◎横井庄一通

 今から丁度50年前の昭和47年(1972)1月24日、グアム島で長い間隠れていた日本人が二人の現地人によって発見されました。元日本兵・横井庄一。57歳。グアム島の戦地に送られた彼は、捕慮になるのを恥として、28年間、ジャングルの中に潜伏して、いつの日にか日本人によって救助されるのを待ち続けていたのでした。

 発見されて半世紀の節目に当たる今年(2022)の2月2日、『恥ずかしながら~帰国50年“横井さん”の真実』というドキュメンタリー番組が放送されました。私は多大な興味を持ってテレビを見ました。それから、横井庄一著『明日への道―全報告グアム島孤独の28年―』(文藝春秋)を本棚から取り出して、一気に読みました。この手記は、彼が日本に帰国した2年後に出版されたものです。テレビ番組を見た直後だったので、前に読んだ時よりも、彼の置かれた悲惨な状況が遥かによく分かりました。何とか生き抜こうと奮闘した彼の精神力と生命力に強く打たれました。

 彼は帰国して25年後の平成9年(1997)9月22日、82歳で亡くなりました。

 

◎『明日への道』

 横井庄一は、大正4年(1915)3月31日、愛知県海部郡佐織村で生まれた。

 「その頃、私はまだ幼くて、父と母との間にどういう事情があったのか分かりませんが、母は生まれて3カ月にしかならない乳飲み児の私を置いて、実家に帰ってしまいました。洋服屋の父は、私のことなど構わないため、祖母(父の母)が、近所に貰い乳をして歩いたあげく、たまりかねて母の里へ母の留守をねらって赤ん坊の私を置いて行く、一方母は、再婚に差し支えると考えたのか、また私を父の方へ返しに行く、そんなことが何度かあった後、とうとう私は、最終的には母の方へ引き取られて育てられました。

 私が12の時に、母が再婚しました。母の再婚先には子供がなかったので、私も一緒に連れられて行きました」

 昭和5年(1930)3月、海部郡富田村立富田高等小学校を卒業。その後1年間、家から愛知速算学校へ通った。

 「父母と私の間で、私の将来について、いろいろ相談し合い、私は『自分は洋服屋で身を立てたい。縁のうすい実父(実父は私の数え七つの年に亡くなりました)ではあったが、草葉の蔭で私を助けてくれると思う』と決心を述べ、『名古屋にいては両親への甘えが出て、せっかくの志の邪魔になってはいけない。できることなら他所の土地へ出たい』と希望し、母の反対を押し切って、義父の世話で、豊橋市の花井洋服店へ奉公に出ました」

 花井洋服店で6年間働いてから、富田村の実家に帰り、洋服仕立業を営み始めた。2年後に臨時召集によって入隊し、支那事変に従軍。翌年、召集解除となり、実家に帰り、再び洋服仕立業を営んだ。昭和16年(1941)8月に2度目の召集令状が来て、輜重兵第3連隊補充隊(名古屋)に配属された。1カ月後、輜重兵第29連隊(満州奉天省遼陽)に転属。そして、兵長になっていた横井は、昭和19年2月8日、歩兵第38連隊に配属され、2月20日、行く先も知らされずに遼陽を出発した。朝鮮の釜山から安芸丸に乗り、3月4日に西太平洋のグアム島に上陸した。

 「命からがらやっとの思いで我々がたどり着いたグアム島は、濃い緑に覆われた、夢のように美しい島でした。この島はもとアメリカの領土だったのを、太平洋戦争勃発と同時に陸海軍協同作戦で無血占領し、島の名は『大宮島』、島内の主な地名も日本名に改められました。戦争当初は戦闘圏外にあったため、僅かな海軍の警備隊がのんびりと駐在していたのですが、昭和18年も末になってやっと、米軍としては最後の詰めである本土空襲の拠点としてサイパン、グアムなどマリアナ諸島攻略を重視し、日本軍もそれに対応する形で急遽防衛に力を入れ始めたのです。

 我々が入港したのは大宮(アプラ)湾の須磨(スメイ)と対岸になる港町(ピティ)という港でした。上陸するとすぐに我々は、現地人を使役して積み荷の下ろし作業に取り掛かりましたが、上陸最初の司令部からの命令は『いつ空襲があるか分からんから慎重に行動せよ』というものでした」

 7月10日頃からアメリカの艦隊が姿を現し始め、7月18日から艦砲射撃が熾烈になり、島全体が沈没してしまうのではないかと思われるほどの物凄さであった。

 日本軍は7月25日の夜に総反撃を敢行した後、残った兵力は島の北部の山岳地帯に移動した。そして8月11日に至って小畑軍司令官が自決し、全島が米軍の手中に落ちた。

 「9月上旬になると、グアム島の米軍は、掃討戦に力を入れ、主勢力は、硫黄島、沖縄など本土作戦に回ったものか、艦隊の姿も見えなくなり、その代わり海軍の飛行場を拡張して盛んに大型機を飛ばし始めていました。何かの本に、ジャングルの中に潜入した生き残りの日本兵は約2千名と書いてありましたが、2万を超えた日本軍の大部分が勇猛果敢な戦闘の末、身を以て太平洋の防波堤となったことは事実ですが、玉砕島(全員死んだ島)と呼ばれても、数こそ不明ですが、私たちのような生き残りの惨めな敗残兵が当時はまだ相当な数、ジャングルの中をさ迷っていたことも事実です」

