◎チェーホフ(その3)
チェーホフの『サハリン島』を読み終えるのに半年以上かかりました。
5百ページを超える大作です。読むのに時間がかかるのは当然ですが、それにしても、なかなか読み通すことができませんでした。すらすら読める小説ではなくて、綿密な調査報告書だったからでしょうか。
チェーホフは、1890年4月、30歳の時、病身を押して遠いサハリン島への旅に出ました。『曠野』『退屈な話』などの多くの小説や『イワーノフ』などの戯曲を発表し、プーシキン賞も受賞していた人気作家が、鉄道もなかった広大なシベリアを汽船や馬車で乗り越えて、流刑地サハリン島へ単身で出掛けたのでした。チェーホフは、出発直前まで、この危険極まりない旅行計画を、家族にさえ打ち明けませんでした。計画を知らされて、家族も友人や知人たちもびっくり仰天しました。
何故こんな無謀と思われる企てを敢行したのでしょうか。その動機は未だに明らかではありません。私もいろいろ考えましたが、多くの説の中で、私はドイツの作家トーマス・マンの考えが一番気に入っています。─前年の6月に次兄の画家ニコライが肺結核で死んだ。チェーホフはその死に激しい衝撃を受けた。また、それより半年前に、チェーホフは魅力的な人妻のリディヤ・アヴィーロワと知り合い、互いに好意を抱いた。彼は激しく恋した。しかし、相手は人妻であり、気楽には会えなかった。チェーホフは苦悶した。
トーマス・マンは、チェーホフの冒険的行動は「兄の死による絶望からの立ち直りと、リディヤ・アヴィーロワに対する思慕を断ち切るための行為である」と考えたのでした。
◎シベリアまでの行程
チェーホフの苦難に満ちたシベリアの旅のコースの概略は次のようです。
1890年4月19日、汽車でモスクワを立ち、ヤロスラーヴリまで行く。4月20日、汽船に乗ってヴォルガ川を下る。4月23日、カザンに着く。さらにヴォルガ川、カーマ川を航行。4月27日、ペールミに着く。汽車でエカテリンブルグまで行く。体調が悪くなり、数日間、同地に宿泊。5月2日、汽車に乗り、翌日、チュメーニに着く。この日から、2カ月に及ぶ4千キロ以上の「馬車の長旅」が始まる。6月20日、スレーチェンクスに着く。汽船に乗ってシルカ川、アムール川を下る。6月26日、ブラゴヴェーンシチェンスクに着く。翌日、汽船を乗り換え、6月30日、ハバーロフスクに着く。7月5日、極東のニコラーエフスクに到着する。
7月11日、タタール海峡を渡ってサハリン島に到着。そして、アレクサンドロフスク監視所から上陸した。モスクワを出発して83 日目のことだった。
7月30日、サハリン島長官は、チェーホフに次のような証明書を渡した。
「サハリン島長官は、医師アントン・パーヴロヴィチ・チェーホフに対し、サハリン島の徒刑の状態についての文学的著作に必要な各種統計資料と材料の収集を許可する。各管区長は、チェーホフ氏が上記の目的で刑務所と入植地を訪れる際に然るべき援助を与え、必要な場合には、公文書類から各種の書き抜きをする機会を提供すること」
チェーホフは、3カ月に亙って精力的に島の実態を調査した。そして、10月13日、南部サハリンのコルサーコフ監視所から、義勇艦隊ペテルブルグ号に乗って帰国の途についた。日本に立ち寄ることを夢見ていたが、当時、極東地域にコレラが蔓延していたので、長崎寄港は実現しなかった。香港、シンガポール、コロンボ、それからインド洋、紅海、スエズ運河、地中海、黒海を経て、12月5日、オデッサに着いた。そして、12月8日、モスクワに到着した。4月12日に出発してから、シベリア旅行とサハリン島の実態調査を終えて、8カ月ぶりにモスクワに戻った。
◎『サハリン島』
チェーホフは、調査旅行から帰った翌年の3月から『サハリン島』の執筆を開始し、その後長期に亙って書き続けた。作品は『ロシア思想』の1893年10月号から翌年7月号まで連載された。そして、終わりの4章が書き加えられて、1895年5月に『サハリン島(旅の手記から)』という題名で単行本として出版された。
『サハリン島』の内容を少し紹介します。
チェーホフは実態調査の方法として、個別に面談するやり方を取りました。
「出来る限りすべての居住地を訪ね、大部分の囚人の生活に親しく接するために、私の立場としてはこれしかないと思われる面談の方法を取ることにした。訪れた村で、私はすべての小屋を回って、主人夫婦、家族、同居人、使用人などを書き留めた。手数と手間を省くために、助手を使ってはと親切に言ってくれる人もあったが、調査に当たって私が目的としたのは、結果ではなくて、調査の過程そのものの与える印象だったので、他人の手を借りることは、滅多になかった。一人の人間が3カ月で行ったこの作業は、本当を言えば、調査とは言えないものだ。
