◎司馬遼太郎北杜夫(その1)

  60年以上も前のこと、時代小説をよく読んでいた学友に勧められて、直木賞を受賞したばかりの司馬遼太郎の『梟の城』を読みました。その当時、大学2年生の私はロシア文学に熱中しており、日本の時代小説は殆ど読んでいませんでした。親しい友が強く勧めるので、あまり期待せずに読み始めました。ところが、実に面白いのです。文体が新鮮で、時代小説を読んでいる気がしないのです。私は夢中で読み続けました。

 3年後の昭和38年7月に『竜馬がゆく(立志篇)』が出版されました。すぐに買って読みました。痛快な作品で、一気に読み終えました。翌年に『竜馬がゆく(風雲篇)』と『竜馬がゆく(狂瀾篇)』が、その翌年に『竜馬がゆく(怒涛篇)』が、さらにその翌年に『竜馬がゆく(回天篇)』が出ました。長編の『竜馬がゆく』と並行して『燃えよ剣』『新撰組血風録』『国盗り物語』なども次々に刊行されました。どの作品にも圧倒されました。私はすっかり司馬遼太郎の熱狂的な愛読者になりました。

〈司馬遼太郎の略年譜〉

 大正12年(1923)8月7日、大阪市浪速区で父・福田是定、母・直枝の次男として誕生。本名は福田定一(さだいち)。父は開業薬剤師。母は奈良県北葛城郡の出身。

 昭和5年4月、大阪市立難波塩草尋常小学校に入学。

 昭和11年4月、私立上宮中学校に入学。中学3年生の頃から、御蔵跡町の市立図書館に通い始めた。その後5年間以上通って、館内の殆どの本を読んだ。

 昭和15年3月、旧制大阪高等学校を受験したが不合格。

 昭和16年3月、旧制弘前高等学校を受験したが不合格。4月、大阪外国語学校の蒙古語科に入学。

 昭和18年9月、仮卒業で学徒出陣。兵庫県加古川の戦車連隊に入営。翌年、満州に渡り陸軍戦車学校に入る。卒業後、見習士官として戦車第一連隊に赴任。

 昭和20年5月、戦車を輸送して新潟に上陸。群馬県から栃木県佐野市に移駐。ここで終戦を迎えた。

 昭和21年6月、「新日本新聞」(京都本社)に入社。京都大学記者クラブに配属された。2年後、新日本新聞社が倒産。「産経新聞」に入社し、京都支局に勤務。主に大学と宗教を担当した。昭和27年7月、大阪本社に転勤。

 昭和31年5月、処女作『ペルシャの幻術師』で講談倶楽部賞を受賞した。ペンネームは『史記』の司馬遷に遼かに及ばぬという意味で司馬遼太郎と付けた。

 昭和34年1月、産経新聞の文化部記者・松見みどりと結婚。9月、『梟の城』を刊行した。翌年1月、『梟の城』で直木賞を受賞。次の年の3月、産経新聞を退社し、作家生活に入った。

 昭和46年、『街道をゆく』を「週刊朝日」1月1日号から連載開始した。この紀行シリーズは、作者が死ぬ平成8年まで25年間も続いた。

 平成5年(1993)11月3日、文化勲章の伝達式に参列。

 平成8年2月10日、午前0時45分頃、自宅の居間で吐血。2月11日、国立大阪病院で10時間に亙る緊急手術。2月12日、午後8時50分、腹部大動脈瘤破裂のため同病院にて死去。享年73。2月13日、午後7時より自宅で通夜。2月14日、正午より自宅で密葬告別式。3月10日、午後4時より大阪ロイヤルホテルにて「司馬遼太郎を送る会」が開催された。

◎『街道をゆく〈三十五・オランダ紀行〉』

 司馬遼太郎の数多くの作品の中から、ここでは『街道をゆく』のオランダ紀行を取り上げます。『街道をゆく』は、司馬遼太郎が日本国内だけでなく、アジアやヨーロッパまで歩き、独自の史観と緻密な考証で描き上げた壮大な歴史紀行です。

 全41巻の中で、私は特に第35巻の「オランダ紀行」を愛読しています。私の愛する画家のレンブラントとゴッホが愛情深く取り扱われているからです。

 この「オランダ紀行」は、「事はじめ」から「最後のオランダ人教師」まで、37回に亙って連載されました。レンブラントのことは11回目の「商人紳士たち」と12回目の「レンブラントの家」に書かれています。

 「私は、あらゆる点で、レンブラントが、人類史上最大の画家の一人だったと思っている。とくに『夜警』がいい。いまもアムステルダムの国立博物館の一階正面奥に、圧倒的な輝きをもって展示されている」

