◎司馬遼太郎(その2)
国民的作家・司馬遼太郎に関するエピソードで、私が興味を抱いたものを少し拾い上げてみたいと思います。
〈入試の連続失敗〉
司馬遼太郎の年譜を読んでいて、いつも不思議に思うことがあります。
彼は旧制高等学校を2回受験して、2回とも不合格でした。昭和15年3月、上宮中学4年修了で旧制大阪高等学校の入試を受けて不合格。昭和16年3月、中学を卒業して旧制弘前高等学校を受験して再び不合格。
あの頭脳明晰で博覧強記の人が、入学試験には弱かったのです。数学が極端に出来なかったのです。司馬遼太郎にも弱点があったのだ思うと、何となくホッとした安心感が与えられます。そして、彼がますます好きになってしまうのです。
彼はこう語っています。
「子供の頃から数学がだめでしてね。幾何がいくらか分かった程度で、あとは代数も何もできない。そのために結局、数学が試験科目に入っていない大阪外国語学校に行くことになったんですけど、今でも数学に対するコンプレックスは強い。
旧制高校を受けるようになって、困ってしまいました。数学はまず零点としても、あと満点を取ればここに辛うじて可能性があるという皮算用をすると、どうにか百点満点で6割3分はいく。さて、これで統計的に見て最低でパスできそうなところはどこか、と言いますと、高知高校と弘前高校。後に『竜馬がゆく』を書きまして、土佐というところに熱中するんですが、その頃は土佐というと粗放な感じがして、弘前の方がずっと文化的な感じがした。それと、20時間もかかるんですよ、大阪から弘前まで。そのくらいかかるところへ行けば何とかなるだろうと……。ところが、いるんだなあ、土地には土地の秀才が。それでみごとに落ちました。何しろ、数学は、問題の意味さえ分からないんですから」
〈『梟の城』で直木賞〉
産経新聞の文化部次長だった司馬遼太郎(35歳) は、昭和33年(1958)4月から京都の宗教新聞「中外日報」に「梟のいる都城」を翌年2月まで連載しました。この小説は、連載終了後、『梟の城』と改題されて講談社から出版され、昭和35年1月、直木賞に選ばれました。
「忍術使いという思い切って大衆的な人間たちを、自分の考えているようなイマジネーションの世界で書こう、と書き始めたのです。挿絵もない新聞小説でした。書き出すと、わりに面白い小説になってゆく。自分という作家はこういうタイプの小説家なのかと自己発見しました。
この小説を講談社が出版してくれたのはうれしかった。なにしろ無名でしたから初版しか出なかったと思いますが、どうにか売れ切れたと聞いて、非常にうれしかった。
小説を書いているということは、何だか恥ずかしいことのように思えて、社内の人にも殆ど話しませんでしたから、直木賞受賞のニュースが入った時、みんな『へえ』と変な顔をしていました。私にとっては、それからが何とも奇妙な仕事でした。部下に『直木賞作家』を紹介する人物欄について指示をしなければならない立場にいたからです。出来上がった原稿を見ますと、ばかに私を賞めて書いてありましたので、そのあたりを削っているうちに、ほとんど換骨奪胎して何だか自分の記事のようになってしまい、どうにも弱ってしまいました」
〈鶴見俊輔の文章〉
司馬遼太郎が亡くなってから、数多くの回想や追悼の文章が書かれました。どれも愛情に満ちた、感動的なものばかりでしたが、ここでは、私が深く尊敬していた評論家・鶴見俊輔の「司馬遼太郎の原点」を紹介します。彼は司馬遼太郎より1歳年上でした。
「この人の筆名は、司馬遷から採ったものだそうだ。遼は、めぐる火という意味の古字から来たもので、遠いという意味もあり、古い用法では、ゆっくり巡ってゆくというふうな連想を呼び覚ます。これは、白川静の『字統』を引いて、書いた。
『史記』の著者・司馬遷を遠くのぞむ。そういう広い視野が早くからあったので、この人は生涯、一書生として生きようとし、生きることができた。
どこから見てもすぐ分かる白髪が妨げになったが、それでも、特別の人でなく歩いてゆく風情を失うことはなかった。
