◎小林一茶(その1)
江戸時代後期の異色の俳諧師・小林一茶は、芭蕉や蕪村のような芸術家らしい風貌をしていませんでした。どちらかと言えば、田畑で働く農夫のような顔かたちをしていました。こんなふうに伝えられています。
「背が低く、太っていた。丸顔で、頬が広かった。頬骨が高く張っていて、目尻が細長く切れていた。小鼻が大きくて、唇が厚かった。耳たぶが豊かで、頭が大きかった。手の指は太く節くれだっていた」
一茶は女性にもてたでしょうか。もてなかったでしょう。色恋とは無縁の世界に生きていたと思います。しかし、そんな一茶にも、高嶺の花のような憧れの女性がいました。
その女性は、花嬌という、一茶の弟子でした。評判の才色兼備の未亡人でした。
一茶と花嬌のことを述べる前に、一茶の略年譜を書きます。
〈一茶の略年譜〉
・宝暦13年(1763)5月5日、信濃国水内郡柏原村に生まれた。名は弥太郎。父・小林弥五兵衛、母・くに。家は余り貧しくない中農。2年後、母が死去。
・明和7年(1770)父、さつ(27歳)と再婚。2年後、弟・専六(仙六)が誕生。
・安永6年(1777)春に江戸に出る。その後の10年間、消息不明。
・寛政元年(1789)夏から秋にかけて奥州行脚。
・寛政4年2月、江戸から西国に向かう。7年間、西国の各地を遊歴する。
・寛政10年8月、木曽路を経て江戸に帰る。
・享和元年(1801)2月、帰郷。父の最期を看取る。父は、遺産を兄弟で折半するようにという遺言状を一茶に渡す。
・文化4年(1807)11月、帰郷。遺産分割の交渉をする。決着せず、江戸に戻る。
・文化10年1月、ようやく弟・専六と和解。柏原に定住することを決意。
・文化11年4月11日、菊(28歳)と結婚。
・文化13年4月14日、長男・千太郎が誕生するが、5月に死亡。
・文政元年(1818)5月4日、長女・さとが誕生するが、翌年の6月に死亡。
・文政3年10月5日、次男・石太郎が誕生するが、翌年の1月に死亡。
・文政5年3月10日、三男・金三郎が誕生するが、翌年の12月に死亡。
・文政6年5月12日、妻の菊が死去。享年37。
・文政7年5月12日、雪(38歳)と再婚するが、8月に離縁。・文政9年8月、やを(32 歳)と3度目の結婚。
・文政10年(1827)11月19日、死去。享年64。
・文政11年4月、遺腹の次女・やたが誕生。やたは明治6年まで生きた。
◎一茶と花嬌
一茶が深く恋い慕った花嬌は、どういった女性だったのでしょうか。
彼女は、一茶より5歳ほど年上だったと思われます。上総(千葉県)の西川の名主の娘として生まれた。本名は園。成人して、富津の名主で酒造と金融を業とする豪商の織本家に嫁いだ。夫の織本嘉右衛門も俳句を好んだ。俳号は砂明。彼は寛政6年2月に46歳で亡くなった。その時、花嬌は36歳くらいだったと思われます。
さて、一茶は享和2年(1802)12月2日に花嬌からの手紙を受け取りました。手紙と共に二朱銀(約2万円)が同封されていました。弟子になった花嬌から師匠の一茶への指導料だったと思われます。この時、一茶は39歳、花嬌は44歳。花嬌はまだまだ美しく、そして感情もこまやかな女性でした。
花嬌と知り合って、それまで恋とは無縁だった一茶の心の世界が激変しました。彼女への思いは募るばかりでした。
その翌年から、一茶は、富津やその近在に何度も出掛けるようになります。房総方面には彼の門人が多かったことも確かですが、憧れの未亡人に会えるのを楽しみにしていたと思われます。こんな句を作っています。「美しき団扇持ちけり未亡人」
文化元年(1804)7月に富津に行き、七夕の7月7日、自分の思いがなかなか通じないもどかしさを織り込んで次のような句を作りました。「我が星は上総の空をうろつくか」「木に鳴くはやもめ烏か天の川」
文化3年5月7日、一茶が宿泊していた所に、思いがけず、花嬌が医師の文東(一茶の弟子)と共に訪ねて来ました。一茶は喜びました。次のような「目出度い」句を作っています。「目出度さは上総の蚊にも食われけり」「細々と蚊遣り目出度き宿りかな」 文化6年3月4日、富津で花嬌に会いました。嬉しくて仕方がない一茶は、こんな句を作りました。「散る花や仏ぎらいが浮かれけり」。そして、次の日に、花嬌の対潮庵で門人たちとの句会が開かれました。更に翌日も木更津で句会が催されました。
