、京都の桂川に身を投げて自殺したのです。60歳でした。その時、良寛は37歳。一茶は32歳でした。入水の本当の理由は未だによく分かっていません。

 一茶の句文集『株番』は、主として文化9年(1812)に書かれたものですが、その中で、彼は「以南の死」について、次のように書いています。

 ─今はもう10年以上になるが、以南という越後国の俳諧師がいた。諸国をさまよい歩いて、京都にしばらく足を休めていた。その頃から脚気という病気になった。それほど苦しくはなかったが、一緒にいた人達が「あの人はもう二度と元のようになって故郷に帰ることはできそうにもない」と話しているのを聞いてしまった。こんなふうに病気で月日を重ね、見苦しい姿を人々に見られるのも情けないことだと思ったのであろうか、ある日、次のような書き置きを川岸の柳の枝に掛けて、桂川に飛び込んだ。

「天真仏の仰せによりて以南を桂川に捨つる。

  染め色の山を印に立ておけば 我なき跡はいつの昔ぞ」

 一茶が書いているように、良寛の父は脚気を苦にして自殺したのかも知れません。しかし、彼は別の理由で自殺した、と私は考えています。

 今から12年前、私は『慈愛の人・良寛』(ちたろまん/中部経済新聞社)という本を出版しました。その中で以南の自殺について次のように書きました。引用します。

 「以南は60歳の時、『天真仏の勧めによりて以南を桂川の流れに捨つ』という謎めいた言葉と辞世の和歌を遺して京都の桂川に身を投げて死にました。この『天真仏のすすめによりて』というのが問題です。栗田勇は『良寛』の中でこう推察しました。

 『誰かを天真仏と指している。誰かにその痛いところを突かれたのではあるまいか。その批判者の名を言わずに『天真仏』と言って、それに従った。この厳しい批判をした人間がいたとしたら誰だろう。……長男の良寛が浮かんでくるのである。以南が長崎へ赴く途中、良寛が、出会って天真仏を説いたことはありえないことではあるまい。そして以南はまっすぐにそれを受け入れて入水した』

 この推察は当たっていると思います。私もこんなふうに考えています。

 ─良寛は、俳諧に熱中し家を離れて各地をさまよっている父親の以南に、故郷へ帰って正しい生き方をしてほしいと意見した。以南は『お前の生き方はどうなんだ。家を飛び出して、勝手な生き方をしてきたではないか。お前こそ捨てた故郷へ戻るべきではないか』と反論し、親子は別れた。やがて以南は『真理を知っている仏のように偉い人の忠告通り、俳人としての愚かな以南の身を桂川に捨てる』という言葉を書き遺して川に飛び込んだ。良寛はショックを受け、弟の由之が苦労している故郷に戻って生きていこうと決意した」

 

■杉本武之プロフィール

1939年 碧南市に生まれる。

京都大学文学部卒業。

翻訳業を経て、小学校教師になるために愛知教育大学に入学。

25年間、西尾市の小中学校に勤務。

定年退職後、名古屋大学教育学部の大学院で学ぶ。

〈趣味〉読書と競馬

 

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◎小林一茶(その2)

 江戸時代後期の俳諧師・小林一茶は、文化10年(1813)、長かった江戸住まいを終え、故郷の柏原の実家に戻って定住し、やがて結婚しました。52歳の高齢でした。

 2年ごとに子供が生まれましたが、どの子も短命でした。長男・千太郎は生まれて29日後に亡くなりました。長女・さとは1年2カ月生きました。次男・石太郎はたった96日間の命でした。三男の金太郎も1年9カ月生きただけでした。

 ただ一茶が亡くなってから生まれた次女のやたは、46年間生きて、明治6年に亡くなりました。一茶の血統は途絶えることなく現在まで続いています。

 子煩悩だった一茶は、どの子の死にも深く悲しみました。代表作『おがら春』の中で、彼は長女・さとのことを愛情深く描きました。読んだ人も多いと思いますが、今から一緒に読んでみましょう。

 

 

◎長女・さとの生育と死

 長女・さとは、文政元年(1818)5月4日に誕生しました。『おらが春』は、その翌年に書かれた句文集です。一茶はさとの成長と死について次のように書いています。

 ─去年の5月に生まれた娘の名は「さと」。聡明な子になるようにと願って「さと」という名を付けた。今年、誕生日を祝った頃から、手を打って笑ったり、おつむてんてんをするようになった。

 他の子供が風車を持っているのを見て欲しがるので与えると、すぐにしゃぶって捨ててしまった。その後で、茶碗を投げ捨てた。それにも飽きると、今度は障子の薄紙をむしり始めた。「よくした、よくした」とほめると、本当にそうだと思ってきゃらきゃらと笑って、ほとんどの薄紙をむしり取ってしまった。人が来て、「わんわんは何処」と聞くと、娘は犬を指さす。「かあかあは何処」と聞くと、娘は烏を指さす。その様子がとても可愛らしい。

