◎藤沢周平(その1)

 『蝉しぐれ』『三屋清左衛門残日録』『橋ものがたり』など数々の名作を書いた時代小説作家・藤沢周平が死んで、もう24年になります。

 私よりも一回り年上の彼は、70歳で亡くなりました。その時、私は58歳でした。そして、彼が亡くなった70歳になっても私は生きていました。それからまた12年も生き延びて、今年の5月に82歳になりました。敬愛する藤沢周平より12年も長く生きています。そして、時々彼の本を読んで至福の時間を過ごしています。

 藤沢周平( 本名・小菅留治) は、昭和2年(1927)12月26日の夜、山形県東田川郡黄金村(現・鶴岡市)で父・小菅繁蔵(農業・38歳)、母・たきゑ(33歳)の次男として生まれた。※この年、作家の北杜夫、吉村昭、城山三郎も生まれている。

 「私が生まれた12月26日は、降り続く雪が隣の家との行き来もままならない大雪になったという。そういう夜に母が産気づいたので、父はかなりあわてたのではないかと思うけれど、幸いなことに隣家のおばあさんが村の産婆さんであった」

 昭和9年4月、青龍寺尋常高等小学校に入学した。5年生の時、吃音に悩むようになった。担任の宮崎先生の前で過度に緊張してしまい、声が出なかったのである。

 昭和15年3月、小学校卒業。最優秀児童に与えられる郡賞を授与された。4月、同校高等科に進んだ。

 昭和17年3月、高等科卒業。4月、山形県立鶴岡中学校夜間部に入学した。昼は鶴岡印刷株式会社で働いた。その後、黄金村村役場の税務課書記補に転職した。

 「(高等科の)担任の佐藤喜治郎先生が、卒業の時に『このまま百姓になるのはもったいない。自分が手続きするから夜間に行け』と言うんですよ。私は全然そういう意欲が無かったわけ、その頃は。すると、先生はさっさと手続きして、それでご自分は転任で学校を去り、じきに出征して戦死された」

 昭和21年3月、鶴岡中学校夜間部卒業。山形師範学校に入学。1級上に、後に『山びこ学校』で有名になる無着成恭がいた。

 昭和24年3月、山形師範学校卒業。4月、山形県西田川郡湯田川村立湯田川中学校へ赴任。2年B組(生徒数25人)を担任した。9月、教員異動にともない、1年生(55人)の担任を命じられた。大井晴先生が副担任になった。

 昭和25年1月、父・繁蔵が脳溢血で61歳で死去。4月、2年A組の担任になった。

 昭和26年3月、学校の集団検診で肺結核が発見された。4月から休職して、鶴岡市内の中目医院へ入院した。半年後、退院して自宅で通院療養を続けた。

 昭和28年2月、中目医師の奨めで、東京都北多摩郡東村山町の篠田病院・林間荘に入院した。6月、東村山町保生園病院で手術を受けた。右肺上葉切除の後、肋骨5本を切除した。10月、篠田病院に帰った。手術の予後が悪く、それから2年間、病院での療養生活が続いた。

 昭和32年、病院の敷地内の外気舎(独立作業病舎)に移った。10月、教師時代の彼を副担任として補助し、その後東京に出ていた大井晴の紹介で、業界新聞のK新聞社に就職が決まった。11月、退院して、K新聞社に通勤するようになった。

 昭和34年8月、山形県鶴岡市大字藤沢の三浦悦子と結婚した。

 昭和35年、日本食品経済社に入社。「日本加工食品新聞」の編集に携わる。生活がようやく安定してきた。

 昭和38年頃から、いろいろなところに作品を応募するようになった。2月、長女の展子(のぶこ)が生まれた。10月、妻の悦子が28歳で病死した。

 昭和44年1月、東京の高澤和子と再婚した。 昭和48 年7月、「暗殺の年輪」によって直木賞を受賞した。

 昭和49年8月、母・たきゑが死去。享年80。11月、日本食品経済社を退社した。それ以後、創作に専念し、旺盛な作家生活に入った。数々の名作を生み出した。

 平成8年(1996)3月、肺炎のため入院し、治療につとめた。7月、退院。9月23日、国立国際医療センターに再入院。12月26日、病室に家族5人が集まって69回目の誕生日を祝った。

 平成9年1月24日、病状悪化。肝臓と腎臓の機能が極度に低下し、血圧も40台に下がった。1月26日、午後10時12分、死去。享年70。1月30日、信濃町千日谷会堂にて葬儀・告別式が行われた。3月9日、都営八王子霊園に納骨。

