ドラマは続く

 日本はすでに満州事変をきっかけに、戦争への道をまっしぐらに走り出していた。この年、政府と軍当局にゆきづまりと生活物資の不足で不安と焦燥にかられる国民を元気づけるため、神武紀元二六〇〇年の祝賀会を全国で盛大に催した。千早村でも村あげて二六〇〇銭郵便貯金を計画した。しかし、世相は暗くなるばかり。

 年が明けると、小学校は国民学校と名付けられ教科書も軍国調に変わった。コメの配給が通帳制になり、いよいよ国民の暮らしは苦しくなった。

 近衛内閣が総辞職してタカ派の東条英機が首相に選ばれた。日中戦争の行き詰まりと、ABCD包囲陣による経済封鎖を打開するため、大本営はついに、「ニイタカヤマノボレ」の暗号電文を打電、真珠湾攻撃を決行した。

 世は戦争一色に塗りつぶされた。齊造も兄の忠信と同様、入隊すれば幹部候補生の試験を受ける決心をしていた。十七年九月、神戸商大を卒業、一旦、神戸製鋼所に入社するが、十月に入隊通知が届いたので、幹部候補生を目指して陸軍短期現役試験を受ける。四十人受けて落ちるのは五人程度。だから齊造は合格する自信をもっていたが、身体検査の当日、風邪をこじらせていた。

 一週間後、不合格の通知を手にした瞬間、どん底に突き落とされたと恐怖感に襲われた。

(使用人と奉公人、いや貴族と労働者の落差のようなものを感じたからだ。これで一生、偉くなれない。俺の前途は真っ暗闇だ。なにくそと思ってもトライするチャンスは再度めぐってこない。学歴のない上等兵になぐられ、いじめられながら死ぬまで土方のような力仕事から抜けられまい。炎天下でのミカンづくりのつらかった日々のことが甦ってくる。自分より成績の悪いヤツが合格しているのを知って、一層腹立たしさを覚えた)

 運命とは皮肉なものだ。地獄へ落ちたと思った者が生き残っている。甲種合格した見習い将校たちは中国に渡り、しばらくすると少尉に任官される。そのうち連帯の編成に合わせてフィリッピン、マレー、南支と南方各方面に小隊長になって派遣された。その半分以上が若い命を落とした。兵隊で階級が二等兵と決まったときは苦しんだが、今となってはそれが幸いしている。

「柳原君。人生は闇夜ばかりではないということだよ。月夜の夜もかならずある。企業でも出世してええことばかり続くわけがない。安心したり油断したら悪くなる。どん底もずっと続かない。これから先、どんなつらいことでも決して悲しむことはないですよ」

 柳原は片桐齊造の強靭さを垣間見たように思う。作家の城山三郎は、小説『打たれ強い』の中で、企業も逆境を経験し、かいくぐれるほどに強くなると言っている。企業もそうだろうが、人間こそ打たれるほどば強くなる。打たれても打たれても耐え忍んでくることだ。

「大阪の馬場町のNHKの前ですよ」と、運転手が声をかけたが、片桐はほかのことを考えていた。

 片桐は部隊の経理室に勤務、酒保(兵隊に酒や饅頭を売る所)の商品仕入れ係であった。

「三ケ月に一回、南方派遣名簿が発表され時々、儂の名前も載るんだが、仕入れ係がいないと困るというんでいつもはずされていたんですよ」

 二等兵は内地でも下働きで辛いが、外地に行くとその比ではない。最前線でまず若い二等兵の生命が消える。それが戦争だった。そのことは企業戦争でも同じで上役ほど得しているが、戦争のように生命を失う心配はそうない。もっとも、貿易摩擦でやむなく海外へ進出、戦争、誘拐、事故等に巻き込まれるケースも増えているが…。

 片桐は仕入れの仕事のほかに遺骨資料の受付も担当、連隊に送っていた。(こんなに多くの遺骨があるということは、自分もいつかは死ぬんだ)と時々、胸が締め付けられる思いをした。入隊拒否で監獄に入っても三年で解放されるのに、二等兵は永遠に続く。いつ南方に派遣されるのだろうか、ずっと死の恐怖が離れない。

「片桐、お前はフィリッピン行の噂だぞ」

 企業の人事と同じである。人事の季節になると、なんとなくそわそわしてくる。噂が耳に入る。南方行きは“死”を意味していた。企業でもそうだが、あたかも知っているかのように言い寄ってくる輩がいる。