幕末の変動期を好んで書いた司馬遼太郎は、その時代に生まれていたら何になっていたいと思いますか、という問いに答えて、百姓になっていただろうと述べた。幕末の街道の縁に立って、道を急ぐ壮士たち、練り歩く大名行列を、見送っていただろう百姓の一人に自分を見立てていた。寺子屋で読み書きそろばんを身につけ、村の雑貨店くらいは経営しただろうし、仕入れの為に街道をゆくことはあっただろう。行商もしただろう。しかし、それ以上の高い位置に自分を置こうとはしなかった。そのような作者の眼の高さ(低さ)が『街道をゆく』を支えている。だからこそ、道端の人の風格を、そこにいるままの姿としてとらえることができた。
村の一部としてとどまるものとして、作者は決して尊大にならないし、仲間の反発を招く毒舌を弄しない。現在の位置から国民文学を考える時、夏目漱石、宮沢賢治、中里介山、司馬遼太郎を私は思い浮かべるが、司馬遼太郎の作品には、漱石、介山、賢治ほどの毒がない」
〈同僚の記者に求婚〉
直木賞を受賞する2年前に、35歳の司馬遼太郎は「産経新聞」の同僚の松見みどりに求婚しました。当時のことを彼女はこう書いています。
「お嫁さんになってほしいと言われた時、正直言ってうれしくないことはなかったけれど、我が身をかえりみ、これは断るのがエチケットだと心得て、躊躇なく、私は言いました。
『あかんわ。わたし、お料理でけへん』
ところが、そんなことどうでもいい、とおっしゃる。
さらに、私は言いました。『裁縫もようせん』『掃除も嫌いや』
それでも、よいとおっしゃる。
こうして、何となく決まったようなことになったのです。
いかにも理解あるがごとき態度を示したおっさんが、いよいよという時になって、社を辞めろ、と言い出したのです。
まったく、社を辞めるくらいなら結婚を止めようと、悲壮な決意までしたのですが、渋々ながら、どうにか納得してくれたので、やっと幕を開けることができたわけです」
■杉本武之プロフィール
1939年 碧南市に生まれる。
京都大学文学部卒業。
翻訳業を経て、小学校教師になるために愛知教育大学に入学。
25年間、西尾市の小中学校に勤務。
定年退職後、名古屋大学教育学部の大学院で学ぶ。
〈趣味〉読書と競馬
Copyright©2003-2017 Akai Newspaper dealer
プライバシーポリシー
・『新・現代家庭考』 就職130 ・私の出会った作品68 ・この指とまれ311 ・長澤晶子のSPEED★COOKING!
・日々是好日 ・美の回廊Vol.54 ・若竹俳壇 ・愛とMy Family ・わが家のニューフェイス
・笑門来福
あかい新聞店・常滑店
新聞■折込広告取扱■求人情報■ちたろまん■中部国際空港配送業務
電話:0569-35-2861
あかい新聞店・武豊店
電話:0569-72-0356
Copyright©2003-2017 Akai Newspaper dealer
プライバシーポリシー
◎司馬遼太郎(その2)
国民的作家・司馬遼太郎に関するエピソードで、私が興味を抱いたものを少し拾い上げてみたいと思います。
〈入試の連続失敗〉
司馬遼太郎の年譜を読んでいて、いつも不思議に思うことがあります。
彼は旧制高等学校を2回受験して、2回とも不合格でした。昭和15年3月、上宮中学4年修了で旧制大阪高等学校の入試を受けて不合格。昭和16年3月、中学を卒業して旧制弘前高等学校を受験して再び不合格。
あの頭脳明晰で博覧強記の人が、入学試験には弱かったのです。数学が極端に出来なかったのです。司馬遼太郎にも弱点があったのだ思うと、何となくホッとした安心感が与えられます。そして、彼がますます好きになってしまうのです。
彼はこう語っています。
「子供の頃から数学がだめでしてね。幾何がいくらか分かった程度で、あとは代数も何もできない。そのために結局、数学が試験科目に入っていない大阪外国語学校に行くことになったんですけど、今でも数学に対するコンプレックスは強い。
旧制高校を受けるようになって、困ってしまいました。数学はまず零点としても、あと満点を取ればここに辛うじて可能性があるという皮算用をすると、どうにか百点満点で6割3分はいく。さて、これで統計的に見て最低でパスできそうなところはどこか、と言いますと、高知高校と弘前高校。後に『竜馬がゆく』を書きまして、土佐というところに熱中するんですが、その頃は土佐というと粗放な感じがして、弘前の方がずっと文化的な感じがした。それと、20時間もかかるんですよ、大阪から弘前まで。そのくらいかかるところへ行けば何とかなるだろうと……。ところが、いるんだなあ、土地には土地の秀才が。それでみごとに落ちました。何しろ、数学は、問題の意味さえ分からないんですから」