◎『橋ものがたり』

 藤沢周平の作品には駄作が殆どありません。どれを読んでも満足感を与えられます。

 私は、長編小説では『蝉しぐれ』が一番好きです。そして、短編小説では『橋ものがたり』の中の「約束」が大好きです。

 短編小説集『橋ものがたり』は、「約束」「小ぬか雨」「思い違い」「赤い夕日」などの10編から成っています。全てが珠玉の名作です。

 最初の「約束」を読んでみましょう。

―この日、21歳の幸助は、浅草の錺師の店での年季奉公が明けて、実家に戻ってきていた。まだ1年のお礼奉公が残っているが、解放感で一杯だった。昼飯を食べてから、茶の間の片隅に転がってぐっすりと眠った。午後3時頃、幸助は外に出た。

 女と会う約束の時刻にまだ2時間近くあったが、幸助は萬年橋に急いだ。「女とは、七ツ半(午後5時)きっかりに、小名木川に架かる萬年橋の上で会うことになっていた。女とは5年ぶりに会うことになる。―お蝶は変わっただろうか」

 幼なじみのお蝶は3歳年下であった。小さい頃から二人は特別に仲が良かった。幸助は13歳で年季奉公に出た。5年前の3月、奉公先の店にお蝶が突然訪ねてきた。彼女は、引っ越すことになったこと、料理屋で働くことを幸助に話した。別れる時、幸助は「5年後に萬年橋で会おう。二人だけの約束だ。誰にも話すな」と言った。

 しかし、5年の間に、二人は相手に言えないような経験をしていた。幸助は師匠の妾と肉体関係ができていた。お蝶は2年前から客と寝るようになっていた。「会いに行く資格がない」とお蝶は思い続けた。約束の時刻から3時間が経った。もう帰ろうと幸助は思った。気の付かないうちに女は来ていた。「こんなに待たせて、ごめんなさいね」

 お蝶は思い切って秘密を打ち明けた。それから「ここへ来てよかった。もう、心残りはない」と言い、最後に「幸助さんのおかみさんになりたかったの。ごめんね」と言った。

 お蝶は家に帰ったが、一睡もできなかった。翌朝、幸助がやって来た。「二人はもう離れちゃいけないんだ。二人とも少しばかり、大人の苦労を味わったということなんだ」

 お蝶は「少しじゃないわ」と言って、いつまでも泣き続けた。

 

■杉本武之プロフィール

1939年 碧南市に生まれる。

京都大学文学部卒業。

翻訳業を経て、小学校教師になるために愛知教育大学に入学。

25年間、西尾市の小中学校に勤務。

定年退職後、名古屋大学教育学部の大学院で学ぶ。

〈趣味〉読書と競馬

 

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◎藤沢周平(その1)

 

 『蝉しぐれ』『三屋清左衛門残日録』『橋ものがたり』など数々の名作を書いた時代小説作家・藤沢周平が死んで、もう24年になります。

 私よりも一回り年上の彼は、70歳で亡くなりました。その時、私は58歳でした。そして、彼が亡くなった70歳になっても私は生きていました。それからまた12年も生き延びて、今年の5月に82歳になりました。敬愛する藤沢周平より12年も長く生きています。そして、時々彼の本を読んで至福の時間を過ごしています。

 藤沢周平( 本名・小菅留治) は、昭和2年(1927)12月26日の夜、山形県東田川郡黄金村(現・鶴岡市)で父・小菅繁蔵(農業・38歳)、母・たきゑ(33歳)の次男として生まれた。※この年、作家の北杜夫、吉村昭、城山三郎も生まれている。

 「私が生まれた12月26日は、降り続く雪が隣の家との行き来もままならない大雪になったという。そういう夜に母が産気づいたので、父はかなりあわてたのではないかと思うけれど、幸いなことに隣家のおばあさんが村の産婆さんであった」

 昭和9年4月、青龍寺尋常高等小学校に入学した。5年生の時、吃音に悩むようになった。担任の宮崎先生の前で過度に緊張してしまい、声が出なかったのである。

 昭和15年3月、小学校卒業。最優秀児童に与えられる郡賞を授与された。4月、同校高等科に進んだ。

 昭和17年3月、高等科卒業。4月、山形県立鶴岡中学校夜間部に入学した。昼は鶴岡印刷株式会社で働いた。その後、黄金村村役場の税務課書記補に転職した。

 「(高等科の)担任の佐藤喜治郎先生が、卒業の時に『このまま百姓になるのはもったいない。自分が手続きするから夜間に行け』と言うんですよ。私は全然そういう意欲が無かったわけ、その頃は。すると、先生はさっさと手続きして、それでご自分は転任で学校を去り、じきに出征して戦死された」

