ドラマは続く
そのうち生駒山で折り返した飛行機編隊の数が増し爆撃が激しくなった。シュルシュルという音を発しながら焼夷弾が落ちてきた。齊造が倉庫の中で消防用具を捜していると、天井の方でドスンという音が聞こえた。不発弾が頭の上からのぞいているではないか。驚いていると、雨が降るような音が聞こえてくる。周りが火の海である。
齊造は倉庫を飛び出していった。空襲が終わると、火災が雨を呼び豪雨となった。文字通り町はドロ沼で死体があちらこちらに浮かんでいる。まさに地獄である。
連隊も度重なる大空襲で食料が事欠くようになってきた。幸い部隊兵舎や近くにある府立体育館、大阪府庁の建物は爆撃を受けていない。六月のある日、経理室の大尉の高級主計に呼ばれた。
「片桐、君は千早村の出身だが、炭焼きができるか」
「できます」
千早村は炭焼きが盛んであるが、齊造は経験していなかった。しかし、一連の空襲で身の危険を感じていたので、炭焼きの仕事なら山の奥に入れ、少しは安全だろうと判断した。
連隊の中に炭焼き部隊、漁業部隊、農業部隊ができた。食料と燃料の確保が任務である。炭焼き部隊は二十人で構成され、箕面の滝の奥にある雑木山に配属となった。齊造はそこで炊事係上等兵として食事をつくる役を命じられた。一ケ月後、初めてできた木炭を班長と共に連隊に運び、代わりに味噌、魚などを部隊に持ち帰った。
炭焼き部隊は箕面の旅館を兵営にしていた。大阪一円が焼け野原だったが、(それでも必勝信念)で勝つと信じていた。(日本には旗艦大和を擁する連合艦隊がある)から、敗けることはないと確信を持っているのだ。東郷平八郎がバルチック艦隊を撃破したことがいつも頭に浮かんだ。過去の勝利に酔いしれてばかりいると、いつかは破綻を招く。これは戦争だけではあるまい。企業も個人にも言えることだ。
マスコミからは勝利のニュースしか入らない。仮に“敗ける”と思っても、そういうことを語れば射殺を覚悟しなければならない時代であった。
八月の新聞に「国体維持が命題」とあり、記事の変化に齊造は気づいた。日本はポツダム宣言を拒否したため、米軍は八月六日に人類史上初めて広島に原爆を投下。さらに三日後、長崎にも落とした。日本は無条件降伏は受け入れられないというのが先の宣言拒否の理由だが、その決断はあまりにも大きな過ちを犯し、日本外交の貧弱さをみせつけた。
「おーい、天皇自ら詔勅を放送されるぞ」
旅館で朝食後、新聞を読んでいた仲間の一人が叫んだ。
ラジオの雑音がひどくよく聞き取れないが、どうやら日本が戦争に敗けたらしい。天皇は(…世界の進軍に遅れざらんことを期せヨ)といわれた最後のお言葉だけを齊造はいまでもはっきり憶えている。玉音放送が終わると、炭焼き部隊は旅館の庭で号泣した。
敗戦。時代が変わる。戦時中、幹部候補生の試験に落ち悔やんだ。一生、二等兵で終わると暗澹たる気持ちで毎日を送っていた。(その時々を精一杯、生きているとチャンスは巡ってくるものだ)と齊造はこの戦争で大切なことを学んだ。失敗したら悲観になり、時には投げやりになる。そこで踏ん張れるかどうかで、次の進路は大きく変わる。
どんな状態に置かれてもネアカになるか、ネクラになるかで、後の人生が変わる。物事には明と暗、前進と後退がある。見方によってはどちらでもとれることがある。暗と思うことでも、人によっては明に変えられる。
企業の出向社員はダメ社員のレッテルが貼られたものだ。しかし、出向をチャンスとがんばることによって本社に戻って出世する人間だっている。世の成功者といわれる人も途中、何回も失敗したり、危機に直面している人も少なくない。時には、失敗をバネにして危機に向かって飛び込んでいく。とはいっても失敗が重なると人は萎縮し、危機を回避したくなる。人生一度や二度、ここぞと思うときには決断してぶつかり魂を燃焼させた方がよい。齊造はリュックサック背負って千早村へ帰る道中、そんな思いを巡らしていた。