〈『梟の城』で直木賞〉
産経新聞の文化部次長だった司馬遼太郎(35歳) は、昭和33年(1958)4月から京都の宗教新聞「中外日報」に「梟のいる都城」を翌年2月まで連載しました。この小説は、連載終了後、『梟の城』と改題されて講談社から出版され、昭和35年1月、直木賞に選ばれました。
「忍術使いという思い切って大衆的な人間たちを、自分の考えているようなイマジネーションの世界で書こう、と書き始めたのです。挿絵もない新聞小説でした。書き出すと、わりに面白い小説になってゆく。自分という作家はこういうタイプの小説家なのかと自己発見しました。
この小説を講談社が出版してくれたのはうれしかった。なにしろ無名でしたから初版しか出なかったと思いますが、どうにか売れ切れたと聞いて、非常にうれしかった。
小説を書いているということは、何だか恥ずかしいことのように思えて、社内の人にも殆ど話しませんでしたから、直木賞受賞のニュースが入った時、みんな『へえ』と変な顔をしていました。私にとっては、それからが何とも奇妙な仕事でした。部下に『直木賞作家』を紹介する人物欄について指示をしなければならない立場にいたからです。出来上がった原稿を見ますと、ばかに私を賞めて書いてありましたので、そのあたりを削っているうちに、ほとんど換骨奪胎して何だか自分の記事のようになってしまい、どうにも弱ってしまいました」
〈鶴見俊輔の文章〉
司馬遼太郎が亡くなってから、数多くの回想や追悼の文章が書かれました。どれも愛情に満ちた、感動的なものばかりでしたが、ここでは、私が深く尊敬していた評論家・鶴見俊輔の「司馬遼太郎の原点」を紹介します。彼は司馬遼太郎より1歳年上でした。
「この人の筆名は、司馬遷から採ったものだそうだ。遼は、めぐる火という意味の古字から来たもので、遠いという意味もあり、古い用法では、ゆっくり巡ってゆくというふうな連想を呼び覚ます。これは、白川静の『字統』を引いて、書いた。
『史記』の著者・司馬遷を遠くのぞむ。そういう広い視野が早くからあったので、この人は生涯、一書生として生きようとし、生きることができた。
どこから見てもすぐ分かる白髪が妨げになったが、それでも、特別の人でなく歩いてゆく風情を失うことはなかった。
幕末の変動期を好んで書いた司馬遼太郎は、その時代に生まれていたら何になっていたいと思いますか、という問いに答えて、百姓になっていただろうと述べた。幕末の街道の縁に立って、道を急ぐ壮士たち、練り歩く大名行列を、見送っていただろう百姓の一人に自分を見立てていた。寺子屋で読み書きそろばんを身につけ、村の雑貨店くらいは経営しただろうし、仕入れの為に街道をゆくことはあっただろう。行商もしただろう。しかし、それ以上の高い位置に自分を置こうとはしなかった。そのような作者の眼の高さ(低さ)が『街道をゆく』を支えている。だからこそ、道端の人の風格を、そこにいるままの姿としてとらえることができた。
村の一部としてとどまるものとして、作者は決して尊大にならないし、仲間の反発を招く毒舌を弄しない。現在の位置から国民文学を考える時、夏目漱石、宮沢賢治、中里介山、司馬遼太郎を私は思い浮かべるが、司馬遼太郎の作品には、漱石、介山、賢治ほどの毒がない」
〈同僚の記者に求婚〉
直木賞を受賞する2年前に、35歳の司馬遼太郎は「産経新聞」の同僚の松見みどりに求婚しました。当時のことを彼女はこう書いています。
「お嫁さんになってほしいと言われた時、正直言ってうれしくないことはなかったけれど、我が身をかえりみ、これは断るのがエチケットだと心得て、躊躇なく、私は言いました。
『あかんわ。わたし、お料理でけへん』
ところが、そんなことどうでもいい、とおっしゃる。
さらに、私は言いました。『裁縫もようせん』『掃除も嫌いや』
それでも、よいとおっしゃる。
こうして、何となく決まったようなことになったのです。
いかにも理解あるがごとき態度を示したおっさんが、いよいよという時になって、社を辞めろ、と言い出したのです。
まったく、社を辞めるくらいなら結婚を止めようと、悲壮な決意までしたのですが、渋々ながら、どうにか納得してくれたので、やっと幕を開けることができたわけです」