◎藤沢周平(その3)

〈妻への「書き遺すこと」〉

 藤沢周平は、平成6年(1994)に妻の和子宛に「書き遺すこと」を原稿用紙に書きました。亡くなる3年前、67歳の時でした。

 この年の1月26日に朝日賞を受賞し、同じ日に銀婚式を祝いました。4月に『藤沢周平全集』23巻が完結しました。そして、10月に墓参のため、妻の和子、長女・展子夫婦と生まれ故郷の鶴岡に行きました。

 当時、病身の藤沢周平は、死が着実に近づいていることを自覚し、こう考えていたに違いありません。?人間としてやるべきことはほぼやり終えた。文学的にも一つの頂上を極めた。権威ある朝日賞も受賞したし、全集も刊行された。これだけやれたのも、25年間連れ添った妻の和子のおかげだ。

 彼は、最初に「展子を頼みます」と書き、次に葬儀の形式について書きました。

 「葬儀は、出来れば(1)の形で、無理な場合は(2)の形式で行う。

(1)葬儀は、近親者、教え子、編集者、近所の人など、最小限の人たちで行う。

 (イ)通夜なし。近親者、二、三の編集者だけ。

 ※お酒、寿司などを出す。

 (ロ)密葬。出棺までに、連絡した人たちに集まってもらい、希望によって体面もさせる。

 (ハ)火葬場から戻ったら、供養の後、酒や寿司などを出す。

 (ニ)宗教は曹洞宗。お坊さんにお経を上げてもらって下さい。

(2)葬儀は、出来るだけ控え目に、葬祭場で普通の葬儀をする。

 (イ)その場合は、阿部さん( ※ 文芸春秋の編集者)に葬儀の手配を任せる。葬儀社との交渉も含めて。

 (ロ)葬儀が終わった後の挨拶は、正君(注・長女展子の夫・遠藤正)が行う。

 ※挨拶は、短く簡単でいい。挨拶文の見本を考えておきます。」

 藤沢周平は、それから3 年後の平成9 年(1997)1月26日に死去しました。

 実際に行われた葬儀は次のようでした。本人が希望していた「控え目な、普通の葬儀」よりも大規模なものになってしまったようです。

 1月29日、東京都新宿区信濃町の千日谷会堂にて通夜。

 1月30日、同所にて葬儀・告別式。弔辞は、丸谷才一(作家)、井上ひさし(作家)、富塚陽一(鶴岡市長)、蒲生芳郎(山形師範同窓生)、萬年慶一(教え子)の5氏。

 3月9日、都営八王子霊園に納骨。

 藤沢周平が妻・和子宛に書いた「書き遺すこと」は、こう結ばれています。

「小説を書くようになってから、私はわがままを言って、身辺のことを全て和子にやってもらったが、特に昭和62年に肝炎を患ってからは、食事、漢方薬の取り寄せ、煎じ、外出の時の付き添い、病院に行く時の世話、電話の応対、寝具の日干しなど全てを和子にやってもらった。ただただ感謝するばかりである。

 そのおかげで、病身にもかかわらず、人の心に残るような小説も書け、賞ももらい、満ち足りた晩年を送ることが出来た。思い残すことはない。ありがとう」

◎『蝉しぐれ』

 藤沢周平の全ての作品の中で、私は『蝉しぐれ』が特に好きです。読んでいる時も、読み終えた後も、実に爽やかな気分を味わうことができます。あまり本を読まない人でも、この小説を読んだら「ああ、いい本を読んだなあ」と思うことでしょう。

 長い小説なので、内容を簡単に紹介できません。作者の藤沢周平はこう書いています。

 「『蝉しぐれ』は、一人の武家の少年が青年に成長して行く過程を、新聞小説らしく剣と友情、それに主人公の淡い恋愛感情をからめて書いたものだが、実を言うと、これが苦痛で苦痛で仕方がなかった。(中略)一冊の本になってみると、『蝉しぐれ』は、人がそう言い、私自身もそう思うような、少しは読みごたえのある小説になっていたのである」

 内容紹介の代わりに、主人公の牧文四郎と、隣家の小柳甚兵衛の娘で3歳年下のふくが登場する3つの場面を引用することにします。

(1)この小説で一番印象的な冒頭の場面。―夏の朝、15歳の文四郎が小川に出る。

 「悲鳴をあげたのはふくである。とっさに文四郎は間の垣根を飛び越えた。そして小柳の屋敷に入ったときには、立ちすくんだふくの足元から身をくねらせて逃げる蛇を見つけていた。体長二尺四、五寸ほどの山かがしのようである。