しかし、この時に詠まれた句には、明るさが少しも見られません。愛する花嬌への思慕を断ち切ろうという決意が色濃く織り込まれています。心境に大きな変化があったのでしょう。「蝶とぶやこの世に望みないように」「蓑虫は蝶にもならぬ覚悟かな」
5月、柏原に帰郷。しかし、弟との遺産相続の交渉はうまく行きませんでした。
文化7年4月3日、花嬌が亡くなりました。一茶は悲しみました。こんな句を作っています。「生きて居るばかりぞ我とけしの花」
もう花嬌は居ない。江戸で生きて居ても仕方がない。故郷に帰ろう。5月10日、柏原へ向けて出発しました。しかし、弟との話し合いは今度も不調に終わり、6月1日、江戸に帰ります。7月13日、富津に行き、花嬌の仏前に追悼の句を捧げました。「花草や言ふも語るも秋の風」「朝顔の花も昨日の昨日かな」
文化9年4月3日、花嬌の三回忌に参列。一茶は、花嬌追善会で次のような句を作りました。「目覚ましの牡丹芍薬でありしよな」「何ぞ言ふ張り合いもなし芥子の花」。その後、亡き花嬌の句集の編集を開始し、5月3日にその作業を終えました。翌年、ついに遺産問題が解決しました。さらに、その次の年には結婚しました。一茶は、その後も時々富津に行き、花嬌の墓参りをしています。
文化14年5月5日、花嬌の墓前に「露の世は得心ながらさりながら」という句を捧げました。そして、翌日から花嬌の旧庵に5日間宿泊しました。これが、愛する人がいた富津への最後の旅でした。
陰鬱でひねくれたイメージが付きまとう一茶ですが、彼は、弱い子供や動物たちへの限りない愛情も持っていたし、少年のような一途に恋い慕う純情可憐な心情も持っていたのでした。
■杉本武之プロフィール
1939年 碧南市に生まれる。
京都大学文学部卒業。
翻訳業を経て、小学校教師になるために愛知教育大学に入学。
25年間、西尾市の小中学校に勤務。
定年退職後、名古屋大学教育学部の大学院で学ぶ。
〈趣味〉読書と競馬
・老春の戯言No.001天国と地獄 ・私の出会った作品80 ・この指とまれ323 ・長澤晶子のSPEED★COOKING!
・日々是好日 ・美の回廊Vol.60 ・若竹俳壇 ・わが家のニューフェイス ・愛とMy Family ・昨年の幸せに感謝して、この1年の幸せをお願いする
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◎小林一茶(その1)
江戸時代後期の異色の俳諧師・小林一茶は、芭蕉や蕪村のような芸術家らしい風貌をしていませんでした。どちらかと言えば、田畑で働く農夫のような顔かたちをしていました。こんなふうに伝えられています。
「背が低く、太っていた。丸顔で、頬が広かった。頬骨が高く張っていて、目尻が細長く切れていた。小鼻が大きくて、唇が厚かった。耳たぶが豊かで、頭が大きかった。手の指は太く節くれだっていた」
一茶は女性にもてたでしょうか。もてなかったでしょう。色恋とは無縁の世界に生きていたと思います。しかし、そんな一茶にも、高嶺の花のような憧れの女性がいました。
その女性は、花嬌という、一茶の弟子でした。評判の才色兼備の未亡人でした。
一茶と花嬌のことを述べる前に、一茶の略年譜を書きます。
〈一茶の略年譜〉
・宝暦13年(1763)5月5日、信濃国水内郡柏原村に生まれた。名は弥太郎。父・小林弥五兵衛、母・くに。家は余り貧しくない中農。2年後、母が死去。
・明和7年(1770)父、さつ(27歳)と再婚。2年後、弟・専六(仙六)が誕生。
・安永6年(1777)春に江戸に出る。その後の10年間、消息不明。
・寛政元年(1789)夏から秋にかけて奥州行脚。
・寛政4年2月、江戸から西国に向かう。7年間、西国の各地を遊歴する。
・寛政10年8月、木曽路を経て江戸に帰る。
・享和元年(1801)2月、帰郷。父の最期を看取る。父は、遺産を兄弟で折半するようにという遺言状を一茶に渡す。
・文化4年(1807)11月、帰郷。遺産分割の交渉をする。決着せず、江戸に戻る。
・文化10年1月、ようやく弟・専六と和解。柏原に定住することを決意。
・文化11年4月11日、菊(28歳)と結婚。
