◎辻潤

 無名だった宮沢賢治を高く評価して、その名を最初に公に知らしめたのは、辻潤という世にも不思議な人物であった。

 宮沢賢治の詩集『春と修羅』は、大正13年(1924)4月20日に刊行された。自費出版で、発行部数は千部であった。詩集に対する反響は全然なかった。ところが、2カ月ほど経った6月23日、読売新聞に掲載された辻潤の「惰眠洞妄語」で『春と修羅』が絶賛されたのだ。

 「宮沢賢治という人は何処の人だか、年が幾つなのだか、何をしている人なのだか、私はまるで知らない。しかし、私は偶然にも近頃、その人の『春と修羅』という詩集を手にした。近頃珍しい詩集だ。私は勿論詩人でもなければ、批評家でもないが、私の鑑賞眼の程度は、もし諸君が私の言葉に促されてこの詩集を手にせられるなら直ちに分かる筈だ。私は由来気まぐれで、甚だ好奇心に富んでいる。しかし、本物とニセ物の区別くらいはできる自信はある。

 この詩人は全く特異な個性の持ち主だ。芸術は独創性の異名で、その他は模倣から成り立つものだが、情緒や、感覚の新鮮さが失われていたのでは話にならない。

 もし私がこの夏アルプスへでも出掛けるとしたら、私は『ツァラトウストラ』を忘れても『春と修羅』を携えることを必ず忘れはしないだろう」

 この辻潤という名前は、その前年に起こった「甘粕事件」に関連して多少世間に知られていた。大正12年9月1日に関東大震災が発生した。その大混乱の中、9月16日、無政府主義者の大杉栄、妻の伊藤野枝、甥の橘宗一の3人が憲兵大尉・甘粕正彦らによって首を絞められて殺された。絞殺された伊藤野枝の前の夫が辻潤であったのだ。

 辻潤は、明治17年(1884)10月4日、東京の浅草向柳原で父・六次郎と母・芙津の長男として生まれた。父は下級官吏であった。

 明治23年、育英尋常小学校に入学。成績は良かった。

 明治25年、父が三重県庁に奉職したために父母と津市に移った。2年後、東京へ帰った。翌年、開成尋常中学校に入学したが、2年後に退学した。尺八を正式に学んだ。

 明治32年、神田の正則国民英学会に入った。内村鑑三の著作に親しんだ。

 明治36年、千代田尋常高等小学校の助教員になった。翌年6月、検定試験を受けて小学校正教員の免許を取得し、正教員になった。

 明治41 年、浅草の精華高等小学校の教員になった。

 明治44年4月、精華高等小学校を退職し、上野高等女学校の英語教師になった。伊藤野枝が4年生組の編入試験を受けて合格した。

 大正元年、28歳の辻は野枝と恋愛関係になる。教え子との恋愛沙汰のために学校を退職し、野枝との同棲が始まる。生活のために陸軍参謀本部の英語関係の書類を訳したり、親しくなった作家・岩野泡鳴の翻訳を手伝ったりする。

 大正2年9月、長男の一(まこと)が誕生。

 大正4年1月、野枝は『青鞜』の編集・発行人となる。8月、次男の流二が誕生。

 大正5年3月、『青鞜』が終刊になる。4月、野枝は流二を連れて家を出る。流二を里子に出し、大杉栄と同棲する。辻は上野の寛永寺に身を寄せる。

 大正12年9月1日、川崎で関東大震災に遭遇する。9月16日、大杉栄と伊藤野枝が甘粕憲兵大尉に虐殺されたことを大阪で新聞の号外を見て知る。

 昭和3年1月、読売新聞社のパリ文芸特置員として長男の一とフランスに行く。

 昭和7年2月、天狗になって屋根から飛んだという噂が広がる。中学の同級生だった斎藤茂吉の経営する青山脳病院に入院する。その後、長期に亙って、菅笠、頭陀袋、腰に尺八と手拭い、赤い鼻緒の下駄という姿で日本各地を放浪する。

 昭和19年11月24日、淀橋区上落合の空き家となったアパートで餓死し、翌日、発見される。弟の義郎、次男の流二によって染井の西福寺に葬られる。辻潤が常に心から信頼していた長男の一は従軍中であった。

◎「ふもれすく」

 大正12年9月16日に憲兵大尉・甘粕正彦によって大杉栄と伊藤野枝が虐殺されました。「ふもれすく」は辻が伊藤野枝について『婦人公論』に書いたエッセーです。

 辻潤は、関東大震災の後、10日ほど野天生活をしてから、老婆と長男の一を妹の所へ預けて大阪に出た。そして1週間ほど大阪にいた。

 「夕方、道頓堀を歩いている時に、僕は初めてあの号外を見た。地震とは全然異なった強いショックが僕の脳裡をかすめて走った。それから僕は何気ない顔付きをして俗謡のある一節を口ずさみながら朦朧とした意識に包まれて夕闇の中を歩き続けた」