 弟の操は天理外国学校を卒業。召集令状の赤紙が届いた。三カ月後に福井の鯖江連隊に入隊したが、その後の足跡はわからない。

「戦争に行くことは国のために死ににいくことだ。しゃおまへん」

 操は父、藤太郎の見送りを受けた時に、残した最後の言葉である。操が沖縄で戦死したことを知らされたのは、戦争も終わり、齊造が千早赤阪村の助役をしていた昭和三十一年の春であった。

 千早小学校南端の岸壁を背に平和を願う仏像を刻んで慰霊祭が催された。昭和二十八年のことであった。

「楠氏この方、平和愛好の血統を受け継いできました。わが千早村からも日清、日露以来、幾度かの戦いに出陣して遥かなる大陸の荒野に、果てしなき海原のかなたに、草むす屍、水潰し屍と、散華された方々を数えるに百三柱、今その英霊をお慰し、永遠に郷土千早村の守護神としての象徴たる忠魂碑を建設して…」

 十二代目千早村長の鎌倉勇治が一文を読み上げる。戦没者名簿には、戦没年月日とともに、ニューギニヤ、ソロモン群島シュウトランド島、南方海上、マンダラ諸島、ルソン島、サイパン島…と戦没場所が記載されている。おぞましい戦いの跡が見えるようだ。(片桐操、昭和二十五年四月二十日、沖縄で戦死)とある。

「片桐さんは、戦争についてどう考えているんですか」

 柳原は片桐の戦争観を知りたかった。関西財界が防衛費をGNP比率一%の枠を取っ払えと主張、キナ臭い時代を感じさせていたからだ。

「あんなしんどいことは、絶対やらんよ。はい、そうですかというわけにはいかんよ。独立国として必要最小限の防衛でよい。日本が先頭を切って戦争をすることは絶対にいかん。われわれの年代の人間ならみな知っているよ」

 齊造は幹部候補生の試験に落ちたが、ソロバンを持つ兵隊になれたことは唯一の救いだった。しかし、二等兵だから日本が勝利するまで希望は何一つない。

「その時は、これ以上、残念無念のことはないと思っていたんだよ。日本が戦争に敗け、時代が変わるんだね。信じられなかった」

 片桐はその時の経験から嫌なこと、気にくわないことを避けてはならないと信じている。戦争を逃れようとする者は、役場の役員をだまし、戸籍を抹消する者もいた。ある者は食事をせず骨と皮になって徴兵を免れた。片桐と同じ部隊でも饅頭を食って便所で首を吊る者、また耳から?油を注いで気狂いになって逃亡する者もいた。兵舎の便所は落とし式だから、台がなくても首吊りができる。?油を一合飲んで百メートルを全力疾走すれば高熱がでるという。戦場で爆弾の炸裂する音を聞いて気が狂った者もいる。戦争は実に残酷である。しかし、そのようなことをする者はごく一部であったし、嫌なことを避けても後からかならずツケがきた。片桐の手元に日を追って遺骨資料は増える一方である。

 昭和二十年になると、アメリカ軍は本土攻撃を開始した。大阪府下で最初の空襲は十九年十二月十九日で、B29一機が松原市を爆撃。年が明けると、爆撃は一段と激しくなる。三月にはいよいよ無差別じゅうたん爆撃、焼夷弾による空襲が本格化し、十三日から十四日未明にかけて第一回夜間空襲があった。

 片桐齊造の父、藤太郎が夜中一時を回ったころ、なんとはなしに家の外に出てみると、蔵の白壁が府下一円の空襲による猛火で真っ赤に染まっているのだ。

「のぶ、大変だ。大火事だ」

 藤太郎は家の中に駆け込み、バケツを持って用水槽に向かって走る。それほど火が近くに見えた。

「この分だと、齊造も助かるまい」

 両親は大阪市内の方を見やりながら半ば呆然とした。B29、90 機が約7万個の焼夷弾を投下、大阪は地獄絵図と化した。空襲警報のサイレンが鳴り響く中、着の身着のままで民衆が逃げ惑う。大阪のシンボルの通天閣も焼け落ちる。

 齊造は大阪中部第23連隊にいた。大空襲の日、点呼を終えベッドについた夜の十時、非常呼集があり、完全武装で庭に整列させられた。上空を米軍の爆撃機が数機隊をなして飛んで行った。空を見上げると、そのあとには星が遠くで輝いている。

 

■岡田 清治プロフィール

1942年生まれ ジャーナリスト

(編集プロダクション・NET108代表)