 横井庄一もジャングルの中に逃げ込んだ一人だったが、行動を共にしていた仲間が次々と死んでいき、最後には志知と中畠と彼の三人になってしまった。昭和39年にはその二人も死んでしまい、たった一人になった。そして、昭和47年1月24日、28年間もジャングルに隠れていた横井庄一は現地人によって発見された。57歳だった。

 「私は竹で編んだウケ(魚を捕る筒)を、背に5本、網の背負袋に入れて背負い、手にも2本下げて川の中を進み、ちょうど1キロほど下がったところで、流れが折れているので、川縁に上がり、草原を突っ切ることにしました。そうする方が近道だからです。背丈もある草むらをかき分けかき分け、足元ばかり注意して進みました。

 その草むらを出た途端に、目の前に銃を構えた現地人が立ち塞がっており、私は『あっ』と思って左右を見ました。右手にも6、7名おります。私は無我夢中で目の前の現地人に飛びついて銃をひったくりに行きましたが、体力の相違か無念にも押し倒されてしまいました。『ニホンヘイカ』と日本語で尋ねられ、やがて、横にいた何人かが『ツイテコイ』と両脇から私を立たせました。私は『もうどうでもせよ』という気持ちで、後からしょんぼりとついて行きました。『どこへ連れて行かれるのだろうか』―『これから、どうなるのだろうか』―人間はそういう時になると頭が混乱して訳が分からなくなるものか、私は不安な思いで同じ問いばかり自問し続けていました」

 横井庄一は、昭和47年2月2日、グアム島から飛行機で帰還し、記者会見をした後すぐに国立第一病院に直行し、84日間も長期入院した。退院後、名古屋市中川区富田町の実家に帰った。 その2年後、フィリピンのルバング島で元陸軍軍人・小野田寛郎が発見された。

 

■杉本武之プロフィール

1939年 碧南市に生まれる。

京都大学文学部卒業。

翻訳業を経て、小学校教師になるために愛知教育大学に入学。

25年間、西尾市の小中学校に勤務。

定年退職後、名古屋大学教育学部の大学院で学ぶ。

〈趣味〉読書と競馬

 

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◎横井庄一

 今から丁度50年前の昭和47年(1972)1月24日、グアム島で長い間隠れていた日本人が二人の現地人によって発見されました。元日本兵・横井庄一。57歳。グアム島の戦地に送られた彼は、捕慮になるのを恥として、28年間、ジャングルの中に潜伏して、いつの日にか日本人によって救助されるのを待ち続けていたのでした。

 発見されて半世紀の節目に当たる今年(2022)の2月2日、『恥ずかしながら~帰国50年“横井さん”の真実』というドキュメンタリー番組が放送されました。私は多大な興味を持ってテレビを見ました。それから、横井庄一著『明日への道―全報告グアム島孤独の28年―』(文藝春秋)を本棚から取り出して、一気に読みました。この手記は、彼が日本に帰国した2年後に出版されたものです。テレビ番組を見た直後だったので、前に読んだ時よりも、彼の置かれた悲惨な状況が遥かによく分かりました。何とか生き抜こうと奮闘した彼の精神力と生命力に強く打たれました。

 彼は帰国して25年後の平成9年(1997)9月22日、82歳で亡くなりました。

 

 

◎『明日への道』

 横井庄一は、大正4年(1915)3月31日、愛知県海部郡佐織村で生まれた。

 「その頃、私はまだ幼くて、父と母との間にどういう事情があったのか分かりませんが、母は生まれて3カ月にしかならない乳飲み児の私を置いて、実家に帰ってしまいました。洋服屋の父は、私のことなど構わないため、祖母(父の母)が、近所に貰い乳をして歩いたあげく、たまりかねて母の里へ母の留守をねらって赤ん坊の私を置いて行く、一方母は、再婚に差し支えると考えたのか、また私を父の方へ返しに行く、そんなことが何度かあった後、とうとう私は、最終的には母の方へ引き取られて育てられました。

 私が12の時に、母が再婚しました。母の再婚先には子供がなかったので、私も一緒に連れられて行きました」

 昭和5年(1930)3月、海部郡富田村立富田高等小学校を卒業。その後1年間、家から愛知速算学校へ通った。

 「父母と私の間で、私の将来について、いろいろ相談し合い、私は『自分は洋服屋で身を立てたい。縁のうすい実父(実父は私の数え七つの年に亡くなりました)ではあったが、草葉の蔭で私を助けてくれると思う』と決心を述べ、『名古屋にいては両親への甘えが出て、せっかくの志の邪魔になってはいけない。できることなら他所の土地へ出たい』と希望し、母の反対を押し切って、義父の世話で、豊橋市の花井洋服店へ奉公に出ました」