 私が仏壇の前に座ってお祈りをしていると、どこに居ても急いで這って来て、小さな手を合わせて、「なむあみだぶつ」と唱える。感心なことである。

 することなすことが可愛らしくて、老い始めた私には大きな慰めになっている。

 一日中じっとしていないで動き回っているので、朝は遅くまでぐっすりと眠っている。その間に、母親は飯を炊いたり、掃除をしたりする。泣き声を合図に、母親は手早く抱き起こして、裏の畑でおしっこをさせる。それから、乳房をあてがえば、娘はすわすわと吸う。母親は、にこにこ笑う娘の顔を見るだけで、あらゆる苦労を忘れて喜んでいる様子である。

 「楽しみ極まりて、愁い起こる」。これは浮世の常であるが、まだ半分も楽しみを味わっていない幼い娘が、突然、乱暴な天然痘の神に取りつかれてしまった。顔面に発疹が生じて、可愛らしく咲き始めたばかりの花が泥まじりの雨でしおれてしまったようになった。側で見ていると、とても苦しそうだった。やがて発疹の水ぶくれも乾いて、かさぶたが取れた。しかし、体はますます弱ってきて、ついに6月21日の朝、亡くなった。母親は、娘の死に顔にすがりついて、声を上げて泣いた。こうなったら、あきらめるしかないと思うのだが、なかなかあきらめ切れるものではない。

 「露の世は露の世ながらさりながら 一茶」

 

◎一茶と良寛

 一茶と良寛は、江戸時代後期、同時代に生きました。良寛の方が5歳年上でした。二人の間に直接の交流は無かったようです。しかし、一茶は、良寛の父親の以南とはかなり親しかったのではないかと推測されています。俳諧師の二人は、「殺生」という題で句を贈答しています。一茶が「やれ打つな蠅が手をすり足をする」と詠んだのに対して、以南は「そこ踏むなゆふべ蛍の居たあたり」と答えました。

 良寛の父・以南は全国的にかなり知られた俳諧師で、一茶と同じ程度に評価されていました。ところが、寛政7年(1795)7月、京都の桂川に身を投げて自殺したのです。60歳でした。その時、良寛は37歳。一茶は32歳でした。入水の本当の理由は未だによく分かっていません。

 一茶の句文集『株番』は、主として文化9年(1812)に書かれたものですが、その中で、彼は「以南の死」について、次のように書いています。

 ─今はもう10年以上になるが、以南という越後国の俳諧師がいた。諸国をさまよい歩いて、京都にしばらく足を休めていた。その頃から脚気という病気になった。それほど苦しくはなかったが、一緒にいた人達が「あの人はもう二度と元のようになって故郷に帰ることはできそうにもない」と話しているのを聞いてしまった。こんなふうに病気で月日を重ね、見苦しい姿を人々に見られるのも情けないことだと思ったのであろうか、ある日、次のような書き置きを川岸の柳の枝に掛けて、桂川に飛び込んだ。

「天真仏の仰せによりて以南を桂川に捨つる。

  染め色の山を印に立ておけば 我なき跡はいつの昔ぞ」

 一茶が書いているように、良寛の父は脚気を苦にして自殺したのかも知れません。しかし、彼は別の理由で自殺した、と私は考えています。

 今から12年前、私は『慈愛の人・良寛』(ちたろまん/中部経済新聞社)という本を出版しました。その中で以南の自殺について次のように書きました。引用します。

 「以南は60歳の時、『天真仏の勧めによりて以南を桂川の流れに捨つ』という謎めいた言葉と辞世の和歌を遺して京都の桂川に身を投げて死にました。この『天真仏のすすめによりて』というのが問題です。栗田勇は『良寛』の中でこう推察しました。

 『誰かを天真仏と指している。誰かにその痛いところを突かれたのではあるまいか。その批判者の名を言わずに『天真仏』と言って、それに従った。この厳しい批判をした人間がいたとしたら誰だろう。……長男の良寛が浮かんでくるのである。以南が長崎へ赴く途中、良寛が、出会って天真仏を説いたことはありえないことではあるまい。そして以南はまっすぐにそれを受け入れて入水した』

 この推察は当たっていると思います。私もこんなふうに考えています。

 ─良寛は、俳諧に熱中し家を離れて各地をさまよっている父親の以南に、故郷へ帰って正しい生き方をしてほしいと意見した。以南は『お前の生き方はどうなんだ。家を飛び出して、勝手な生き方をしてきたではないか。お前こそ捨てた故郷へ戻るべきではないか』と反論し、親子は別れた。やがて以南は『真理を知っている仏のように偉い人の忠告通り、俳人としての愚かな以南の身を桂川に捨てる』という言葉を書き遺して川に飛び込んだ。良寛はショックを受け、弟の由之が苦労している故郷に戻って生きていこうと決意した」