調査にはカードを使ったが、それは個人用に警察署の印刷所で刷ってもらったものだ。カードの1行目は監視所または村の名。2行目は役所の登記簿による家屋番号。3行目は記載された者の身分─徒刑囚、流刑囚、元流刑囚の農民、自由民などの別。4行目は名と父称と名字。5行目は年齢。6行目は信仰関係。7行目は出生地。8行目は何年からサハリンにいるか。9行目は主な職業と手職。10行目は読み書き能力。11行目は家庭状況で、既婚者か寡婦か独身者か。12行目は国庫から扶助を受けているかどうか。 私は小屋から小屋へと一人で回った。時には、徒刑囚なり流刑囚なりがついて来たが、それは退屈しのぎに案内役を買って出てくれたのだった」
このようにしてチェーホフが作成した対面調査カードは、今でも7千8百枚余りが保存されています。彼は、サハリンの全住民の完全で詳細の調査をしたのでした。 チェーホフは、アイヌについて次のように書いています。
「南部サハリンの原住民に、君らは何者だ、と尋ねると、種族も国籍も言わずに、アイノとだけ答える。これは、人間という意味だ。アイヌは決して体を洗わないし、寝る時も着替えない。アイヌのことを書いている殆どすべての人が、彼らの性質を最もいい面から見ている。この民族は、温和で、控え目で、善良で、人を信頼し、人付き合いが良く、礼儀正しく、私有財産を尊重し、狩りの時は勇敢だ、というのが大方の見方である。
アイヌの男たちが堂々としていて、品もいいだけに、妻たちや母親たちはいっそうみっともない。既婚女性は唇を何やら青く染めているので、その顔には人間らしい面影がまるでない。私は彼女たちを近くで眺め、彼女たちが匙で鍋をかき回しながら、汚い灰あ汁くをすくっている真剣な、殆ど荒々しい態度を目にした時、本当の魔女に出会ったような気がした。けれども女の子や娘たちは、それほど不愉快な印象は与えない」
■杉本武之プロフィール
1939年 碧南市に生まれる。
京都大学文学部卒業。
翻訳業を経て、小学校教師になるために愛知教育大学に入学。
25年間、西尾市の小中学校に勤務。
定年退職後、名古屋大学教育学部の大学院で学ぶ。
〈趣味〉読書と競馬
・『新・現代家庭考』 就職139 ・私の出会った作品77 ・この指とまれ320 ・長澤晶子のSPEED★COOKING!
・日々是好日 ・知多の哲学散歩道Vol.35 ・若竹俳壇 ・わが家のニューフェイス ・愛とMy Family ・ミニミニコンサート
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◎チェーホフ(その3)
チェーホフの『サハリン島』を読み終えるのに半年以上かかりました。
5百ページを超える大作です。読むのに時間がかかるのは当然ですが、それにしても、なかなか読み通すことができませんでした。すらすら読める小説ではなくて、綿密な調査報告書だったからでしょうか。
チェーホフは、1890年4月、30歳の時、病身を押して遠いサハリン島への旅に出ました。『曠野』『退屈な話』などの多くの小説や『イワーノフ』などの戯曲を発表し、プーシキン賞も受賞していた人気作家が、鉄道もなかった広大なシベリアを汽船や馬車で乗り越えて、流刑地サハリン島へ単身で出掛けたのでした。チェーホフは、出発直前まで、この危険極まりない旅行計画を、家族にさえ打ち明けませんでした。計画を知らされて、家族も友人や知人たちもびっくり仰天しました。
何故こんな無謀と思われる企てを敢行したのでしょうか。その動機は未だに明らかではありません。私もいろいろ考えましたが、多くの説の中で、私はドイツの作家トーマス・マンの考えが一番気に入っています。─前年の6月に次兄の画家ニコライが肺結核で死んだ。チェーホフはその死に激しい衝撃を受けた。また、それより半年前に、チェーホフは魅力的な人妻のリディヤ・アヴィーロワと知り合い、互いに好意を抱いた。彼は激しく恋した。しかし、相手は人妻であり、気楽には会えなかった。チェーホフは苦悶した。
トーマス・マンは、チェーホフの冒険的行動は「兄の死による絶望からの立ち直りと、リディヤ・アヴィーロワに対する思慕を断ち切るための行為である」と考えたのでした。
◎シベリアまでの行程
チェーホフの苦難に満ちたシベリアの旅のコースの概略は次のようです。
