◎中島敦(その2)

  前回に続いて、33歳の若さで亡くなった作家の生涯を辿ってみましょう。

〈中島敦の略年譜〉

(一高入学から死去まで)

 昭和2年(1927)4月、寄宿舎・明寮六番に移り、隣室の氷上英広と親しくなる。8月、満州で肋膜炎に罹り、大連の満鉄病院に入院。1年間休学することになった。その後、日本に戻って別府や千葉県で療養した。

 昭和3年4月、一高に復学。寮を出て、伯父の縁で渋谷の弁護士・岡本武尚邸に寄寓した。この頃から喘息の発作に苦しめられるようになる。

 昭和4年4月、一高の文芸部委員になり、『校友会雑誌』の編集に加わった。夏、岡本邸を出て、芝のアパートに移った。秋、釘本久春、氷上英広、吉田精一らと季刊同人雑誌『しんぽしおん』を興した。

 昭和5年3月、異母妹の睦子が大連で病死。一高を卒業。4月、東京帝国大学文学部国文科に入学。ダンスや将棋や麻雀に熱中する。

 昭和6年3月、麻雀荘で働いていた橋本タカと初めて会う。タカは愛知県碧海郡依佐美村(現・安城市)の橋本辰次郎の三女で、中島敦とは同じ年齢であった。

 昭和7年、春、タカには結婚を約束した男がいて、一悶着があったが、何とか解決して、タカとの結婚の話が固まった。秋、朝日新聞社の入社試験を受けたが、身体検査で不合格。

 昭和8年3月、東大を卒業。4月、同大学院に入学。研究テーマは「森鴎外の研究」。祖父・撫山の門下生であった田沼勝之助が理事長をしていた横浜高等女学校の教諭となって単身赴任。1年4組(66人)の担任。国語、英語、歴史、地理を担当し、週に23時間も受け持った。同僚に、その後有名な歌手になった渡辺はま子や英語学者の岩田一男がいた。4月28日、妻の郷里で長男の桓(たけし)が生まれた。11月、妻子が上京したが、同居せずに、東京に住まわせた。女性関係のためだったらしい。

 昭和9年3月、大学院を中退。9月、激しい喘息の発作があった。

 昭和10年6月、中区に家を借りて、初めて妻子と共に住んだ。

 昭和11年2月、シャリアピンの独唱公演を聴いた。4月、ケンプのピアノ演奏会とシモン・ゴールドベルクのバイオリン演奏会に行った。4月25日、継母のコウが死去。5月、ケンプのピアノを聴きに行き、さらにジャック・ティボォのバイオリンを聴きに行った。

 昭和12年1月11日、長女の正子が未熟児で生まれたが、2日後に死去。5月1日、ヘレン・ケラーの講演を聞きに行った。

 昭和14年、喘息の発作がますます激しくなった。

 昭和15年1月31日、次男の格(のぼる)が生まれた。7月頃、『宝島』を書いた英国の作家スティヴンスンの著作や伝記を読み出した。

 昭和16年3月末、横浜高女を休職。彼の代わりに父の田人が勤務。6月、友人の釘本久春の斡旋で南洋庁に就職する。7月6日、パラオに到着。仕事は植民地用の国語教科書を作るための準備と調査であった。

 昭和17年3月4日、東京出張の許可が出た。3月17日、東京に到着。妻子の待つ世田谷の父の家に帰った。気候激変のため激しい喘息と気管支カタルを発した。7月15日、最初の小説集『光と風と夢』が出版された。8月7日、その印税で妻子に着物を買い、一家で妻の郷里を訪れた。11月15日、『南島譚』が出版された。心臓の衰弱が激しくなり、世田谷の岡田病院に入院。12月4日午前6時、死去。享年33。

 

◎『名人伝』

 これは、中島敦が書いた最後の小説です。激しい喘息の発作に苦しみながら、彼は死ぬ2カ月前の10月に『名人伝』を書き上げました。

 私は『名人伝』が大好きです。この奇妙な物語はこんな風に始まります。

 「趙の邯鄲の都に住む紀昌という男が、天下第一の弓の名人になろうと志を立てた。己の師と頼むべき人物を物色するに、当今、弓矢を取っては、名手・飛ひ衛に及ぶ者があろうとは思われぬ。百歩を隔てて柳葉を射るに百発百中するという達人だそうである。紀昌ははるばる飛衛を訪ねてその門に入った」

 師匠の飛衛は新入りの門人に「瞬またたきをしないで、目を開けっ放しにすることを学べ」と命じた。2年後、熟睡している時でも、紀昌の目はカッと大きく開いたままになった。彼の目の睫毛と睫毛の間に小さな蜘蛛が巣を架けた。彼は師の飛衛にこれを告げた。飛衛は言った。「瞬かざるのみでは、まだ射を授けるに足りぬ。次には、見ることを学べ。見ることに熟して、小を見ること大のごとくなったならば、来たって我に告げるがよい」