齊造は復員して、しばらく家でぶらぶらしていた。進駐軍を怖れた親類の人も千早村の片桐家に身を寄せていた。
十日ほど経ったころ、神戸製鋼所の本社のある神戸市に復職の相談に出かけた。兵役三年の間、同社から入営中の留守宅に毎月の月給三十八円を送ってもらっていたからだ。
「もう、お前はクビだよ」
事務所で宣告された。工場内に機械設備が並んでいたが、すべて賠償で中国にもっていかれるという。工場で働いている社員に辞表を出してもらっていることを知らされる。残っている者は所帯持ちの社員ばかりで、独身者はすでに辞めている。三年分の退職金八百円を手にして神戸を離れた。
ここまで読んで、真三は一服したいと思っていたところ、るり子がお盆にお茶を入れて部屋に入ってきた。
「グッドタイミング」
「そうでしたか」
「ところで、るり子、パーキンソン病、知っているかい」
「聞いたことはありますが、詳しくは知りません。どうかしたのですか」
「友人のかみさんが、どうもパーキンソンではないのかと、次のようなメールを送ってきたのだ」
―ある日、後期高齢者の身内が小指の小刻みな震えに静かな恐怖を感じていた。そのうち靴を擦るように歩いていることに気づいた。急に病が襲ってきた。これも老化が原因だろうと自分を納得させるが、ついに意を決し近くの病院を訪ねた。
脳神経内科の医師に診察してもらい、MRIで脳の画像を撮られた。脳画像を見ながら医師は「脳梗塞でない、…」と次からつぎへと病名を上げながら「消去法でいくとパーキンソン病と考えられる」と告げた。
診断とともに治療薬の決め手がないと教えられた。国立病院機構仙台西多賀病院院長武田篤氏監修のパンフによると、「パーキンソン病は神経伝達物質のドパミンの量が減少して脳の指令が上手く伝わらなくなることだ」という。重症度は1度から5度(重症)に分類、重症になると車椅子の生活になる。
パーキンソン病の症状はゆっくり進行、初期段階では日常生活にほとんど支障がないという。やはり医師に相談しながら適切な薬物療法などで病気とうまく付き合うことだとしている。新型コロナ以外にも病魔は襲いかかる。運動をすることも役立つようだ。高齢化とともに、歩行困難などパーキンソン病に似た症状が見られるように思われる。そんな矢先、夜、クルマから降りるとき、溝に足をとられ顔と脇腹に打撲傷を受けた。パーキンソン病の患者に笑われた。友人から
「パーキンソン病は頭のいい人がなるのよ」という慰めの言葉に友人の妻はニッコリしたそうだ。
「結局、脳神経に関係した病気ですね」
「そうだな」
「認知症も脳神系に関係していますから、パーキンソンも同類の病気だと言えるのでしょうか」
「そうかも。いずれにしても高齢になると、いろいろ出てくるね」
「それが高齢化するということでしょうね」
「ではまた、読書に戻るよ」
「わかりました」
三井、住友、三菱の財閥企業が潰れているんだから神戸製鋼所がダメになるのも当然だと齊造は自分に言い聞かせた。大学出といってもなんの役にも立たない。五高から九大法学部に進んだ四男の信哉も、(ヤミ屋が儲ける時代に勉学なんかしとれん)と言って千早村に戻ってきた。
長男の忠信は陸軍技術中尉で伊丹空港近くの兵器補給所に戻り、自動車隊の隊長を任じられていた。物資を輸送する輜し重隊、馬力隊、徒渉隊、自動車隊があった。自動車はトラックで、いまでこそ自動車の運転手はいくらでもいるが、戦時中は少なく、伊丹の自動車隊では運転手を養成して南方に派遣していた。
敗戦になり軍は解散したが、人は兵舎に残った。忠信は「忠君愛国」を誓ったので家には戻れないという。
■岡田 清治プロフィール
1942年生まれ ジャーナリスト
(編集プロダクション・NET108代表)
著書に『高野山開創千二百年 いっぱんさん行状記』『心の遺言』『あなたは社員の全能力を引き出せますか!』『リヨンで見た虹』など多数
※この物語に対する読者の方々のコメント、体験談を左記のFAXかメールでお寄せください。
