◎わが町・大浜

 私は、昭和14年(1939)5月22日に碧南市で生まれました。当時はまだ市になっていなかったので、正確に言えば、碧海郡大浜町で生まれました。「碧南市」について、手元の百科事典は次のように説明しています。

 「碧南市」─ 愛知県南西部、矢作川の河口右岸にある市。昭和23年(1948)、大浜、新川、棚尾の3町と旭村が合体して市制。大浜、棚尾は室町時代からの港町で、江戸時代には江戸への廻船基地として、三州瓦、酒、味醂などを積み出した。昭和33年(1958)、衣浦港が重要港湾に指定された。昭和48年には海底トンネルが対岸の半田市と連絡した。

 先日、久しぶりに『写真集・碧南』(図書刊行会)を手に取りました。昭和55年に刊行された写真集です。一昔前の懐かしい風物の写真が満載されており、83歳の後期高齢者の私は、写真を見ながら、昔のことをいろいろ思い出していました。私が生まれ育った家はどこにも写ってはいませんが、よく遊んだ隣の寺、釣りや泳ぎを楽しんだすぐ近くの海岸、通学時に渡った橋、半田や武豊の親戚の家に行く時に利用した渡船など、今でもよく思い出す風景の写真を見ながら、懐旧の念にかられ、私は何度も何度も滲み出る涙を手の甲で拭いました。女房がやって来て「夕ごはんですよ。早く来なさいね」と声を掛けるまで、私は古い幻灯を見ているような、夢のようでもあり現のようでもある、不思議な、長い長い時間を過ごしていました。

 大学時代の7年間を京都で過ごした以外は、ずっと大浜で暮らしてきました。結婚後は生家から少し離れた所に住んでいます。この大浜の地で死ぬことを願っています。

 今から、私が小さかった頃に経験した恐ろしい地震と台風のことを中心に書きます。

①東南海地震

 昭和19年(1944)12月7日午後1時36分に大きな地震が発生しました。東南海地震。震源地は遠州灘の海底。私は5歳でした。昼食を食べ終えた後、近くの常行院という寺の前の空き地で、紙芝居を見ていました。

 突然、大地が揺れました。目の前で倒壊した家屋はありませんでしたが、私の立っている周囲が激しく震動しているのを全身で感じ、どうしていいか分からず、ただただ恐ろしい思いをしていました。通りを隔てた茶を売る店の壁に、稲妻のように長い亀裂が走って行く瞬間を、今でもはっきりと覚えています。

 『写真集』には、三河線大浜駅の待合室が半壊している写真と、工場の一部が倒壊した大きな鉄工所の写真が掲載されています。

 

②三河地震

 それから37日後の昭和20年(1945)1月13日午前3時38分に、再び大きな地震が発生しました。三河地震。震源地は三河湾の海底。この夜、私は、離れの部屋で祖母と二人で寝ていました。他の家族は、母屋で寝ていました。

 この地震は激烈でした。暗闇の中で何が起こったのかはっきりとは覚えていませんが、祖母と私は狭い庭に出ました。隣の家は二階建なので、倒壊すると危ないと思ったのか、二人は家の後ろのお寺(林泉寺)の畑に逃げました。寒い夜でした。大地の揺れと心の動揺が少し落ち着いてくると、祖母が「布団を取って来る」と言って離れに戻り、布団を運んで来ました。二人は畑で布団にくるまって夜明けを待ちました。母屋で寝ていた他の家族は家の前の大通りに逃げました。隣近所の人たちも通りに避難していました。

 二つの相次ぐ大地震に心底からおびえた町の人たちは、家の中で暮らすのが怖いので、安全な空き地などに簡単な地震小屋を建てて生活するようになりました。私たち一家は、私と祖母が逃げ込んだお寺の畑の片隅に仮の小屋を作りました。どのくらい地震小屋にいたかは覚えていません。そんなに長くいた記憶がないので、余震が収まった1カ月後くらいから、こわごわ家での生活が再開されたのではないかと思っています。

 『写真集』には、崩壊した応仁寺の本堂の写真と、倒壊した西端の国民学校の西校舎の写真が掲載されています。応仁寺の本堂は、昭和34年に再建されました。西端国民学校の西校舎の復旧は、戦時中の資材不足で、なかなかはかどらなったということです。

 

③台風13号

 昭和28年(1953)9月25日、台風13号が碧南市を襲いました。私は14歳で、中学2年生でした。

 その日、父は名古屋の会社に働きに行きましたが、台風の接近のため名鉄の運転が中止になり家に帰ることができなくなりました。大学生の長兄は名古屋に下宿していました。家には母と姉と次兄、そして私と4人の妹がいました。頼りになる父と長兄が不在なので、私たち8人はとても不安な気持ちで強い台風の接近を待ちました。