・文化13年4月14日、長男・千太郎が誕生するが、5月に死亡。
・文政元年(1818)5月4日、長女・さとが誕生するが、翌年の6月に死亡。
・文政3年10月5日、次男・石太郎が誕生するが、翌年の1月に死亡。
・文政5年3月10日、三男・金三郎が誕生するが、翌年の12月に死亡。
・文政6年5月12日、妻の菊が死去。享年37。
・文政7年5月12日、雪(38歳)と再婚するが、8月に離縁。・文政9年8月、やを(32 歳)と3度目の結婚。
・文政10年(1827)11月19日、死去。享年64。
・文政11年4月、遺腹の次女・やたが誕生。やたは明治6年まで生きた。
◎一茶と花嬌
一茶が深く恋い慕った花嬌は、どういった女性だったのでしょうか。
彼女は、一茶より5歳ほど年上だったと思われます。上総(千葉県)の西川の名主の娘として生まれた。本名は園。成人して、富津の名主で酒造と金融を業とする豪商の織本家に嫁いだ。夫の織本嘉右衛門も俳句を好んだ。俳号は砂明。彼は寛政6年2月に46歳で亡くなった。その時、花嬌は36歳くらいだったと思われます。
さて、一茶は享和2年(1802)12月2日に花嬌からの手紙を受け取りました。手紙と共に二朱銀(約2万円)が同封されていました。弟子になった花嬌から師匠の一茶への指導料だったと思われます。この時、一茶は39歳、花嬌は44歳。花嬌はまだまだ美しく、そして感情もこまやかな女性でした。
花嬌と知り合って、それまで恋とは無縁だった一茶の心の世界が激変しました。彼女への思いは募るばかりでした。
その翌年から、一茶は、富津やその近在に何度も出掛けるようになります。房総方面には彼の門人が多かったことも確かですが、憧れの未亡人に会えるのを楽しみにしていたと思われます。こんな句を作っています。「美しき団扇持ちけり未亡人」
文化元年(1804)7月に富津に行き、七夕の7月7日、自分の思いがなかなか通じないもどかしさを織り込んで次のような句を作りました。「我が星は上総の空をうろつくか」「木に鳴くはやもめ烏か天の川」
文化3年5月7日、一茶が宿泊していた所に、思いがけず、花嬌が医師の文東(一茶の弟子)と共に訪ねて来ました。一茶は喜びました。次のような「目出度い」句を作っています。「目出度さは上総の蚊にも食われけり」「細々と蚊遣り目出度き宿りかな」 文化6年3月4日、富津で花嬌に会いました。嬉しくて仕方がない一茶は、こんな句を作りました。「散る花や仏ぎらいが浮かれけり」。そして、次の日に、花嬌の対潮庵で門人たちとの句会が開かれました。更に翌日も木更津で句会が催されました。
しかし、この時に詠まれた句には、明るさが少しも見られません。愛する花嬌への思慕を断ち切ろうという決意が色濃く織り込まれています。心境に大きな変化があったのでしょう。「蝶とぶやこの世に望みないように」「蓑虫は蝶にもならぬ覚悟かな」
5月、柏原に帰郷。しかし、弟との遺産相続の交渉はうまく行きませんでした。
文化7年4月3日、花嬌が亡くなりました。一茶は悲しみました。こんな句を作っています。「生きて居るばかりぞ我とけしの花」
もう花嬌は居ない。江戸で生きて居ても仕方がない。故郷に帰ろう。5月10日、柏原へ向けて出発しました。しかし、弟との話し合いは今度も不調に終わり、6月1日、江戸に帰ります。7月13日、富津に行き、花嬌の仏前に追悼の句を捧げました。「花草や言ふも語るも秋の風」「朝顔の花も昨日の昨日かな」
文化9年4月3日、花嬌の三回忌に参列。一茶は、花嬌追善会で次のような句を作りました。「目覚ましの牡丹芍薬でありしよな」「何ぞ言ふ張り合いもなし芥子の花」。その後、亡き花嬌の句集の編集を開始し、5月3日にその作業を終えました。翌年、ついに遺産問題が解決しました。さらに、その次の年には結婚しました。一茶は、その後も時々富津に行き、花嬌の墓参りをしています。
文化14年5月5日、花嬌の墓前に「露の世は得心ながらさりながら」という句を捧げました。そして、翌日から花嬌の旧庵に5日間宿泊しました。これが、愛する人がいた富津への最後の旅でした。
陰鬱でひねくれたイメージが付きまとう一茶ですが、彼は、弱い子供や動物たちへの限りない愛情も持っていたし、少年のような一途に恋い慕う純情可憐な心情も持っていたのでした。