 辻と野枝は、上野高等女学校で師弟として出会った。野枝は18歳で5年生、辻は28歳で英語の教師であった。

 「野枝さんは学生として模範的じゃなかった。だから成績も中位で、学校で教えることなどは全体頭から軽蔑しているらしかった。もし僕が野枝さんに惚れたとしたら、彼女の文学的才能と彼女の野生的な美しさに引き付けられたからであった。

 女の家が貧乏なために、叔父さんの差し金で、ある金持ちの病身の息子と強制的に婚約をさせられ、その男の家から学費を出してもらって女学校に通って、卒業後の暁はその家に嫁ぐべき運命を持っていた女。自分の才能を自覚して、それを埋没しなければならない羽目に落ち入っていた女。恋愛抜きの結婚。

 卒業して国へ帰って半月も経たないうちに飛び出してきた野枝さんは、僕のところへやって来て身の振り方を相談した。ひとまず野枝さんを教頭のところへ預けることに決めた。

 一番神経を痛めたのは校長で、もし僕があくまで野枝さんの味方になって尽くす気なら、学校を辞めてからやってもらいたいと早速切り出してきた。いかにももっとも千万なことだと思って、早速学校を辞めることにした」

 その後の二人の生活については省略します。略年譜を読んで下さい。

 最後に辻潤は伊藤野枝について次のように書いています。

 「野枝さんは、子供の時に良家の子女として教育され、もっと素直に円満に、いじめられずに育っていたら、もっと十分に彼女の才能を伸ばすことが出来たのかも知れなかった。不幸にして変則な生活を送り、はなはだ変則に有名になって、浅薄なバニティーの犠牲になり、煽て上げられて、向こう見ずになった。強情で、ナキ虫で、クヤシがりやで、ヤキモチ屋で、ダラシがなく、経済観念が欠乏して、野性的であった―野枝さん。

 しかし、僕は野枝さんが好きだった。野枝さんの生んだまこと君はさらに野枝さんよりも好きである。野枝さんにどんな欠点があろうと、彼女の本質を僕は愛していた」

 

■杉本武之プロフィール

1939年 碧南市に生まれる。

京都大学文学部卒業。

翻訳業を経て、小学校教師になるために愛知教育大学に入学。

25年間、西尾市の小中学校に勤務。

定年退職後、名古屋大学教育学部の大学院で学ぶ。

〈趣味〉読書と競馬

 

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◎辻潤

 

 無名だった宮沢賢治を高く評価して、その名を最初に公に知らしめたのは、辻潤という世にも不思議な人物であった。

 宮沢賢治の詩集『春と修羅』は、大正13年(1924)4月20日に刊行された。自費出版で、発行部数は千部であった。詩集に対する反響は全然なかった。ところが、2カ月ほど経った6月23日、読売新聞に掲載された辻潤の「惰眠洞妄語」で『春と修羅』が絶賛されたのだ。

 「宮沢賢治という人は何処の人だか、年が幾つなのだか、何をしている人なのだか、私はまるで知らない。しかし、私は偶然にも近頃、その人の『春と修羅』という詩集を手にした。近頃珍しい詩集だ。私は勿論詩人でもなければ、批評家でもないが、私の鑑賞眼の程度は、もし諸君が私の言葉に促されてこの詩集を手にせられるなら直ちに分かる筈だ。私は由来気まぐれで、甚だ好奇心に富んでいる。しかし、本物とニセ物の区別くらいはできる自信はある。

 この詩人は全く特異な個性の持ち主だ。芸術は独創性の異名で、その他は模倣から成り立つものだが、情緒や、感覚の新鮮さが失われていたのでは話にならない。

 もし私がこの夏アルプスへでも出掛けるとしたら、私は『ツァラトウストラ』を忘れても『春と修羅』を携えることを必ず忘れはしないだろう」

 この辻潤という名前は、その前年に起こった「甘粕事件」に関連して多少世間に知られていた。大正12年9月1日に関東大震災が発生した。その大混乱の中、9月16日、無政府主義者の大杉栄、妻の伊藤野枝、甥の橘宗一の3人が憲兵大尉・甘粕正彦らによって首を絞められて殺された。絞殺された伊藤野枝の前の夫が辻潤であったのだ。