 紀昌は家に戻り、肌着から虱を一匹探し出して、髪の毛に繋いだ。それを窓に懸け、終日睨み暮らすことにした。10日後には、ほんの少し大きく見えてきた。3カ月後には、蚕ほどの大きさに見えてきた。3年後、窓の虱が馬のような大きさに見えた。彼は外に出た。人間が塔のように見えた。馬は山のように見えた。家に戻った紀昌は、窓際の虱に立ち向かい、弓で射った。矢は見事に虱の心臓を貫いた。

 紀昌は師のもとに赴いて報告した。師の飛衛は「でかしたぞ」と褒めた。そして、射術の奥義秘伝を授け始めた。目の基礎訓練に5年もかけた甲斐があって、紀昌の腕前はすぐに上達した。もはや師から学び取るものが無くなった紀昌は、師を殺して、天下第一の名人になろうとした。野原で飛衛の姿を見つけた彼は、矢を取って狙いをつけた。気配を察した飛衛も弓を取った。二人の放った矢は、空中で当たって、ともに地に落ちた。二人は互いに駆け寄り、野原の真ん中で相抱いて、しばし美しい師弟愛の涙にかきくれた。

 師は言った。「これ以上道を極めたければ、大行山脈に住む甘蝿老師を訪ねて学べ」

 紀昌は旅立った。甘蝿老師は、羊のような柔和な目をした、よぼよぼの爺さんだった。来意を告げた後、紀昌は弓を手に取り、矢をつがえ、空高く飛ぶ渡り鳥の群れに狙いを定めた。5羽の大鳥が落ちてきた。老師が微笑して言った。「一通りできるようじゃな。だが、それは射の射というもので、お前はまだ不射の射を知らぬと見える」

 老師は紀昌を絶壁に連れて行き、岩の上に乗って弓を射るように言った。微かに揺れる石の上に立って矢を射ようとした紀昌は、脚がワナワナと震え、汗が流れた。老師が代わって石の上に立った。空の高いところに一羽の鳶が輪を描いていた。老師は、見えざる矢を無形の弓につがえてひょうと放った。鳶は石の如くに落ちて来た。

 9年間、紀昌はこの老名人のもとに留まった。山から下りて40年後、彼は静かに世を去った。死ぬ2年ほど前、彼は弓を見て、それが何の道具なのか分からなかった。

 弓という名も、その使い道も、すっかり忘れてしまっていたのだった。

 

■杉本武之プロフィール

1939年 碧南市に生まれる。

京都大学文学部卒業。

翻訳業を経て、小学校教師になるために愛知教育大学に入学。

25年間、西尾市の小中学校に勤務。

定年退職後、名古屋大学教育学部の大学院で学ぶ。

〈趣味〉読書と競馬

 

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◎中島敦(その2)

 

 前回に続いて、33歳の若さで亡くなった作家の生涯を辿ってみましょう。

〈中島敦の略年譜〉

(一高入学から死去まで)

 昭和2年(1927)4月、寄宿舎・明寮六番に移り、隣室の氷上英広と親しくなる。8月、満州で肋膜炎に罹り、大連の満鉄病院に入院。1年間休学することになった。その後、日本に戻って別府や千葉県で療養した。

 昭和3年4月、一高に復学。寮を出て、伯父の縁で渋谷の弁護士・岡本武尚邸に寄寓した。この頃から喘息の発作に苦しめられるようになる。

 昭和4年4月、一高の文芸部委員になり、『校友会雑誌』の編集に加わった。夏、岡本邸を出て、芝のアパートに移った。秋、釘本久春、氷上英広、吉田精一らと季刊同人雑誌『しんぽしおん』を興した。

 昭和5年3月、異母妹の睦子が大連で病死。一高を卒業。4月、東京帝国大学文学部国文科に入学。ダンスや将棋や麻雀に熱中する。

 昭和6年3月、麻雀荘で働いていた橋本タカと初めて会う。タカは愛知県碧海郡依佐美村(現・安城市)の橋本辰次郎の三女で、中島敦とは同じ年齢であった。

 昭和7年、春、タカには結婚を約束した男がいて、一悶着があったが、何とか解決して、タカとの結婚の話が固まった。秋、朝日新聞社の入社試験を受けたが、身体検査で不合格。

 昭和8年3月、東大を卒業。4月、同大学院に入学。研究テーマは「森鴎外の研究」。祖父・撫山の門下生であった田沼勝之助が理事長をしていた横浜高等女学校の教諭となって単身赴任。1年4組(66人)の担任。国語、英語、歴史、地理を担当し、週に23時間も受け持った。同僚に、その後有名な歌手になった渡辺はま子や英語学者の岩田一男がいた。4月28日、妻の郷里で長男の桓(たけし)が生まれた。11月、妻子が上京したが、同居せずに、東京に住まわせた。女性関係のためだったらしい。