 『写真集』にはこう書いてあります。「台風13号は、昭和28年9月25日、953ミリバール(ヘクトパスカル)の勢力を持って紀伊半島に上陸し、三重県東部から知多半島および碧南市をかすめ、岡崎市付近を通過した」

 早めに夕食を終えました。風が強くなってきました。私たちは母屋の一室に集まっていました。猛烈に吹いていた風が、突然、止みました。周囲が静かになり、通りから人の話し声が聞こえてきました。「台風の目」に入ったのでした。私は庭に出てみました。夜空に星が瞬いていました。本当に不思議な気持ちがしました。私は家の中に戻りました。

 やがて「吹き返し」が始まりました。それまで以上に強い風が吹いてきました。部屋の壁が崩れ落ちそうな気配を感じた母が、私たちに「離れへ逃げよう」と言いました。皆は離れに避難しました。母屋より風当たりが数段弱く感じられました。「初めから離れにいれば良かったのにね」と母が言いました。

 『写真集』には、堤防の決壊によって水浸しになった三河線・玉津浦駅付近の写真と、高潮によって船が陸上に打ち上げられ、港付近の家屋を壊した大浜港付近の写真と、すっかり水に浸かってしまった前浜新田の家屋と畑の写真が掲載されています。

 

◎伊勢湾台風

 昭和34年9月26日午後6時に潮岬に上陸した伊勢湾台風も、碧南市に甚大な被害をもたらしました。しかし、この超大型台風が襲来した時、私は大学1年生で宇治に下宿していました。初めは、台風は関西地方を直撃すると予想されていました。丁度テストの時期で、これでテストは延期されると喜んでいました。予想進路が東にずれて、京都は直撃を免れました。しかし、碧南市は大きな被害を受けていました。

 『写真集』には、多くの船や流木が打ち上げられた大浜港付近の写真(写真参照)や、一面に海水に浸かり小舟も浮かんでいる大浜小学校の運動場の写真などが掲載されています。

 

■杉本武之プロフィール

1939年 碧南市に生まれる。

京都大学文学部卒業。

翻訳業を経て、小学校教師になるために愛知教育大学に入学。

25年間、西尾市の小中学校に勤務。

定年退職後、名古屋大学教育学部の大学院で学ぶ。

〈趣味〉読書と競馬

 

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◎わが町・大浜

 私は、昭和14年(1939)5月22日に碧南市で生まれました。当時はまだ市になっていなかったので、正確に言えば、碧海郡大浜町で生まれました。「碧南市」について、手元の百科事典は次のように説明しています。

 「碧南市」─ 愛知県南西部、矢作川の河口右岸にある市。昭和23年(1948)、大浜、新川、棚尾の3町と旭村が合体して市制。大浜、棚尾は室町時代からの港町で、江戸時代には江戸への廻船基地として、三州瓦、酒、味醂などを積み出した。昭和33年(1958)、衣浦港が重要港湾に指定された。昭和48年には海底トンネルが対岸の半田市と連絡した。

 先日、久しぶりに『写真集・碧南』(図書刊行会)を手に取りました。昭和55年に刊行された写真集です。一昔前の懐かしい風物の写真が満載されており、83歳の後期高齢者の私は、写真を見ながら、昔のことをいろいろ思い出していました。私が生まれ育った家はどこにも写ってはいませんが、よく遊んだ隣の寺、釣りや泳ぎを楽しんだすぐ近くの海岸、通学時に渡った橋、半田や武豊の親戚の家に行く時に利用した渡船など、今でもよく思い出す風景の写真を見ながら、懐旧の念にかられ、私は何度も何度も滲み出る涙を手の甲で拭いました。女房がやって来て「夕ごはんですよ。早く来なさいね」と声を掛けるまで、私は古い幻灯を見ているような、夢のようでもあり現のようでもある、不思議な、長い長い時間を過ごしていました。

 大学時代の7年間を京都で過ごした以外は、ずっと大浜で暮らしてきました。結婚後は生家から少し離れた所に住んでいます。この大浜の地で死ぬことを願っています。

 今から、私が小さかった頃に経験した恐ろしい地震と台風のことを中心に書きます。

 

 

①東南海地震

 昭和19年(1944)12月7日午後1時36分に大きな地震が発生しました。東南海地震。震源地は遠州灘の海底。私は5歳でした。昼食を食べ終えた後、近くの常行院という寺の前の空き地で、紙芝居を見ていました。