 辻潤は、明治17年(1884)10月4日、東京の浅草向柳原で父・六次郎と母・芙津の長男として生まれた。父は下級官吏であった。

 明治23年、育英尋常小学校に入学。成績は良かった。

 明治25年、父が三重県庁に奉職したために父母と津市に移った。2年後、東京へ帰った。翌年、開成尋常中学校に入学したが、2年後に退学した。尺八を正式に学んだ。

 明治32年、神田の正則国民英学会に入った。内村鑑三の著作に親しんだ。

 明治36年、千代田尋常高等小学校の助教員になった。翌年6月、検定試験を受けて小学校正教員の免許を取得し、正教員になった。

 明治41 年、浅草の精華高等小学校の教員になった。

 明治44年4月、精華高等小学校を退職し、上野高等女学校の英語教師になった。伊藤野枝が4年生組の編入試験を受けて合格した。

 大正元年、28歳の辻は野枝と恋愛関係になる。教え子との恋愛沙汰のために学校を退職し、野枝との同棲が始まる。生活のために陸軍参謀本部の英語関係の書類を訳したり、親しくなった作家・岩野泡鳴の翻訳を手伝ったりする。

 大正2年9月、長男の一(まこと)が誕生。

 大正4年1月、野枝は『青鞜』の編集・発行人となる。8月、次男の流二が誕生。

 大正5年3月、『青鞜』が終刊になる。4月、野枝は流二を連れて家を出る。流二を里子に出し、大杉栄と同棲する。辻は上野の寛永寺に身を寄せる。

 大正12年9月1日、川崎で関東大震災に遭遇する。9月16日、大杉栄と伊藤野枝が甘粕憲兵大尉に虐殺されたことを大阪で新聞の号外を見て知る。

 昭和3年1月、読売新聞社のパリ文芸特置員として長男の一とフランスに行く。

 昭和7年2月、天狗になって屋根から飛んだという噂が広がる。中学の同級生だった斎藤茂吉の経営する青山脳病院に入院する。その後、長期に亙って、菅笠、頭陀袋、腰に尺八と手拭い、赤い鼻緒の下駄という姿で日本各地を放浪する。

 昭和19年11月24日、淀橋区上落合の空き家となったアパートで餓死し、翌日、発見される。弟の義郎、次男の流二によって染井の西福寺に葬られる。辻潤が常に心から信頼していた長男の一は従軍中であった。

 

◎「ふもれすく」

 大正12年9月16日に憲兵大尉・甘粕正彦によって大杉栄と伊藤野枝が虐殺されました。「ふもれすく」は辻が伊藤野枝について『婦人公論』に書いたエッセーです。

 辻潤は、関東大震災の後、10日ほど野天生活をしてから、老婆と長男の一を妹の所へ預けて大阪に出た。そして1週間ほど大阪にいた。

 「夕方、道頓堀を歩いている時に、僕は初めてあの号外を見た。地震とは全然異なった強いショックが僕の脳裡をかすめて走った。それから僕は何気ない顔付きをして俗謡のある一節を口ずさみながら朦朧とした意識に包まれて夕闇の中を歩き続けた」

 辻と野枝は、上野高等女学校で師弟として出会った。野枝は18歳で5年生、辻は28歳で英語の教師であった。

 「野枝さんは学生として模範的じゃなかった。だから成績も中位で、学校で教えることなどは全体頭から軽蔑しているらしかった。もし僕が野枝さんに惚れたとしたら、彼女の文学的才能と彼女の野生的な美しさに引き付けられたからであった。

 女の家が貧乏なために、叔父さんの差し金で、ある金持ちの病身の息子と強制的に婚約をさせられ、その男の家から学費を出してもらって女学校に通って、卒業後の暁はその家に嫁ぐべき運命を持っていた女。自分の才能を自覚して、それを埋没しなければならない羽目に落ち入っていた女。恋愛抜きの結婚。

 卒業して国へ帰って半月も経たないうちに飛び出してきた野枝さんは、僕のところへやって来て身の振り方を相談した。ひとまず野枝さんを教頭のところへ預けることに決めた。

 一番神経を痛めたのは校長で、もし僕があくまで野枝さんの味方になって尽くす気なら、学校を辞めてからやってもらいたいと早速切り出してきた。いかにももっとも千万なことだと思って、早速学校を辞めることにした」

 その後の二人の生活については省略します。略年譜を読んで下さい。

 最後に辻潤は伊藤野枝について次のように書いています。

 「野枝さんは、子供の時に良家の子女として教育され、もっと素直に円満に、いじめられずに育っていたら、もっと十分に彼女の才能を伸ばすことが出来たのかも知れなかった。不幸にして変則な生活を送り、はなはだ変則に有名になって、浅薄なバニティーの犠牲になり、煽て上げられて、向こう見ずになった。強情で、ナキ虫で、クヤシがりやで、ヤキモチ屋で、ダラシがなく、経済観念が欠乏して、野性的であった―野枝さん。

 しかし、僕は野枝さんが好きだった。野枝さんの生んだまこと君はさらに野枝さんよりも好きである。野枝さんにどんな欠点があろうと、彼女の本質を僕は愛していた」