著書に『高野山開創千二百年 いっぱんさん行状記』『心の遺言』『あなたは社員の全能力を引き出せますか!』『リヨンで見た虹』など多数

※この物語に対する読者の方々のコメント、体験談を左記のFAXかメールでお寄せください。

今回は「就職」「日本のゆくえ」「結婚」「夫婦」「インド」「愛知県」についてです。物語が進行する中で織り込むことを試み、一緒に考えます。

FAX‥0569―34―7971

メール‥takamitsu@akai-shinbunten.net

 

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 日本はすでに満州事変をきっかけに、戦争への道をまっしぐらに走り出していた。この年、政府と軍当局にゆきづまりと生活物資の不足で不安と焦燥にかられる国民を元気づけるため、神武紀元二六〇〇年の祝賀会を全国で盛大に催した。千早村でも村あげて二六〇〇銭郵便貯金を計画した。しかし、世相は暗くなるばかり。

 年が明けると、小学校は国民学校と名付けられ教科書も軍国調に変わった。コメの配給が通帳制になり、いよいよ国民の暮らしは苦しくなった。

 近衛内閣が総辞職してタカ派の東条英機が首相に選ばれた。日中戦争の行き詰まりと、ABCD包囲陣による経済封鎖を打開するため、大本営はついに、「ニイタカヤマノボレ」の暗号電文を打電、真珠湾攻撃を決行した。

 世は戦争一色に塗りつぶされた。齊造も兄の忠信と同様、入隊すれば幹部候補生の試験を受ける決心をしていた。十七年九月、神戸商大を卒業、一旦、神戸製鋼所に入社するが、十月に入隊通知が届いたので、幹部候補生を目指して陸軍短期現役試験を受ける。四十人受けて落ちるのは五人程度。だから齊造は合格する自信をもっていたが、身体検査の当日、風邪をこじらせていた。

 一週間後、不合格の通知を手にした瞬間、どん底に突き落とされたと恐怖感に襲われた。

(使用人と奉公人、いや貴族と労働者の落差のようなものを感じたからだ。これで一生、偉くなれない。俺の前途は真っ暗闇だ。なにくそと思ってもトライするチャンスは再度めぐってこない。学歴のない上等兵になぐられ、いじめられながら死ぬまで土方のような力仕事から抜けられまい。炎天下でのミカンづくりのつらかった日々のことが甦ってくる。自分より成績の悪いヤツが合格しているのを知って、一層腹立たしさを覚えた)

 運命とは皮肉なものだ。地獄へ落ちたと思った者が生き残っている。甲種合格した見習い将校たちは中国に渡り、しばらくすると少尉に任官される。そのうち連帯の編成に合わせてフィリッピン、マレー、南支と南方各方面に小隊長になって派遣された。その半分以上が若い命を落とした。兵隊で階級が二等兵と決まったときは苦しんだが、今となってはそれが幸いしている。

「柳原君。人生は闇夜ばかりではないということだよ。月夜の夜もかならずある。企業でも出世してええことばかり続くわけがない。安心したり油断したら悪くなる。どん底もずっと続かない。これから先、どんなつらいことでも決して悲しむことはないですよ」

 柳原は片桐齊造の強靭さを垣間見たように思う。作家の城山三郎は、小説『打たれ強い』の中で、企業も逆境を経験し、かいくぐれるほどに強くなると言っている。企業もそうだろうが、人間こそ打たれるほどば強くなる。打たれても打たれても耐え忍んでくることだ。

「大阪の馬場町のNHKの前ですよ」と、運転手が声をかけたが、片桐はほかのことを考えていた。

 片桐は部隊の経理室に勤務、酒保(兵隊に酒や饅頭を売る所)の商品仕入れ係であった。

「三ケ月に一回、南方派遣名簿が発表され時々、儂の名前も載るんだが、仕入れ係がいないと困るというんでいつもはずされていたんですよ」

 二等兵は内地でも下働きで辛いが、外地に行くとその比ではない。最前線でまず若い二等兵の生命が消える。それが戦争だった。そのことは企業戦争でも同じで上役ほど得しているが、戦争のように生命を失う心配はそうない。もっとも、貿易摩擦でやむなく海外へ進出、戦争、誘拐、事故等に巻き込まれるケースも増えているが…。

 片桐は仕入れの仕事のほかに遺骨資料の受付も担当、連隊に送っていた。(こんなに多くの遺骨があるということは、自分もいつかは死ぬんだ)と時々、胸が締め付けられる思いをした。入隊拒否で監獄に入っても三年で解放されるのに、二等兵は永遠に続く。いつ南方に派遣されるのだろうか、ずっと死の恐怖が離れない。