 「レンブラントは、後世、他の画家と比較されるよりも、シェイクスピアと比較される場合が多い。異種比較ながら、レンブラントとしては、もっとも正確の比較のされ方であるだろう。レンブラントは、人間の深奥を動作として表現し、また群れとして展開させた。この点においてレンブラントに比較できる画家を人類は持っていないのである」

 ゴッホのことは、17回目の「入念村にゆくまで」と18回目の「ゴッホの前半生」と19回目の「ブラバント弁」で詳しく書かれています。

 「ごく一般的に言って、絵画は人にとって身のまわりの装飾である。絵の掛かった部屋でコーヒーを飲むのは楽しいし、また広げている新聞に、広告欄という絵画的な部分がなければ、紙面は活字のチリの山のようになってしまう。が、ゴッホの絵は、楽しさとは別のもののようである。と言って、思わせ振りな陰鬱さはない。明暗とか躁鬱とかいった衣装で測れるものではなく、跳ね橋を描いても、自画像を描いても、ひまわりを描いても、つい滲み出てしまう人間の根元的な感情がある。それは、『悲しみ』と言うほか、言い表しようがない。ただし、この悲しみは、失恋とか、経済的な不如意といった相対的なものではない」

 「ゴッホは、正規の教育をさほどには受けなかった。土地の小学校に入学したものの、父の意思で数年で退学した。牧師館の子らしく他の町の寄宿学校に転校したのである。しかし、経費が高すぎたのか、そこにいたのは1年半ほどで、15歳のとき退学した。日本風にいえば、中学中退ということになる。学校の成績がよかったという話は伝わっていない。ゴッホ自身、学校では何も学ばなかった、とさえ言っている。エジソンを教えられる教師がいなかったように、ゴッホの場合もそうだったろう。彼の卓越した知性を作り上げたのは、母ゆずりの知的なものへの関心と、驚くべき読書好きの性格だった」

 「画家になろうと決意し実行するのは、信じがたいほどのことだが、27歳になってからである。ベルギーに行き、王立美術学校に入ったが、ここでも彼の熱狂的な絵画への志向のわりには、学校からは理解されず、絵画上の馬鹿あつかいをされ、1 カ月で落第させられた」

 司馬遼太郎はレンブラントとゴッホを心から愛していました。

 

■杉本武之プロフィール

1939年 碧南市に生まれる。

京都大学文学部卒業。

翻訳業を経て、小学校教師になるために愛知教育大学に入学。

25年間、西尾市の小中学校に勤務。

定年退職後、名古屋大学教育学部の大学院で学ぶ。

〈趣味〉読書と競馬

 

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◎司馬遼太郎(その1)

 60年以上も前のこと、時代小説をよく読んでいた学友に勧められて、直木賞を受賞したばかりの司馬遼太郎の『梟の城』を読みました。その当時、大学2年生の私はロシア文学に熱中しており、日本の時代小説は殆ど読んでいませんでした。親しい友が強く勧めるので、あまり期待せずに読み始めました。ところが、実に面白いのです。文体が新鮮で、時代小説を読んでいる気がしないのです。私は夢中で読み続けました。

 3年後の昭和38年7月に『竜馬がゆく(立志篇)』が出版されました。すぐに買って読みました。痛快な作品で、一気に読み終えました。翌年に『竜馬がゆく(風雲篇)』と『竜馬がゆく(狂瀾篇)』が、その翌年に『竜馬がゆく(怒涛篇)』が、さらにその翌年に『竜馬がゆく(回天篇)』が出ました。長編の『竜馬がゆく』と並行して『燃えよ剣』『新撰組血風録』『国盗り物語』なども次々に刊行されました。どの作品にも圧倒されました。私はすっかり司馬遼太郎の熱狂的な愛読者になりました。

〈司馬遼太郎の略年譜〉

 大正12年(1923)8月7日、大阪市浪速区で父・福田是定、母・直枝の次男として誕生。本名は福田定一(さだいち)。父は開業薬剤師。母は奈良県北葛城郡の出身。

 昭和5年4月、大阪市立難波塩草尋常小学校に入学。

 昭和11年4月、私立上宮中学校に入学。中学3年生の頃から、御蔵跡町の市立図書館に通い始めた。その後5年間以上通って、館内の殆どの本を読んだ。

 昭和15年3月、旧制大阪高等学校を受験したが不合格。

 昭和16年3月、旧制弘前高等学校を受験したが不合格。4月、大阪外国語学校の蒙古語科に入学。

 昭和18年9月、仮卒業で学徒出陣。兵庫県加古川の戦車連隊に入営。翌年、満州に渡り陸軍戦車学校に入る。卒業後、見習士官として戦車第一連隊に赴任。

 昭和20年5月、戦車を輸送して新潟に上陸。群馬県から栃木県佐野市に移駐。ここで終戦を迎えた。

 昭和21年6月、「新日本新聞」(京都本社)に入社。京都大学記者クラブに配属された。2年後、新日本新聞社が倒産。「産経新聞」に入社し、京都支局に勤務。主に大学と宗教を担当した。昭和27年7月、大阪本社に転勤。