1890年4月19日、汽車でモスクワを立ち、ヤロスラーヴリまで行く。4月20日、汽船に乗ってヴォルガ川を下る。4月23日、カザンに着く。さらにヴォルガ川、カーマ川を航行。4月27日、ペールミに着く。汽車でエカテリンブルグまで行く。体調が悪くなり、数日間、同地に宿泊。5月2日、汽車に乗り、翌日、チュメーニに着く。この日から、2カ月に及ぶ4千キロ以上の「馬車の長旅」が始まる。6月20日、スレーチェンクスに着く。汽船に乗ってシルカ川、アムール川を下る。6月26日、ブラゴヴェーンシチェンスクに着く。翌日、汽船を乗り換え、6月30日、ハバーロフスクに着く。7月5日、極東のニコラーエフスクに到着する。
7月11日、タタール海峡を渡ってサハリン島に到着。そして、アレクサンドロフスク監視所から上陸した。モスクワを出発して83 日目のことだった。
7月30日、サハリン島長官は、チェーホフに次のような証明書を渡した。
「サハリン島長官は、医師アントン・パーヴロヴィチ・チェーホフに対し、サハリン島の徒刑の状態についての文学的著作に必要な各種統計資料と材料の収集を許可する。各管区長は、チェーホフ氏が上記の目的で刑務所と入植地を訪れる際に然るべき援助を与え、必要な場合には、公文書類から各種の書き抜きをする機会を提供すること」
チェーホフは、3カ月に亙って精力的に島の実態を調査した。そして、10月13日、南部サハリンのコルサーコフ監視所から、義勇艦隊ペテルブルグ号に乗って帰国の途についた。日本に立ち寄ることを夢見ていたが、当時、極東地域にコレラが蔓延していたので、長崎寄港は実現しなかった。香港、シンガポール、コロンボ、それからインド洋、紅海、スエズ運河、地中海、黒海を経て、12月5日、オデッサに着いた。そして、12月8日、モスクワに到着した。4月12日に出発してから、シベリア旅行とサハリン島の実態調査を終えて、8カ月ぶりにモスクワに戻った。
◎『サハリン島』
チェーホフは、調査旅行から帰った翌年の3月から『サハリン島』の執筆を開始し、その後長期に亙って書き続けた。作品は『ロシア思想』の1893年10月号から翌年7月号まで連載された。そして、終わりの4章が書き加えられて、1895年5月に『サハリン島(旅の手記から)』という題名で単行本として出版された。
『サハリン島』の内容を少し紹介します。
チェーホフは実態調査の方法として、個別に面談するやり方を取りました。
「出来る限りすべての居住地を訪ね、大部分の囚人の生活に親しく接するために、私の立場としてはこれしかないと思われる面談の方法を取ることにした。訪れた村で、私はすべての小屋を回って、主人夫婦、家族、同居人、使用人などを書き留めた。手数と手間を省くために、助手を使ってはと親切に言ってくれる人もあったが、調査に当たって私が目的としたのは、結果ではなくて、調査の過程そのものの与える印象だったので、他人の手を借りることは、滅多になかった。一人の人間が3カ月で行ったこの作業は、本当を言えば、調査とは言えないものだ。
調査にはカードを使ったが、それは個人用に警察署の印刷所で刷ってもらったものだ。カードの1行目は監視所または村の名。2行目は役所の登記簿による家屋番号。3行目は記載された者の身分─徒刑囚、流刑囚、元流刑囚の農民、自由民などの別。4行目は名と父称と名字。5行目は年齢。6行目は信仰関係。7行目は出生地。8行目は何年からサハリンにいるか。9行目は主な職業と手職。10行目は読み書き能力。11行目は家庭状況で、既婚者か寡婦か独身者か。12行目は国庫から扶助を受けているかどうか。 私は小屋から小屋へと一人で回った。時には、徒刑囚なり流刑囚なりがついて来たが、それは退屈しのぎに案内役を買って出てくれたのだった」
このようにしてチェーホフが作成した対面調査カードは、今でも7千8百枚余りが保存されています。彼は、サハリンの全住民の完全で詳細の調査をしたのでした。 チェーホフは、アイヌについて次のように書いています。
「南部サハリンの原住民に、君らは何者だ、と尋ねると、種族も国籍も言わずに、アイノとだけ答える。これは、人間という意味だ。アイヌは決して体を洗わないし、寝る時も着替えない。アイヌのことを書いている殆どすべての人が、彼らの性質を最もいい面から見ている。この民族は、温和で、控え目で、善良で、人を信頼し、人付き合いが良く、礼儀正しく、私有財産を尊重し、狩りの時は勇敢だ、というのが大方の見方である。
アイヌの男たちが堂々としていて、品もいいだけに、妻たちや母親たちはいっそうみっともない。既婚女性は唇を何やら青く染めているので、その顔には人間らしい面影がまるでない。私は彼女たちを近くで眺め、彼女たちが匙で鍋をかき回しながら、汚い灰あ汁くをすくっている真剣な、殆ど荒々しい態度を目にした時、本当の魔女に出会ったような気がした。けれども女の子や娘たちは、それほど不愉快な印象は与えない」