 花井洋服店で6年間働いてから、富田村の実家に帰り、洋服仕立業を営み始めた。2年後に臨時召集によって入隊し、支那事変に従軍。翌年、召集解除となり、実家に帰り、再び洋服仕立業を営んだ。昭和16年(1941)8月に2度目の召集令状が来て、輜重兵第3連隊補充隊(名古屋)に配属された。1カ月後、輜重兵第29連隊(満州奉天省遼陽)に転属。そして、兵長になっていた横井は、昭和19年2月8日、歩兵第38連隊に配属され、2月20日、行く先も知らされずに遼陽を出発した。朝鮮の釜山から安芸丸に乗り、3月4日に西太平洋のグアム島に上陸した。

 「命からがらやっとの思いで我々がたどり着いたグアム島は、濃い緑に覆われた、夢のように美しい島でした。この島はもとアメリカの領土だったのを、太平洋戦争勃発と同時に陸海軍協同作戦で無血占領し、島の名は『大宮島』、島内の主な地名も日本名に改められました。戦争当初は戦闘圏外にあったため、僅かな海軍の警備隊がのんびりと駐在していたのですが、昭和18年も末になってやっと、米軍としては最後の詰めである本土空襲の拠点としてサイパン、グアムなどマリアナ諸島攻略を重視し、日本軍もそれに対応する形で急遽防衛に力を入れ始めたのです。

 我々が入港したのは大宮(アプラ)湾の須磨(スメイ)と対岸になる港町(ピティ)という港でした。上陸するとすぐに我々は、現地人を使役して積み荷の下ろし作業に取り掛かりましたが、上陸最初の司令部からの命令は『いつ空襲があるか分からんから慎重に行動せよ』というものでした」

 7月10日頃からアメリカの艦隊が姿を現し始め、7月18日から艦砲射撃が熾烈になり、島全体が沈没してしまうのではないかと思われるほどの物凄さであった。

 日本軍は7月25日の夜に総反撃を敢行した後、残った兵力は島の北部の山岳地帯に移動した。そして8月11日に至って小畑軍司令官が自決し、全島が米軍の手中に落ちた。

 「9月上旬になると、グアム島の米軍は、掃討戦に力を入れ、主勢力は、硫黄島、沖縄など本土作戦に回ったものか、艦隊の姿も見えなくなり、その代わり海軍の飛行場を拡張して盛んに大型機を飛ばし始めていました。何かの本に、ジャングルの中に潜入した生き残りの日本兵は約2千名と書いてありましたが、2万を超えた日本軍の大部分が勇猛果敢な戦闘の末、身を以て太平洋の防波堤となったことは事実ですが、玉砕島(全員死んだ島)と呼ばれても、数こそ不明ですが、私たちのような生き残りの惨めな敗残兵が当時はまだ相当な数、ジャングルの中をさ迷っていたことも事実です」

 横井庄一もジャングルの中に逃げ込んだ一人だったが、行動を共にしていた仲間が次々と死んでいき、最後には志知と中畠と彼の三人になってしまった。昭和39年にはその二人も死んでしまい、たった一人になった。そして、昭和47年1月24日、28年間もジャングルに隠れていた横井庄一は現地人によって発見された。57歳だった。

 「私は竹で編んだウケ(魚を捕る筒)を、背に5本、網の背負袋に入れて背負い、手にも2本下げて川の中を進み、ちょうど1キロほど下がったところで、流れが折れているので、川縁に上がり、草原を突っ切ることにしました。そうする方が近道だからです。背丈もある草むらをかき分けかき分け、足元ばかり注意して進みました。

 その草むらを出た途端に、目の前に銃を構えた現地人が立ち塞がっており、私は『あっ』と思って左右を見ました。右手にも6、7名おります。私は無我夢中で目の前の現地人に飛びついて銃をひったくりに行きましたが、体力の相違か無念にも押し倒されてしまいました。『ニホンヘイカ』と日本語で尋ねられ、やがて、横にいた何人かが『ツイテコイ』と両脇から私を立たせました。私は『もうどうでもせよ』という気持ちで、後からしょんぼりとついて行きました。『どこへ連れて行かれるのだろうか』―『これから、どうなるのだろうか』―人間はそういう時になると頭が混乱して訳が分からなくなるものか、私は不安な思いで同じ問いばかり自問し続けていました」

 横井庄一は、昭和47年2月2日、グアム島から飛行機で帰還し、記者会見をした後すぐに国立第一病院に直行し、84日間も長期入院した。退院後、名古屋市中川区富田町の実家に帰った。 その2年後、フィリピンのルバング島で元陸軍軍人・小野田寛郎が発見された。