今回は「就職」「日本のゆくえ」「結婚」「夫婦」「インド」「愛知県」についてです。物語が進行する中で織り込むことを試み、一緒に考えます。
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ドラマは続く
そのうち生駒山で折り返した飛行機編隊の数が増し爆撃が激しくなった。シュルシュルという音を発しながら焼夷弾が落ちてきた。齊造が倉庫の中で消防用具を捜していると、天井の方でドスンという音が聞こえた。不発弾が頭の上からのぞいているではないか。驚いていると、雨が降るような音が聞こえてくる。周りが火の海である。
齊造は倉庫を飛び出していった。空襲が終わると、火災が雨を呼び豪雨となった。文字通り町はドロ沼で死体があちらこちらに浮かんでいる。まさに地獄である。
連隊も度重なる大空襲で食料が事欠くようになってきた。幸い部隊兵舎や近くにある府立体育館、大阪府庁の建物は爆撃を受けていない。六月のある日、経理室の大尉の高級主計に呼ばれた。
「片桐、君は千早村の出身だが、炭焼きができるか」
「できます」
千早村は炭焼きが盛んであるが、齊造は経験していなかった。しかし、一連の空襲で身の危険を感じていたので、炭焼きの仕事なら山の奥に入れ、少しは安全だろうと判断した。
連隊の中に炭焼き部隊、漁業部隊、農業部隊ができた。食料と燃料の確保が任務である。炭焼き部隊は二十人で構成され、箕面の滝の奥にある雑木山に配属となった。齊造はそこで炊事係上等兵として食事をつくる役を命じられた。一ケ月後、初めてできた木炭を班長と共に連隊に運び、代わりに味噌、魚などを部隊に持ち帰った。
炭焼き部隊は箕面の旅館を兵営にしていた。大阪一円が焼け野原だったが、(それでも必勝信念)で勝つと信じていた。(日本には旗艦大和を擁する連合艦隊がある)から、敗けることはないと確信を持っているのだ。東郷平八郎がバルチック艦隊を撃破したことがいつも頭に浮かんだ。過去の勝利に酔いしれてばかりいると、いつかは破綻を招く。これは戦争だけではあるまい。企業も個人にも言えることだ。
マスコミからは勝利のニュースしか入らない。仮に“敗ける”と思っても、そういうことを語れば射殺を覚悟しなければならない時代であった。
八月の新聞に「国体維持が命題」とあり、記事の変化に齊造は気づいた。日本はポツダム宣言を拒否したため、米軍は八月六日に人類史上初めて広島に原爆を投下。さらに三日後、長崎にも落とした。日本は無条件降伏は受け入れられないというのが先の宣言拒否の理由だが、その決断はあまりにも大きな過ちを犯し、日本外交の貧弱さをみせつけた。
「おーい、天皇自ら詔勅を放送されるぞ」
旅館で朝食後、新聞を読んでいた仲間の一人が叫んだ。
ラジオの雑音がひどくよく聞き取れないが、どうやら日本が戦争に敗けたらしい。天皇は(…世界の進軍に遅れざらんことを期せヨ)といわれた最後のお言葉だけを齊造はいまでもはっきり憶えている。玉音放送が終わると、炭焼き部隊は旅館の庭で号泣した。
敗戦。時代が変わる。戦時中、幹部候補生の試験に落ち悔やんだ。一生、二等兵で終わると暗澹たる気持ちで毎日を送っていた。(その時々を精一杯、生きているとチャンスは巡ってくるものだ)と齊造はこの戦争で大切なことを学んだ。失敗したら悲観になり、時には投げやりになる。そこで踏ん張れるかどうかで、次の進路は大きく変わる。
どんな状態に置かれてもネアカになるか、ネクラになるかで、後の人生が変わる。物事には明と暗、前進と後退がある。見方によってはどちらでもとれることがある。暗と思うことでも、人によっては明に変えられる。