 突然、大地が揺れました。目の前で倒壊した家屋はありませんでしたが、私の立っている周囲が激しく震動しているのを全身で感じ、どうしていいか分からず、ただただ恐ろしい思いをしていました。通りを隔てた茶を売る店の壁に、稲妻のように長い亀裂が走って行く瞬間を、今でもはっきりと覚えています。

 『写真集』には、三河線大浜駅の待合室が半壊している写真と、工場の一部が倒壊した大きな鉄工所の写真が掲載されています。

 

②三河地震

 それから37日後の昭和20年(1945)1月13日午前3時38分に、再び大きな地震が発生しました。三河地震。震源地は三河湾の海底。この夜、私は、離れの部屋で祖母と二人で寝ていました。他の家族は、母屋で寝ていました。

 この地震は激烈でした。暗闇の中で何が起こったのかはっきりとは覚えていませんが、祖母と私は狭い庭に出ました。隣の家は二階建なので、倒壊すると危ないと思ったのか、二人は家の後ろのお寺(林泉寺)の畑に逃げました。寒い夜でした。大地の揺れと心の動揺が少し落ち着いてくると、祖母が「布団を取って来る」と言って離れに戻り、布団を運んで来ました。二人は畑で布団にくるまって夜明けを待ちました。母屋で寝ていた他の家族は家の前の大通りに逃げました。隣近所の人たちも通りに避難していました。

 二つの相次ぐ大地震に心底からおびえた町の人たちは、家の中で暮らすのが怖いので、安全な空き地などに簡単な地震小屋を建てて生活するようになりました。私たち一家は、私と祖母が逃げ込んだお寺の畑の片隅に仮の小屋を作りました。どのくらい地震小屋にいたかは覚えていません。そんなに長くいた記憶がないので、余震が収まった1カ月後くらいから、こわごわ家での生活が再開されたのではないかと思っています。

 『写真集』には、崩壊した応仁寺の本堂の写真と、倒壊した西端の国民学校の西校舎の写真が掲載されています。応仁寺の本堂は、昭和34年に再建されました。西端国民学校の西校舎の復旧は、戦時中の資材不足で、なかなかはかどらなったということです。

 

③台風13号

 昭和28年(1953)9月25日、台風13号が碧南市を襲いました。私は14歳で、中学2年生でした。

 その日、父は名古屋の会社に働きに行きましたが、台風の接近のため名鉄の運転が中止になり家に帰ることができなくなりました。大学生の長兄は名古屋に下宿していました。家には母と姉と次兄、そして私と4人の妹がいました。頼りになる父と長兄が不在なので、私たち8人はとても不安な気持ちで強い台風の接近を待ちました。

 『写真集』にはこう書いてあります。「台風13号は、昭和28年9月25日、953ミリバール(ヘクトパスカル)の勢力を持って紀伊半島に上陸し、三重県東部から知多半島および碧南市をかすめ、岡崎市付近を通過した」

 早めに夕食を終えました。風が強くなってきました。私たちは母屋の一室に集まっていました。猛烈に吹いていた風が、突然、止みました。周囲が静かになり、通りから人の話し声が聞こえてきました。「台風の目」に入ったのでした。私は庭に出てみました。夜空に星が瞬いていました。本当に不思議な気持ちがしました。私は家の中に戻りました。

 やがて「吹き返し」が始まりました。それまで以上に強い風が吹いてきました。部屋の壁が崩れ落ちそうな気配を感じた母が、私たちに「離れへ逃げよう」と言いました。皆は離れに避難しました。母屋より風当たりが数段弱く感じられました。「初めから離れにいれば良かったのにね」と母が言いました。

 『写真集』には、堤防の決壊によって水浸しになった三河線・玉津浦駅付近の写真と、高潮によって船が陸上に打ち上げられ、港付近の家屋を壊した大浜港付近の写真と、すっかり水に浸かってしまった前浜新田の家屋と畑の写真が掲載されています。

 

◎伊勢湾台風

 昭和34年9月26日午後6時に潮岬に上陸した伊勢湾台風も、碧南市に甚大な被害をもたらしました。しかし、この超大型台風が襲来した時、私は大学1年生で宇治に下宿していました。初めは、台風は関西地方を直撃すると予想されていました。丁度テストの時期で、これでテストは延期されると喜んでいました。予想進路が東にずれて、京都は直撃を免れました。しかし、碧南市は大きな被害を受けていました。

 『写真集』には、多くの船や流木が打ち上げられた大浜港付近の写真(写真参照)や、一面に海水に浸かり小舟も浮かんでいる大浜小学校の運動場の写真などが掲載されています。