 昭和21年3月、鶴岡中学校夜間部卒業。山形師範学校に入学。1級上に、後に『山びこ学校』で有名になる無着成恭がいた。

 昭和24年3月、山形師範学校卒業。4月、山形県西田川郡湯田川村立湯田川中学校へ赴任。2年B組(生徒数25人)を担任した。9月、教員異動にともない、1年生(55人)の担任を命じられた。大井晴先生が副担任になった。

 昭和25年1月、父・繁蔵が脳溢血で61歳で死去。4月、2年A組の担任になった。

 昭和26年3月、学校の集団検診で肺結核が発見された。4月から休職して、鶴岡市内の中目医院へ入院した。半年後、退院して自宅で通院療養を続けた。

 昭和28年2月、中目医師の奨めで、東京都北多摩郡東村山町の篠田病院・林間荘に入院した。6月、東村山町保生園病院で手術を受けた。右肺上葉切除の後、肋骨5本を切除した。10月、篠田病院に帰った。手術の予後が悪く、それから2年間、病院での療養生活が続いた。

 昭和32年、病院の敷地内の外気舎(独立作業病舎)に移った。10月、教師時代の彼を副担任として補助し、その後東京に出ていた大井晴の紹介で、業界新聞のK新聞社に就職が決まった。11月、退院して、K新聞社に通勤するようになった。

 昭和34年8月、山形県鶴岡市大字藤沢の三浦悦子と結婚した。

 昭和35年、日本食品経済社に入社。「日本加工食品新聞」の編集に携わる。生活がようやく安定してきた。

 昭和38年頃から、いろいろなところに作品を応募するようになった。2月、長女の展子(のぶこ)が生まれた。10月、妻の悦子が28歳で病死した。

 昭和44年1月、東京の高澤和子と再婚した。 昭和48 年7月、「暗殺の年輪」によって直木賞を受賞した。

 昭和49年8月、母・たきゑが死去。享年80。11月、日本食品経済社を退社した。それ以後、創作に専念し、旺盛な作家生活に入った。数々の名作を生み出した。

 平成8年(1996)3月、肺炎のため入院し、治療につとめた。7月、退院。9月23日、国立国際医療センターに再入院。12月26日、病室に家族5人が集まって69回目の誕生日を祝った。

 平成9年1月24日、病状悪化。肝臓と腎臓の機能が極度に低下し、血圧も40台に下がった。1月26日、午後10時12分、死去。享年70。1月30日、信濃町千日谷会堂にて葬儀・告別式が行われた。3月9日、都営八王子霊園に納骨。

 

 

◎『橋ものがたり』

 藤沢周平の作品には駄作が殆どありません。どれを読んでも満足感を与えられます。

 私は、長編小説では『蝉しぐれ』が一番好きです。そして、短編小説では『橋ものがたり』の中の「約束」が大好きです。

 短編小説集『橋ものがたり』は、「約束」「小ぬか雨」「思い違い」「赤い夕日」などの10編から成っています。全てが珠玉の名作です。

 最初の「約束」を読んでみましょう。

―この日、21歳の幸助は、浅草の錺師の店での年季奉公が明けて、実家に戻ってきていた。まだ1年のお礼奉公が残っているが、解放感で一杯だった。昼飯を食べてから、茶の間の片隅に転がってぐっすりと眠った。午後3時頃、幸助は外に出た。

 女と会う約束の時刻にまだ2時間近くあったが、幸助は萬年橋に急いだ。「女とは、七ツ半(午後5時)きっかりに、小名木川に架かる萬年橋の上で会うことになっていた。女とは5年ぶりに会うことになる。―お蝶は変わっただろうか」

 幼なじみのお蝶は3歳年下であった。小さい頃から二人は特別に仲が良かった。幸助は13歳で年季奉公に出た。5年前の3月、奉公先の店にお蝶が突然訪ねてきた。彼女は、引っ越すことになったこと、料理屋で働くことを幸助に話した。別れる時、幸助は「5年後に萬年橋で会おう。二人だけの約束だ。誰にも話すな」と言った。

 しかし、5年の間に、二人は相手に言えないような経験をしていた。幸助は師匠の妾と肉体関係ができていた。お蝶は2年前から客と寝るようになっていた。「会いに行く資格がない」とお蝶は思い続けた。約束の時刻から3時間が経った。もう帰ろうと幸助は思った。気の付かないうちに女は来ていた。「こんなに待たせて、ごめんなさいね」

 お蝶は思い切って秘密を打ち明けた。それから「ここへ来てよかった。もう、心残りはない」と言い、最後に「幸助さんのおかみさんになりたかったの。ごめんね」と言った。

 お蝶は家に帰ったが、一睡もできなかった。翌朝、幸助がやって来た。「二人はもう離れちゃいけないんだ。二人とも少しばかり、大人の苦労を味わったということなんだ」

 お蝶は「少しじゃないわ」と言って、いつまでも泣き続けた。