 青い顔をして、ふくが指を押さえている。

 『どうした?噛まれたか』『はい』『どれ』

 手を取ってみると、ふくの右手の中指がぽつりと赤くなっている。ほんの少しだが血が出ているようだった。

 文四郎はためらわずにその指を口にふくむと、傷口を強く吸った。口の中にかすかに血の匂いが広がった。呆然と手を文四郎にゆだねていたふくが、このとき小さな泣き声をたてた。蛇の毒を思って、恐怖がこみ上げて来たのだろう。

 『泣くな』

 唾を吐き捨てて、文四郎は叱った。唾は赤くなっていた」

(2)文四郎が父の遺体を苦労して荷車で運んでいる場面。―途中から友人の竹内道蔵が手助けしてくれた。荷車を引く二人の前に、ふくがやって来る。

 「車を雑木林の横から矢場町の通りまで引き上げたときには、文四郎も道蔵も精根尽き果てて、しばらくは物も言えずに喘いだ。車はそれほどに重かった。

 喘いでいる文四郎の目に、組屋敷の方から小走りに駆けて来る少女の姿が映った。確かめるまでもなく、ふくだと分かった。

 ふくはそばまで来ると、車の上の遺体に手を合わせ、それから歩き出した文四郎に寄り添って梶棒をつかんだ。無言のままの目から涙がこぼれるのをそのままに、ふくは一心な力をこめて梶棒を引いていた」

(3)20年以上が経過して、二人が秘密裏に再会する場面。?長い年月の間に、文四郎(助左衛門)は郡奉行になり、ふく(お福さま) は藩主の側室になっていた。

 「『この指を、おぼえていますか』。お福さまは右手の中指を示しながら、助左衛門ににじり寄った。かぐわしい肌の香が、文四郎の鼻にふれた。

 『蛇に噛まれた指です』

 『さよう。それがしが血を吸ってさし上げた』

 お福さまはうつむくと、盃の酒を吸った」

 

■杉本武之プロフィール

1939年 碧南市に生まれる。

京都大学文学部卒業。

翻訳業を経て、小学校教師になるために愛知教育大学に入学。

25年間、西尾市の小中学校に勤務。

定年退職後、名古屋大学教育学部の大学院で学ぶ。

〈趣味〉読書と競馬

 

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◎藤沢周平(その3)

〈妻への「書き遺すこと」〉

 藤沢周平は、平成6年(1994)に妻の和子宛に「書き遺すこと」を原稿用紙に書きました。亡くなる3年前、67歳の時でした。

 この年の1月26日に朝日賞を受賞し、同じ日に銀婚式を祝いました。4月に『藤沢周平全集』23巻が完結しました。そして、10月に墓参のため、妻の和子、長女・展子夫婦と生まれ故郷の鶴岡に行きました。

 当時、病身の藤沢周平は、死が着実に近づいていることを自覚し、こう考えていたに違いありません。?人間としてやるべきことはほぼやり終えた。文学的にも一つの頂上を極めた。権威ある朝日賞も受賞したし、全集も刊行された。これだけやれたのも、25年間連れ添った妻の和子のおかげだ。