「片桐、お前はフィリッピン行の噂だぞ」

 企業の人事と同じである。人事の季節になると、なんとなくそわそわしてくる。噂が耳に入る。南方行きは“死”を意味していた。企業でもそうだが、あたかも知っているかのように言い寄ってくる輩がいる。

 弟の操は天理外国学校を卒業。召集令状の赤紙が届いた。三カ月後に福井の鯖江連隊に入隊したが、その後の足跡はわからない。

「戦争に行くことは国のために死ににいくことだ。しゃおまへん」

 操は父、藤太郎の見送りを受けた時に、残した最後の言葉である。操が沖縄で戦死したことを知らされたのは、戦争も終わり、齊造が千早赤阪村の助役をしていた昭和三十一年の春であった。

 千早小学校南端の岸壁を背に平和を願う仏像を刻んで慰霊祭が催された。昭和二十八年のことであった。

「楠氏この方、平和愛好の血統を受け継いできました。わが千早村からも日清、日露以来、幾度かの戦いに出陣して遥かなる大陸の荒野に、果てしなき海原のかなたに、草むす屍、水潰し屍と、散華された方々を数えるに百三柱、今その英霊をお慰し、永遠に郷土千早村の守護神としての象徴たる忠魂碑を建設して…」

 十二代目千早村長の鎌倉勇治が一文を読み上げる。戦没者名簿には、戦没年月日とともに、ニューギニヤ、ソロモン群島シュウトランド島、南方海上、マンダラ諸島、ルソン島、サイパン島…と戦没場所が記載されている。おぞましい戦いの跡が見えるようだ。(片桐操、昭和二十五年四月二十日、沖縄で戦死)とある。

「片桐さんは、戦争についてどう考えているんですか」

 柳原は片桐の戦争観を知りたかった。関西財界が防衛費をGNP比率一%の枠を取っ払えと主張、キナ臭い時代を感じさせていたからだ。

「あんなしんどいことは、絶対やらんよ。はい、そうですかというわけにはいかんよ。独立国として必要最小限の防衛でよい。日本が先頭を切って戦争をすることは絶対にいかん。われわれの年代の人間ならみな知っているよ」

 齊造は幹部候補生の試験に落ちたが、ソロバンを持つ兵隊になれたことは唯一の救いだった。しかし、二等兵だから日本が勝利するまで希望は何一つない。

「その時は、これ以上、残念無念のことはないと思っていたんだよ。日本が戦争に敗け、時代が変わるんだね。信じられなかった」

 片桐はその時の経験から嫌なこと、気にくわないことを避けてはならないと信じている。戦争を逃れようとする者は、役場の役員をだまし、戸籍を抹消する者もいた。ある者は食事をせず骨と皮になって徴兵を免れた。片桐と同じ部隊でも饅頭を食って便所で首を吊る者、また耳から?油を注いで気狂いになって逃亡する者もいた。兵舎の便所は落とし式だから、台がなくても首吊りができる。?油を一合飲んで百メートルを全力疾走すれば高熱がでるという。戦場で爆弾の炸裂する音を聞いて気が狂った者もいる。戦争は実に残酷である。しかし、そのようなことをする者はごく一部であったし、嫌なことを避けても後からかならずツケがきた。片桐の手元に日を追って遺骨資料は増える一方である。

 昭和二十年になると、アメリカ軍は本土攻撃を開始した。大阪府下で最初の空襲は十九年十二月十九日で、B29一機が松原市を爆撃。年が明けると、爆撃は一段と激しくなる。三月にはいよいよ無差別じゅうたん爆撃、焼夷弾による空襲が本格化し、十三日から十四日未明にかけて第一回夜間空襲があった。

 片桐齊造の父、藤太郎が夜中一時を回ったころ、なんとはなしに家の外に出てみると、蔵の白壁が府下一円の空襲による猛火で真っ赤に染まっているのだ。

「のぶ、大変だ。大火事だ」

 藤太郎は家の中に駆け込み、バケツを持って用水槽に向かって走る。それほど火が近くに見えた。

「この分だと、齊造も助かるまい」

 両親は大阪市内の方を見やりながら半ば呆然とした。B29、90 機が約7万個の焼夷弾を投下、大阪は地獄絵図と化した。空襲警報のサイレンが鳴り響く中、着の身着のままで民衆が逃げ惑う。大阪のシンボルの通天閣も焼け落ちる。

 齊造は大阪中部第23連隊にいた。大空襲の日、点呼を終えベッドについた夜の十時、非常呼集があり、完全武装で庭に整列させられた。上空を米軍の爆撃機が数機隊をなして飛んで行った。空を見上げると、そのあとには星が遠くで輝いている。