 昭和31年5月、処女作『ペルシャの幻術師』で講談倶楽部賞を受賞した。ペンネームは『史記』の司馬遷に遼かに及ばぬという意味で司馬遼太郎と付けた。

 昭和34年1月、産経新聞の文化部記者・松見みどりと結婚。9月、『梟の城』を刊行した。翌年1月、『梟の城』で直木賞を受賞。次の年の3月、産経新聞を退社し、作家生活に入った。

 昭和46年、『街道をゆく』を「週刊朝日」1月1日号から連載開始した。この紀行シリーズは、作者が死ぬ平成8年まで25年間も続いた。

 平成5年(1993)11月3日、文化勲章の伝達式に参列。

 平成8年2月10日、午前0時45分頃、自宅の居間で吐血。2月11日、国立大阪病院で10時間に亙る緊急手術。2月12日、午後8時50分、腹部大動脈瘤破裂のため同病院にて死去。享年73。2月13日、午後7時より自宅で通夜。2月14日、正午より自宅で密葬告別式。3月10日、午後4時より大阪ロイヤルホテルにて「司馬遼太郎を送る会」が開催された。

 

◎『街道をゆく〈三十五・オランダ紀行〉』

 司馬遼太郎の数多くの作品の中から、ここでは『街道をゆく』のオランダ紀行を取り上げます。『街道をゆく』は、司馬遼太郎が日本国内だけでなく、アジアやヨーロッパまで歩き、独自の史観と緻密な考証で描き上げた壮大な歴史紀行です。

 全41巻の中で、私は特に第35巻の「オランダ紀行」を愛読しています。私の愛する画家のレンブラントとゴッホが愛情深く取り扱われているからです。

 この「オランダ紀行」は、「事はじめ」から「最後のオランダ人教師」まで、37回に亙って連載されました。レンブラントのことは11回目の「商人紳士たち」と12回目の「レンブラントの家」に書かれています。

 「私は、あらゆる点で、レンブラントが、人類史上最大の画家の一人だったと思っている。とくに『夜警』がいい。いまもアムステルダムの国立博物館の一階正面奥に、圧倒的な輝きをもって展示されている」

 「レンブラントは、後世、他の画家と比較されるよりも、シェイクスピアと比較される場合が多い。異種比較ながら、レンブラントとしては、もっとも正確の比較のされ方であるだろう。レンブラントは、人間の深奥を動作として表現し、また群れとして展開させた。この点においてレンブラントに比較できる画家を人類は持っていないのである」

 ゴッホのことは、17回目の「入念村にゆくまで」と18回目の「ゴッホの前半生」と19回目の「ブラバント弁」で詳しく書かれています。

 「ごく一般的に言って、絵画は人にとって身のまわりの装飾である。絵の掛かった部屋でコーヒーを飲むのは楽しいし、また広げている新聞に、広告欄という絵画的な部分がなければ、紙面は活字のチリの山のようになってしまう。が、ゴッホの絵は、楽しさとは別のもののようである。と言って、思わせ振りな陰鬱さはない。明暗とか躁鬱とかいった衣装で測れるものではなく、跳ね橋を描いても、自画像を描いても、ひまわりを描いても、つい滲み出てしまう人間の根元的な感情がある。それは、『悲しみ』と言うほか、言い表しようがない。ただし、この悲しみは、失恋とか、経済的な不如意といった相対的なものではない」

 「ゴッホは、正規の教育をさほどには受けなかった。土地の小学校に入学したものの、父の意思で数年で退学した。牧師館の子らしく他の町の寄宿学校に転校したのである。しかし、経費が高すぎたのか、そこにいたのは1年半ほどで、15歳のとき退学した。日本風にいえば、中学中退ということになる。学校の成績がよかったという話は伝わっていない。ゴッホ自身、学校では何も学ばなかった、とさえ言っている。エジソンを教えられる教師がいなかったように、ゴッホの場合もそうだったろう。彼の卓越した知性を作り上げたのは、母ゆずりの知的なものへの関心と、驚くべき読書好きの性格だった」

 「画家になろうと決意し実行するのは、信じがたいほどのことだが、27歳になってからである。ベルギーに行き、王立美術学校に入ったが、ここでも彼の熱狂的な絵画への志向のわりには、学校からは理解されず、絵画上の馬鹿あつかいをされ、1 カ月で落第させられた」

 司馬遼太郎はレンブラントとゴッホを心から愛していました。