 彼は、最初に「展子を頼みます」と書き、次に葬儀の形式について書きました。

 「葬儀は、出来れば(1)の形で、無理な場合は(2)の形式で行う。

(1)葬儀は、近親者、教え子、編集者、近所の人など、最小限の人たちで行う。

 (イ)通夜なし。近親者、二、三の編集者だけ。

 ※お酒、寿司などを出す。

 (ロ)密葬。出棺までに、連絡した人たちに集まってもらい、希望によって体面もさせる。

 (ハ)火葬場から戻ったら、供養の後、酒や寿司などを出す。

 (ニ)宗教は曹洞宗。お坊さんにお経を上げてもらって下さい。

(2)葬儀は、出来るだけ控え目に、葬祭場で普通の葬儀をする。

 (イ)その場合は、阿部さん( ※ 文芸春秋の編集者)に葬儀の手配を任せる。葬儀社との交渉も含めて。

 (ロ)葬儀が終わった後の挨拶は、正君(注・長女展子の夫・遠藤正)が行う。

 ※挨拶は、短く簡単でいい。挨拶文の見本を考えておきます。」

 藤沢周平は、それから3 年後の平成9 年(1997)1月26日に死去しました。

 実際に行われた葬儀は次のようでした。本人が希望していた「控え目な、普通の葬儀」よりも大規模なものになってしまったようです。

 1月29日、東京都新宿区信濃町の千日谷会堂にて通夜。

 1月30日、同所にて葬儀・告別式。弔辞は、丸谷才一(作家)、井上ひさし(作家)、富塚陽一(鶴岡市長)、蒲生芳郎(山形師範同窓生)、萬年慶一(教え子)の5氏。

 3月9日、都営八王子霊園に納骨。

 藤沢周平が妻・和子宛に書いた「書き遺すこと」は、こう結ばれています。

「小説を書くようになってから、私はわがままを言って、身辺のことを全て和子にやってもらったが、特に昭和62年に肝炎を患ってからは、食事、漢方薬の取り寄せ、煎じ、外出の時の付き添い、病院に行く時の世話、電話の応対、寝具の日干しなど全てを和子にやってもらった。ただただ感謝するばかりである。

 そのおかげで、病身にもかかわらず、人の心に残るような小説も書け、賞ももらい、満ち足りた晩年を送ることが出来た。思い残すことはない。ありがとう」

 

 

◎『蝉しぐれ』

 藤沢周平の全ての作品の中で、私は『蝉しぐれ』が特に好きです。読んでいる時も、読み終えた後も、実に爽やかな気分を味わうことができます。あまり本を読まない人でも、この小説を読んだら「ああ、いい本を読んだなあ」と思うことでしょう。

 長い小説なので、内容を簡単に紹介できません。作者の藤沢周平はこう書いています。

 「『蝉しぐれ』は、一人の武家の少年が青年に成長して行く過程を、新聞小説らしく剣と友情、それに主人公の淡い恋愛感情をからめて書いたものだが、実を言うと、これが苦痛で苦痛で仕方がなかった。(中略)一冊の本になってみると、『蝉しぐれ』は、人がそう言い、私自身もそう思うような、少しは読みごたえのある小説になっていたのである」

 内容紹介の代わりに、主人公の牧文四郎と、隣家の小柳甚兵衛の娘で3歳年下のふくが登場する3つの場面を引用することにします。

(1)この小説で一番印象的な冒頭の場面。―夏の朝、15歳の文四郎が小川に出る。

 「悲鳴をあげたのはふくである。とっさに文四郎は間の垣根を飛び越えた。そして小柳の屋敷に入ったときには、立ちすくんだふくの足元から身をくねらせて逃げる蛇を見つけていた。体長二尺四、五寸ほどの山かがしのようである。

 青い顔をして、ふくが指を押さえている。

 『どうした?噛まれたか』『はい』『どれ』

 手を取ってみると、ふくの右手の中指がぽつりと赤くなっている。ほんの少しだが血が出ているようだった。

 文四郎はためらわずにその指を口にふくむと、傷口を強く吸った。口の中にかすかに血の匂いが

広がった。呆然と手を文四郎にゆだねていたふくが、このとき小さな泣き声をたてた。蛇の毒を思って、恐怖がこみ上げて来たのだろう。

 『泣くな』

 唾を吐き捨てて、文四郎は叱った。唾は赤くなっていた」

(2)文四郎が父の遺体を苦労して荷車で運んでいる場面。―途中から友人の竹内道蔵が手助けしてくれた。荷車を引く二人の前に、ふくがやって来る。

 「車を雑木林の横から矢場町の通りまで引き上げたときには、文四郎も道蔵も精根尽き果てて、しばらくは物も言えずに喘いだ。車はそれほどに重かった。

 喘いでいる文四郎の目に、組屋敷の方から小走りに駆けて来る少女の姿が映った。確かめるまでもなく、ふくだと分かった。

 ふくはそばまで来ると、車の上の遺体に手を合わせ、それから歩き出した文四郎に寄り添って梶棒をつかんだ。無言のままの目から涙がこぼれるのをそのままに、ふくは一心な力をこめて梶棒を引いていた」

(3)20年以上が経過して、二人が秘密裏に再会する場面。?長い年月の間に、文四郎(助左衛門)は郡奉行になり、ふく(お福さま) は藩主の側室になっていた。

 「『この指を、おぼえていますか』。お福さまは右手の中指を示しながら、助左衛門ににじり寄った。かぐわしい肌の香が、文四郎の鼻にふれた。

 『蛇に噛まれた指です』

 『さよう。それがしが血を吸ってさし上げた』

 お福さまはうつむくと、盃の酒を吸った」