企業の出向社員はダメ社員のレッテルが貼られたものだ。しかし、出向をチャンスとがんばることによって本社に戻って出世する人間だっている。世の成功者といわれる人も途中、何回も失敗したり、危機に直面している人も少なくない。時には、失敗をバネにして危機に向かって飛び込んでいく。とはいっても失敗が重なると人は萎縮し、危機を回避したくなる。人生一度や二度、ここぞと思うときには決断してぶつかり魂を燃焼させた方がよい。齊造はリュックサック背負って千早村へ帰る道中、そんな思いを巡らしていた。
齊造は復員して、しばらく家でぶらぶらしていた。進駐軍を怖れた親類の人も千早村の片桐家に身を寄せていた。
十日ほど経ったころ、神戸製鋼所の本社のある神戸市に復職の相談に出かけた。兵役三年の間、同社から入営中の留守宅に毎月の月給三十八円を送ってもらっていたからだ。
「もう、お前はクビだよ」
事務所で宣告された。工場内に機械設備が並んでいたが、すべて賠償で中国にもっていかれるという。工場で働いている社員に辞表を出してもらっていることを知らされる。残っている者は所帯持ちの社員ばかりで、独身者はすでに辞めている。三年分の退職金八百円を手にして神戸を離れた。
ここまで読んで、真三は一服したいと思っていたところ、るり子がお盆にお茶を入れて部屋に入ってきた。
「グッドタイミング」
「そうでしたか」
「ところで、るり子、パーキンソン病、知っているかい」
「聞いたことはありますが、詳しくは知りません。どうかしたのですか」
「友人のかみさんが、どうもパーキンソンではないのかと、次のようなメールを送ってきたのだ」
―ある日、後期高齢者の身内が小指の小刻みな震えに静かな恐怖を感じていた。そのうち靴を擦るように歩いていることに気づいた。急に病が襲ってきた。これも老化が原因だろうと自分を納得させるが、ついに意を決し近くの病院を訪ねた。
脳神経内科の医師に診察してもらい、MRIで脳の画像を撮られた。脳画像を見ながら医師は「脳梗塞でない、…」と次からつぎへと病名を上げながら「消去法でいくとパーキンソン病と考えられる」と告げた。
診断とともに治療薬の決め手がないと教えられた。国立病院機構仙台西多賀病院院長武田篤氏監修のパンフによると、「パーキンソン病は神経伝達物質のドパミンの量が減少して脳の指令が上手く伝わらなくなることだ」という。重症度は1度から5度(重症)に分類、重症になると車椅子の生活になる。
パーキンソン病の症状はゆっくり進行、初期段階では日常生活にほとんど支障がないという。やはり医師に相談しながら適切な薬物療法などで病気とうまく付き合うことだとしている。新型コロナ以外にも病魔は襲いかかる。運動をすることも役立つようだ。高齢化とともに、歩行困難などパーキンソン病に似た症状が見られるように思われる。そんな矢先、夜、クルマから降りるとき、溝に足をとられ顔と脇腹に打撲傷を受けた。パーキンソン病の患者に笑われた。友人から
「パーキンソン病は頭のいい人がなるのよ」という慰めの言葉に友人の妻はニッコリしたそうだ。
「結局、脳神経に関係した病気ですね」
「そうだな」
「認知症も脳神系に関係していますから、パーキンソンも同類の病気だと言えるのでしょうか」
「そうかも。いずれにしても高齢になると、いろいろ出てくるね」
「それが高齢化するということでしょうね」
「ではまた、読書に戻るよ」
「わかりました」
三井、住友、三菱の財閥企業が潰れているんだから神戸製鋼所がダメになるのも当然だと齊造は自分に言い聞かせた。大学出といってもなんの役にも立たない。五高から九大法学部に進んだ四男の信哉も、(ヤミ屋が儲ける時代に勉学なんかしとれん)と言って千早村に戻ってきた。
長男の忠信は陸軍技術中尉で伊丹空港近くの兵器補給所に戻り、自動車隊の隊長を任じられていた。物資を輸送する輜し重隊、馬力隊、徒渉隊、自動車隊があった。自動車はトラックで、いまでこそ自動車の運転手はいくらでもいるが、戦時中は少なく、伊丹の自動車隊では運転手を養成して南方に派遣していた。
敗戦になり軍は解散したが、人は兵舎に残った。忠信は「忠君愛国」を誓ったので家には戻れないという。