 昭和9年3月、大学院を中退。9月、激しい喘息の発作があった。

 昭和10年6月、中区に家を借りて、初めて妻子と共に住んだ。

 昭和11年2月、シャリアピンの独唱公演を聴いた。4月、ケンプのピアノ演奏会とシモン・ゴールドベルクのバイオリン演奏会に行った。4月25日、継母のコウが死去。5月、ケンプのピアノを聴きに行き、さらにジャック・ティボォのバイオリンを聴きに行った。

 昭和12年1月11日、長女の正子が未熟児で生まれたが、2日後に死去。5月1日、ヘレン・ケラーの講演を聞きに行った。

 昭和14年、喘息の発作がますます激しくなった。

 昭和15年1月31日、次男の格(のぼる)が生まれた。7月頃、『宝島』を書いた英国の作家スティヴンスンの著作や伝記を読み出した。

 昭和16年3月末、横浜高女を休職。彼の代わりに父の田人が勤務。6月、友人の釘本久春の斡旋で南洋庁に就職する。7月6日、パラオに到着。仕事は植民地用の国語教科書を作るための準備と調査であった。

 昭和17年3月4日、東京出張の許可が出た。3月17日、東京に到着。妻子の待つ世田谷の父の家に帰った。気候激変のため激しい喘息と気管支カタルを発した。7月15日、最初の小説集『光と風と夢』が出版された。8月7日、その印税で妻子に着物を買い、一家で妻の郷里を訪れた。11月15日、『南島譚』が出版された。心臓の衰弱が激しくなり、世田谷の岡田病院に入院。12月4日午前6時、死去。享年33。

◎『名人伝』

 これは、中島敦が書いた最後の小説です。激しい喘息の発作に苦しみながら、彼は死ぬ2カ月前の10月に『名人伝』を書き上げました。

 私は『名人伝』が大好きです。この奇妙な物語はこんな風に始まります。

 「趙の邯鄲の都に住む紀昌という男が、天下第一の弓の名人になろうと志を立てた。己の師と頼むべき人物を物色するに、当今、弓矢を取っては、名手・飛ひ衛に及ぶ者があろうとは思われぬ。百歩を隔てて柳葉を射るに百発百中するという達人だそうである。紀昌ははるばる飛衛を訪ねてその門に入った」

 師匠の飛衛は新入りの門人に「瞬またたきをしないで、目を開けっ放しにすることを学べ」と命じた。2年後、熟睡している時でも、紀昌の目はカッと大きく開いたままになった。彼の目の睫毛と睫毛の間に小さな蜘蛛が巣を架けた。彼は師の飛衛にこれを告げた。飛衛は言った。「瞬かざるのみでは、まだ射を授けるに足りぬ。次には、見ることを学べ。見ることに熟して、小を見ること大のごとくなったならば、来たって我に告げるがよい」

 紀昌は家に戻り、肌着から虱を一匹探し出して、髪の毛に繋いだ。それを窓に懸け、終日睨み暮らすことにした。10日後には、ほんの少し大きく見えてきた。3カ月後には、蚕ほどの大きさに見えてきた。3年後、窓の虱が馬のような大きさに見えた。彼は外に出た。人間が塔のように見えた。馬は山のように見えた。家に戻った紀昌は、窓際の虱に立ち向かい、弓で射った。矢は見事に虱の心臓を貫いた。

 紀昌は師のもとに赴いて報告した。師の飛衛は「でかしたぞ」と褒めた。そして、射術の奥義秘伝を授け始めた。目の基礎訓練に5年もかけた甲斐があって、紀昌の腕前はすぐに上達した。もはや師から学び取るものが無くなった紀昌は、師を殺して、天下第一の名人になろうとした。野原で飛衛の姿を見つけた彼は、矢を取って狙いをつけた。気配を察した飛衛も弓を取った。二人の放った矢は、空中で当たって、ともに地に落ちた。二人は互いに駆け寄り、野原の真ん中で相抱いて、しばし美しい師弟愛の涙にかきくれた。

 師は言った。「これ以上道を極めたければ、大行山脈に住む甘蝿老師を訪ねて学べ」

 紀昌は旅立った。甘蝿老師は、羊のような柔和な目をした、よぼよぼの爺さんだった。来意を告げた後、紀昌は弓を手に取り、矢をつがえ、空高く飛ぶ渡り鳥の群れに狙いを定めた。5羽の大鳥が落ちてきた。老師が微笑して言った。「一通りできるようじゃな。だが、それは射の射というもので、お前はまだ不射の射を知らぬと見える」

 老師は紀昌を絶壁に連れて行き、岩の上に乗って弓を射るように言った。微かに揺れる石の上に立って矢を射ようとした紀昌は、脚がワナワナと震え、汗が流れた。老師が代わって石の上に立った。空の高いところに一羽の鳶が輪を描いていた。老師は、見えざる矢を無形の弓につがえてひょうと放った。鳶は石の如くに落ちて来た。

 9年間、紀昌はこの老名人のもとに留まった。山から下りて40年後、彼は静かに世を去った。死ぬ2年ほど前、彼は弓を見て、それが何の道具なのか分からなかった。

 弓という名も、その使い道も、すっかり忘れてしまっていたのだった。