私はこの森田萬右衛門の思想を、この欄で紹介するかどうかで随分悩みました。

 知多の哲学者ということで言えば、森田萬右衛門ほど、みんなの幸せを考え、頑張った人はいないと言いたくなるほどに頑張った人なのです。その人を知多の哲学者を訪ねることを目標とした「知多の哲学散歩道」において、抜かすことはできません。しかし彼は軍国主義を担った人なのです。それには触れないで哲学者の面のみを強調すれば私の思想性が問われます。こういうことですので随分悩みました。しかしやっと目途がついたので書くことにします。どうついたか。彼は軍国主義に留まり得なかった。このことが分かったからです。森田萬右衛門は平和主義者でした。

 森田萬右衛門は武豊町富貴の人。生没年は1852年?1934年。83歳で逝去。

 「みんなで幸せになろう」。彼におけるこの思想の全面開花は昭和3年の「富貴村全村学校」と昭和9年の「富貴村経済更生計画」に見ることができます。では、この思想を誰から学んだのでしょうか。同村の円観寺や同寺に設けられた寺子屋であり、同寺13世住職の杉浦旭順法印からでした。とりわけ杉浦旭順法印には萬右衛門は、「老僧」・「名僧」・「知識」という惜しみない讃仰の語でもって讃えています。「郷土の歴史をつくった人」とも言っています。

 では、杉浦旭順法印はどういう人であったか。もちろん、「みんなで幸せになろう」こういう人でした。具体的に書きましょう。

 法印は「仏説延命地蔵菩薩経」でもって、檀家を指導し寺子を指導しました。

 その功績は一杯あります。その中でも第一のものは村民から「地蔵尊座像」を贈られたことです。その地蔵尊座像には以下の文言が刻されています。この像は境内の正面の西に鎮座しています。

 台座の部分には「若有重苦我代受苦」とあり、礎石の部分には「当寺十三世中興」、「大阿闍梨法印旭順大和尚」、「施主 檀方中 筆子中」とあります。

 加藤大道円観寺住職が「若有重苦我代受苦」は仏説延命地蔵菩薩経に出てくる語で意味は「もし重苦ありなば、我代りて苦を受く」ですと教えてくれました。

 それゆえ、刻された文言を総合的に解釈すれば檀方は檀徒のこと、筆子は寺子屋の寺子のことですので檀徒や寺子が施主となって地蔵尊の心で我らを導きいただいた大阿闍梨法印旭順大和尚に感謝の気持ちを込めて、この地蔵尊像を寄進いたしますとなります。

 法印は具体的にどう村民を導いたのでしょうか。富貴村は漁業や千石船による海運業が盛んな村でしたが難治村と言われていました。船の生活は「板子一枚下は地獄」ですので、どうしても村民の気性は荒くなり、儲けたお金はその場で使うという刹那主義にあって野荒らしが横行していました。しかし、これは村民にとって大変な「重苦」です。法印はこれを自らの問題ととらえ、一方で金比羅宮を設置し船の安全を祈願しつつ、他方では村民に対して「それはいかんぞ、それでは幸せになれんぞ、みんなで幸せになろうと思わなければな」と諭します。お前が儲けたお金は、お前だけのものではない。お前を支えた人のお金でもある。家族のもの、村のものなのだ。この心で、いい村をつくってみんなで幸せになろうと説きました。

 仏説延命地蔵菩薩経は「大乗無依の行」の大切さを説いています。煩悩から出てくる私物の心を克服して、みんなで幸せになるための行を積みなさいと言います。

(次号につづく)

 

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 私はこの森田萬右衛門の思想を、この欄で紹介するかどうかで随分悩みました。

 知多の哲学者ということで言えば、森田萬右衛門ほど、みんなの幸せを考え、頑張った人はいないと言いたくなるほどに頑張った人なのです。その人を知多の哲学者を訪ねることを目標とした「知多の哲学散歩道」において、抜かすことはできません。しかし彼は軍国主義を担った人なのです。それには触れないで哲学者の面のみを強調すれば私の思想性が問われます。こういうことですので随分悩みました。しかしやっと目途がついたので書くことにします。どうついたか。彼は軍国主義に留まり得なかった。このことが分かったからです。森田萬右衛門は平和主義者でした。

 森田萬右衛門は武豊町富貴の人。生没年は1852年?1934年。83歳で逝去。

 「みんなで幸せになろう」。彼におけるこの思想の全面開花は昭和3年の「富貴村全村学校」と昭和9年の「富貴村経済更生計画」に見ることができます。では、この思想を誰から学んだのでしょうか。同村の円観寺や同寺に設けられた寺子屋であり、同寺13世住職の杉浦旭順法印からでした。とりわけ杉浦旭順法印には萬右衛門は、「老僧」・「名僧」・「知識」という惜しみない讃仰の語でもって讃えています。「郷土の歴史をつくった人」とも言っています。

 では、杉浦旭順法印はどういう人であったか。もちろん、「みんなで幸せになろう」こういう人でした。具体的に書きましょう。

 法印は「仏説延命地蔵菩薩経」でもって、檀家を指導し寺子を指導しました。

 その功績は一杯あります。その中でも第一のものは村民から「地蔵尊座像」を贈られたことです。その地蔵尊座像には以下の文言が刻されています。この像は境内の正面の西に鎮座しています。

 台座の部分には「若有重苦我代受苦」とあり、礎石の部分には「当寺十三世中興」、「大阿闍梨法印旭順大和尚」、「施主 檀方中 筆子中」とあります。

 加藤大道円観寺住職が「若有重苦我代受苦」は仏説延命地蔵菩薩経に出てくる語で意味は「もし重苦ありなば、我代りて苦を受く」ですと教えてくれました。

 それゆえ、刻された文言を総合的に解釈すれば檀方は檀徒のこと、筆子は寺子屋の寺子のことですので檀徒や寺子が施主となって地蔵尊の心で我らを導きいただいた大阿闍梨法印旭順大和尚に感謝の気持ちを込めて、この地蔵尊像を寄進いたしますとなります。

 法印は具体的にどう村民を導いたのでしょうか。富貴村は漁業や千石船による海運業が盛んな村でしたが難治村と言われていました。船の生活は「板子一枚下は地獄」ですので、どうしても村民の気性は荒くなり、儲けたお金はその場で使うという刹那主義にあって野荒らしが横行していました。しかし、これは村民にとって大変な「重苦」です。法印はこれを自らの問題ととらえ、一方で金比羅宮を設置し船の安全を祈願しつつ、他方では村民に対して「それはいかんぞ、それでは幸せになれんぞ、みんなで幸せになろうと思わなければな」と諭します。お前が儲けたお金は、お前だけのものではない。お前を支えた人のお金でもある。家族のもの、村のものなのだ。この心で、いい村をつくってみんなで幸せになろうと説きました。

 仏説延命地蔵菩薩経は「大乗無依の行」の大切さを説いています。煩悩から出てくる私物の心を克服して、みんなで幸せになるための行を積みなさいと言います。

(次号につづく)