森田萬右衛門の実践は、明治12年、28歳の時に三芳村(富貴村ができる合併前の村)の戸長を申しつけられた時より始まります。学務委員、郡及び村会議員、村長、農事奨励委員、養蚕・畜産養鶏の各組合長、同連合会の正副会長その他を歴任し、村治の発展、農業の改良と奨励、淳風美俗の推進その他に努力すること60年に及んでいます。しかし本当は三芳村戸長に任命される前に戸長にふさわしい仕事をしていたから任命されたのですから、青年時代以降死ぬまで、富貴村の幸せづくりに貢献したとなります。

 私はこの活動を杉浦旭順法印の薫陶に応えてと理解しますが、法印がこの萬右衛門の活動を見たらボクは口だけだったけれど萬右衛門君は実際にやっている。比較にならんよ。萬右衛門君の方が上に決まっていると言っただろうと思います。

 それに森田萬右衛門はよく学んでいます。誰から学んだか調べても出て来なかったけれど、多分以下の村づくりの仕組みにおいて学んだのだと思います。

 

 萬右衛門は有望なる教育家の養成による教育の普及と振興によって、村を学的にしたい。この目標を達成するために青年を選抜して模範学校に送り、卒業後は本村の小学校に従事せしめたと言っていますので。

 

 萬右衛門はこの卒業生を束ねて村を学的にしたのだと思います。これを強制や義務でそうさせたのではなく、村の課題を解決するために。どうしたらいい、と問いかけながら彼らの意見を聞き、自らの知識へとまとめて言ったように思えます。「富貴村経済更生計画」を読むと、それが如実に分かります。

 「富貴村経済更生計画」は極めて学的で、科学的にまとめられています。

①畜農一体の農業を確立し、金肥を減らし食糧の増産をはかる。

②農道や水路を利用しやすい形に整備し無駄な労力を省き、余剰労力を生み出す。

②で生み出された余剰労力を①に回して畜農一体の農業を充実させ、かつ農地の開墾にも向かわせる。

 

となっています。私はこれを読んだ時、日本版TVAではないかニューディールではないかと思いました。リトルですが。農業を科学と結びつける思考が素晴らしい。

 更に、村は法印の戒めを忘れ、再び村の風紀は乱れてきます。賭博が横行し、野荒らしが起きるようになります。萬右衛門は万難を排して、違反者には科料金並びに交際止めの規約を制定して、これらの弊風を一掃します。しかし処罰での一掃では、また復活してきます。そこで村を思う道徳心の涵養を目指して「富貴村全村学校」開催を目指すことになるのでした。

 しかし、そこへ日本軍国主義が入り込んで来るのでした。豊かな村づくりこそ国を守る根本の道として。この昭和3年の時代は戦争反対とは言えない時代でした。実際中国と戦争をしていました。森田萬右衛門もこの軍国主義を担うことになります。村を思う道徳心の涵養を皇国民育成の心として考えるようになります。そしてそういうものとして、「富貴村全村学校」を推進しました。

 しかし、豊かな村づくりと戦争遂行は相容れないものと自覚させられます。

 昭和9年の「富貴村経済更生計画」はそれを具体的に示す場となりました。

 この計画は、昭和8年斎藤内閣による農山漁村の窮乏を救うために農山漁村は自ら更生計画を立て努力せよという号令に応えて立てられますが、計画は立派でも実践は実質不可能としたからです。戦争をしていては幸せな村づくりはできないと。

 反戦思想を内に含むこの厭戦思想の確認をもって私は森田萬右衛門は軍国主義に留まり得なかったと断言します。森田萬右衛門は戦争嫌いの平和主義者だったと結論します。

 

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 森田萬右衛門の実践は、明治12年、28歳の時に三芳村(富貴村ができる合併前の村)の戸長を申しつけられた時より始まります。学務委員、郡及び村会議員、村長、農事奨励委員、養蚕・畜産養鶏の各組合長、同連合会の正副会長その他を歴任し、村治の発展、農業の改良と奨励、淳風美俗の推進その他に努力すること60年に及んでいます。しかし本当は三芳村戸長に任命される前に戸長にふさわしい仕事をしていたから任命されたのですから、青年時代以降死ぬまで、富貴村の幸せづくりに貢献したとなります。

 私はこの活動を杉浦旭順法印の薫陶に応えてと理解しますが、法印がこの萬右衛門の活動を見たらボクは口だけだったけれど萬右衛門君は実際にやっている。比較にならんよ。萬右衛門君の方が上に決まっていると言っただろうと思います。

 それに森田萬右衛門はよく学んでいます。誰から学んだか調べても出て来なかったけれど、多分以下の村づくりの仕組みにおいて学んだのだと思います。

 

 萬右衛門は有望なる教育家の養成による教育の普及と振興によって、村を学的にしたい。この目標を達成するために青年を選抜して模範学校に送り、卒業後は本村の小学校に従事せしめたと言っていますので。

 

 萬右衛門はこの卒業生を束ねて村を学的にしたのだと思います。これを強制や義務でそうさせたのではなく、村の課題を解決するために。どうしたらいい、と問いかけながら彼らの意見を聞き、自らの知識へとまとめて言ったように思えます。「富貴村経済更生計画」を読むと、それが如実に分かります。

 「富貴村経済更生計画」は極めて学的で、科学的にまとめられています。

①畜農一体の農業を確立し、金肥を減らし食糧の増産をはかる。

②農道や水路を利用しやすい形に整備し無駄な労力を省き、余剰労力を生み出す。

②で生み出された余剰労力を①に回して畜農一体の農業を充実させ、かつ農地の開墾にも向かわせる。

 

となっています。私はこれを読んだ時、日本版TVAではないかニューディールではないかと思いました。リトルですが。農業を科学と結びつける思考が素晴らしい。

 更に、村は法印の戒めを忘れ、再び村の風紀は乱れてきます。賭博が横行し、野荒らしが起きるようになります。萬右衛門は万難を排して、違反者には科料金並びに交際止めの規約を制定して、これらの弊風を一掃します。しかし処罰での一掃では、また復活してきます。そこで村を思う道徳心の涵養を目指して「富貴村全村学校」開催を目指すことになるのでした。

 しかし、そこへ日本軍国主義が入り込んで来るのでした。豊かな村づくりこそ国を守る根本の道として。この昭和3年の時代は戦争反対とは言えない時代でした。実際中国と戦争をしていました。森田萬右衛門もこの軍国主義を担うことになります。村を思う道徳心の涵養を皇国民育成の心として考えるようになります。そしてそういうものとして、「富貴村全村学校」を推進しました。

 しかし、豊かな村づくりと戦争遂行は相容れないものと自覚させられます。

 昭和9年の「富貴村経済更生計画」はそれを具体的に示す場となりました。

 この計画は、昭和8年斎藤内閣による農山漁村の窮乏を救うために農山漁村は自ら更生計画を立て努力せよという号令に応えて立てられますが、計画は立派でも実践は実質不可能としたからです。戦争をしていては幸せな村づくりはできないと。

 反戦思想を内に含むこの厭戦思想の確認をもって私は森田萬右衛門は軍国主義に留まり得なかったと断言します。森田萬右衛門は戦争嫌いの平和主義者だったと結論します。